2017年1月31日火曜日

長崎原爆の直後の照準点上の被災航空写真

長崎原爆は1945年8月9日、午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500mで爆発した。その長崎原爆の直後の被災状況の航空写真である。爆心地は長崎港から浦上川の上流に約2..5kmであり、航空写真の左上端の浦上川流域である。野戦命令17号では本来の照準点114016では中島川の途上の賑橋上であった。そのために主に長崎湾一帯から中島川の賑橋の照準点を焦点にした航空写真となる。左上端の爆心地の周辺は完全に一瞬で灰燼状態となる。長崎市は東西が山に囲まれて、家屋の全焼全壊の被災地は長崎港までの南東約2.5kmまで到り、広島原爆の約2kmよりも延長した。被災は半壊にまでの被災は爆心地より南方約4kmまで及んだ。



2017年1月29日日曜日

広島原爆翌日の総てが壊滅した航空写真

広島原爆が投下された1945年8月6日の翌日に、アメリカ軍の写真偵察用の航空機が8月7日に飛来した。約9000mの高度から広島市内の被爆状況の航空写真を撮影した。広島原爆のリトル・ボーイの予定爆心地であった広島市内の中心部の相生橋から南東約300mの島病院の爆心地の上空約600mので炸裂した。爆心地から約2m四方はほとんど全壊と全焼となった。特に太田川は広島城から西に分枝した天満川となり、本流は相生橋から西に、東に分枝した元安川の下流の周囲一帯は総て壊滅状態となった。





2017年1月26日木曜日

長崎原爆のきのこ雲の発生のカラー画像

長崎原爆となるファト・マンを投下したボックスカー(V77)は、一連のきのこ雲までの発生過程をカラー映画で撮影した。日時は1945年8月9日10時55分、高度2438mと記載する。プルトニウム原爆が核分裂して炸裂し、朱色や黄色の多彩色の火塊が回転と膨張しながらきのこ雲が発生した。火球は太陽の表面温度を越して急上昇して急冷却し、外気を取り込みきのこ雲を形成する。爆発の威力は、高性能TNT爆薬の2,200トンに相当した。核分裂で放出された放射線が、空気中の原子に衝突して高エネルギーを発生して上昇気流を起こす。






2017年1月25日水曜日

広島原爆の炸裂15分後のきのこ雲の航空写真

広島原爆であるリトルボーイがエノラゲイB-29から広島市内の中心部に投下された。1945年8月6日午前8月15分に広島市に炸裂した。その直後から15分後の航空写真には広島市内の全体が原子爆弾により爆裂した。中心部の赤い茎から紫色の炎とキノコ雲が燃え上がる。高度は9400mから目視による照準で落下傘で投下された以上の高度までキノコ雲が舞い上がる。原爆による爆風により広島市内は全壊ならびに黒煙に覆われて一気に全焼した。右下が広島市の東南端から左下の西南端は軍事工場群である。



2017年1月23日月曜日

アメリカ軍が作成した長崎原爆の3日後の被爆状況図

アメリカ軍は長崎原爆の被害状況図を作成した。アメリカ軍の戦略爆撃調査団が、長崎原爆投下の3日後の1945年8月12日に撮影した長崎市の航空写真と地上調査に基づき作成した。人口密度は濃淡2色に色分けした上に、被爆地域を爆風と火災による5つの被爆状況に分類した。青が全壊、ピンクが全壊全焼、橙色が全焼、青緑が半壊、青緑の斜線が建物疎開、紫はその他の地域を示した。爆心地からの距離を350mごとに同心円で示した。






2017年1月21日土曜日

広島原爆の被災地図と人的被災と物的被災の実態

 広島市内における1945年8月6日に炸裂した広島原爆の被害状況の地図である。1945年11月30日の広島県警本部の発表によれば、広島市内の利用面積は3,306万㎡のうち被災面積は3,341万㎡(92%)、焼失面積は1,322万㎡(40%)に達した。民間人の人的被害状況は、死者は78,150人、重傷者9,428人、軽症者27,997人、行方不明3,983人、被災者176,987人で合計306,645人に及ぶ。赤半線内は焼失地域であり、建物数の76,327戸うち92%が被災して、全焼戸47,969戸、全懐戸3,818、半焼半壊18,369戸であった。赤半線内は焼失地域であり、広島市細工町19番地の爆心地から、青半線は爆心地より半径0.5km, 1km, 1.5km, 2.0km, 2.5km, 3.0km, 3.5km, 4.0kmの各500mの範囲の距離を示した。赤丸◯は軍隊諸部隊と青丸◯は救急救護所の配置である。(広島原爆医療史、1961年)


2017年1月19日木曜日

長崎市はポツダム宣言の直前から原爆目標に追加

長崎原爆投下する作戦計画のために多数の航空写真をモザイクのように組み合わせて、長崎市内の攻撃目標を1945年7月に策定した。7月26日のポツダム宣言の直前の7月24日に長崎市が初めて原爆目標にされた。長崎原爆であるファット・マン(F31)の投下目標地点を示している。長崎市内の三菱製鋼・兵器工場であるNo.90.36-546を攻撃目標とした。写真上の114601である常盤橋を落下の照準地点とした。常磐橋から賑橋の周囲から7,500フィート(約2.3Km)の南北約2.5Km, 東西約1.5Kmの爆撃地帯を示した。航空図面はボックス・カー(V-77)のB-29の操縦者、爆撃投下者、観測者等が使用した。8月9日の投下地点は照準点から北北西約3.4Kmも離れた地点である松山町171番地上で炸裂した。



2017年1月17日火曜日

広島原爆の投下目標がモザイク航空写真策で策定された

広島原爆投下する作戦計画のために多数の航空写真をモザイクのように組み合わせて、広島市内の航空写真を1945年4月に策定していた。7月16日に原爆実験が成功する3月以前から広島市が原爆目標計画にされた。広島原爆であるリトル・ボーイの投下地点を示して、広島市内の相生橋である目標基準をNo.90.30と指定した。相生橋を中心(東西の目盛: 063, 南北の目盛: 096)として半径70,00フィート(2.13Km)の同心円を描いている。航空図面はエノラ・ゲイB-29の操縦者、爆撃投下者、観測者等が使用した。



2017年1月14日土曜日

原子爆弾の投下は科学的実験記録も第一目標

長崎原子爆弾を搭載したボックス・カー(Bocks・Car)には、写真撮影機が1機と観測記録機の1機が随伴した。長崎原爆の画像と動画を撮影することを目的した。原爆の威力を観測して記録する目的で科学要員を搭載することを投下命令書の第一命令とした。長崎原爆の投下直前に落下傘で落下した観測記録ゾンデが長崎市内で発見された。威力・爆圧・熱温・放射能等を測定した。終戦後に米軍は直ちにゾンデを回収して極秘資料とした。




2017年1月11日水曜日

正式な戦争省から原子爆弾の投下命令書

アラモード砂漠で1945年7月16日に原子爆弾の実験が成功した。その9日後の7月25日にアメリカ合衆国戦争省の陸軍長官と参謀総長の承認に基づき、正式な原爆投下命令書が降った。陸軍参謀総長代理の統合参謀本部のトーマス・T・ハーディが、グアムに向かう陸軍戦略航空軍の司令官のカール・スパーツ将軍に対して原爆投下の命令書を策定した。9日後の8月3日から天候の次第で、目標である広島・小倉・新潟・長崎の一つに最初の特殊爆弾を目視による原爆投下を命令した。










2017年1月9日月曜日

長崎原爆が炸裂した落下中心碑

長崎原子爆弾爆が炸裂した中心地に立つ原爆落下中心碑である。中央の標柱は爆心地を示し、高さ6.6mの三角柱で、1968年に第2代目に建て賛えらた。1945年8月9日、午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500mで爆発した。瞬間の爆発点の温度は摂氏数百万度に達し、爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球を形成した。火球は爆発1秒後には最大となり、半径約240mまで膨張し、爆発直後の爆心地の地表の温度は、約3,000~4,000度に達した。


2017年1月8日日曜日

広島原子爆弾となるリトル・ボーイの搭載

  広島原子爆弾を投下したB-29の爆撃機エノラ・ゲイに搭載をする直前のピット内に設置されたウラニウム型原子爆弾のリトル・ボーイであった。それは人類史上で初めて核戦争で使用された。リトル・ボーイは全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5000Kgでウラニウム235で製造された。リトル・ボーイは予備核実験がされずに実戦使用したために機密に取り扱われた。エノラ・ゲイは爆弾倉を開いて、ピット上に後方から移動して停止した。リトル・ボーイ原爆本体はピット内から油圧ジャッキで持ち上げられてエノラ・ゲイ機内の爆弾倉へ搭載された。






2017年1月6日金曜日

長崎原爆で使用されたファットマンの実物

長崎原爆で使用されたファット・マンと呼ばれたプルトニウム型の原子爆弾の実物である。爆発の威力は、広島原爆で使用されたウラニウム型の原子爆弾よりも僅かに強力であった。人類史上の最初の原子爆弾のトリニティ実験は、ファット・マンを用いた。重量は4,670Kg、全長3.66m、爆発威力はTNT火薬の約22,000Kgに相当した。多数の関係者はファット・マンの尾翼に署名をして自己顕示と名誉を示した。



2017年1月3日火曜日

核実験の成功から核戦争時代の幕開け

1945年7月16日にアメリカ合衆国のアラモゴード砂漠にて人類史上で初めての原子爆弾の実験に成功する。世界で最初の人工的な原子爆弾が午前5時29分45秒に炸裂させた。爆心地はニューメキシコ州ソコロの南東48Kmの地点であった。このトリニティ実験の名称は、キリスト教の三位一体説のトリニティから引用された。この時点から人類の歴史で初めて核戦争の時代に突入した。広島原爆のウラン235ではなく長崎原爆のプルトニウムを内蔵したガジェットの名称の核爆弾で核実験の爆発をさせた。







2017年1月1日日曜日

人類初の核戦争にて広島原爆の炸裂

人類初の核戦争にて1945年8時15分に日本の広島市に原子爆弾が炸裂した。原爆搭載機のエノラ・ゲイからリトル・ボーイの原子爆弾が広島市の目標地点である相生橋に向けて投下された。その近隣である広島市細工町19番地の島病院の上空の580mで爆裂した。