2023年1月28日土曜日

1945年9月16日に、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近で、廃墟の中で仮設の建物の屋外で、即席の野外コンロで調理する母親と子どもの姿が見えた。

 1945年9月16日、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近でアメリカ軍が撮影した写真である。屋外で調理する人々の姿が見える(写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局)。長崎原子爆弾の爆心地付近の廃墟で、母親と子どもが生活していた。中央の壁がない仮設の建物の下で眠り、即席の野外コンロで調理していた。

 多くの被爆者が避難し、田舎や離島でより困窮しない生活を求めて、何日も何週間も歩き続けた。遠い親類縁者との生活に耐えかねて、同じ苦悩をする被爆者に囲まれた長崎市に戻る人もいた。ホームレスの被爆者は、薄っぺらな小屋に住み、土間や瓦礫の中の畳の上で寝た。家具もない一部屋に約15人も住むこともあった。水道は不全で、山から湧き水を汲んで、雨水を溜めて沸かして飲んだ。トイレもなく、小屋の外に穴を掘って、木の板で覆った。浴槽もなく、大きなドラム缶でお湯を沸かし、立ったまま入浴した。冬の風に、家族は衣類や毛布をたくさん重ね着し、傘をさして薪ストーブを囲み、屋根から落ちる雨やみぞれ、雪を防いだ。真っ暗な夜、廃墟を歩く被爆者は、ガラスの破片、古い釘、木片、割れた瓦などで足を切った。

 長崎市内の福祉施設はまだ稼働せず、多くの孤児が路上生活を余儀なくされた。カトリックのノートルダム修道院の修道士らが約100人以上の孤児を引き取り、秋月博士の第一浦上病院などが無料の医療を提供した。救護班が身元不明の赤ん坊を養子にした。行き場のない少女たちは売春をし、孤児となった少年たちは、数ヶ月から数年間、一人または二人で駅や橋の下に住み、物乞い、盗み、食物を探し、鉄道当局や地元の警察から厄介者扱いされながら、地域を徘徊した。妊婦は、胎内で被曝して死ぬ、奇形児が生まれるという噂におびえ、医師や助産婦の手を借りずに廃墟の中で出産した。実際に、子宮内被曝児の死亡率は高かった。爆心地から約500m以内の妊婦は約43%の確率で自然流産、死産、乳児突然死を起こした。




2023年1月21日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。

 長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である1945年8月10日早朝における長崎市西中町に長崎市民らが肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊した(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。




2023年1月14日土曜日

広島逓信病院の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、病室前で撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日土曜日午前8時15分に投下され炸裂して、広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、被爆者治療の陣頭指揮を取った(ヒロシマ日記、法政大学出版会)。焼け落ちたヒロシマ逓信病院の病室前で、蜂谷道彦院長は撮影された。8月11日に抜糸して、蜂谷道彦院長はヒロシマ逓信病院内を動けるようになり、さっそく院内回診、被爆患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するように指示した。

 1945年8月6日土曜日の朝、突然と周囲が明るくなり、強い光がすうすうと二度つづけて強い光が差し込んだ。右太腿に棒切れが突き立った。血が胸を伝って流れ出し、右首に刺さったガラスを引き抜いた。頸動脈の付近から血が吹き出した。頸動脈ならもう駄目と観念した。丸裸になって屋内から飛び出した。自宅が、土煙をたてて倒壊した。

 広島逓信病院に避難するも、右下肢が重く、喉がかわき、息切れがした。近くの街角で、兵隊からタオルを貰って腰に巻き、家内のエプロンを取って前にかれてふんどしにした。全身が血みどろになった。右大腿の肉の塊が引きちぎれて出血した。無我夢中に、薄明かりでコンクリート建て広島逓信病院に辿りついた。幽霊のような姿の被爆患者がうろうろしていた。周囲には無言の死体が散乱していた。玄関の待合には、無数の被爆患者が詰めかけた。無理やり担架に載せられて小遣い室の部屋に搬送された。

 静寂の凄惨が、俄然に一変して、現実が阿鼻叫喚となった。病院内が、戦場のように騒々しく唸った。熱風と火の粉が落ちて寝衣が炎上した。四階建ての広島逓信病院の窓から火が吹き出した。渦を巻いて風が一変した。道を隔てて向こうは火の海となった。広島逓信病院のコンクリートの鉄の窓が、焔の中で真赤に揺れた。見通しのきく北側や東側は見渡す限り焼け野原となった。8月6日夕暮れに硬い台上で、身体を次々と約30ヵ所縫合された。





2023年1月7日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して約23人が即死、旧福屋1階の東消防署は全焼して約24人が即死して、消防機能は全廃となり、広島市内から多数の黒い煙の火炎が市内から立ち昇った。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して、直後から発生した火炎によって、全てが焼失して灰塵に帰した。爆心地から南南東約2.6kmにあった西消防署庁舎の建物は、1945年4月に設置された木造3階建ての新庁舎は崩壊した。焼跡中央部に見えるのは、無残にも焼けただれたはしご車である。西消防署の倒壊から炎上によって、西消防署の署員の約23人が即死して、その後に約34人が原爆死した。消防車は約8台が焼失した。














 東消防署は、広島原子爆弾に被爆した直後に、爆心地から東に約700mの旧福屋内の耐火性の建物内は全焼して、建物の構造は留めた。被爆によって、署員の約24人が即死して、約16人がその後に原爆死した。消防車は約7台が焼失した。消防車は無残にも焼き焦げた。すべてのタイヤは、焼失していた。東消防署の消防機能は、全く停止して、消防活動も不可となった。









   

広島市の消防の本拠地として、大手町に西消防署、八丁堀の旧福屋1階に東消防署があった。甚大なる建造物の崩壊、火炎、火傷などが瞬時に同期した。本拠地の消防機能は焼失して、火炎が各地で散乱した。特に壊滅的な被害は、爆心地に近い西消防署と東消防署に及んだ。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の閃光に続いて激烈な爆風が通過して直後に、広島市内から黒い煙の多数の筋が市内から立ち昇った。午前10時から午後2時までが、火炎が最も強力であった。夕方から火炎は萎縮するも、その後も約3日間燃え続けた。 


 広島市の比治山には、殉職消防組員之碑が建立されている。この碑は、被爆以前には、水主町武徳殿に設置されていた。原子爆弾によって三つに割れた碑を、1950年11月に修復して比治山に移管され、約785柱が合祀された。