Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会

Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会: 日本平和市民が原爆の悲惨な体験をした「日本思い出の原子爆弾」の真実を授けたい。日本原子爆弾の代弁者として多くの世界平和市民の心に送りたい。いつかの時代も、原子爆弾の加害者と被害者にされるのは市民です。原子爆弾を知らない世代の平和市民に「思い出の原爆」の真実を覚えてほしい。原爆と平和市民の真実を記録するブログには、その関心や意義だけではなく、JNAB の掲載に対する閲覧注意[NSFW]も慎重に留意してください。「思い出の原子爆弾」の真実は平和市民による原子爆弾禁止の真の抑止力となります。 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会 japan.atomic.bomb@gmail.com https://sites.google.com/view/japanatomicbomb/ @Aug/6/2016, JNAB [NSFW: Not Safe For Work]

Japan No Atomic Bomb (JNAB)  日本原爆禁止の会
2019年9月29日日曜日

広島日赤病院は、医師約6人と看護婦約10人のみで殺到する広島原爆の被爆者を外来診療した。(広島)

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広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦...
2019年9月22日日曜日

長崎原爆の爆心地に最も近い城山国民学校では、労働者らの約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。(長崎)

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長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。 ...
2019年9月14日土曜日

広島原子爆弾に被爆した約2ケ月後に、母親が重態の男児を抱いて、大芝国民学校に駆け込むも、すでに息がなく死亡していた。(広島)

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広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息が...
2019年9月7日土曜日

広島原子爆弾が投下日に広島市北部の安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。(広島)

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1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して...
2019年8月27日火曜日

広島原子爆弾の爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。(広島)

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広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。特に、衣服で遮断されずに、直接に両方の下腿の背面が重度の熱傷を被爆した。皮膚の熱傷した後に、ケロイドが形成されて瘢痕が残存した。 ...
2019年8月22日木曜日

フランスは、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で水中の核実験を実施した。

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フランスが、1995年9月5日から1996年1月27日までに、6回もの太平洋の環礁核実験を再開した。初回の9月5日は、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で核実験を実施した。核実験をした直後に、広大な海面が白濁した。「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の無期限延長が...
2019年8月18日日曜日

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線により、男性は露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。(広島)

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広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。 救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。  原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し...
2019年8月14日水曜日

カトリック教徒の有名人である永井隆は、長崎原爆の荒野を散策して、原爆を神に感謝すべきと信者に説教した。(長崎)

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長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士となった永井隆が、1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂により崩壊した長崎市内の爆心地の周辺の荒野を1948年4月に散策していた。その数日後に原爆症で死亡した。  永井隆は、被爆前の1945年6月に白血病に...
2019年8月10日土曜日

青年被爆者は帽子から露出した顔面が、広島原爆で焼き尽くされ帽子の跡が残った。(広島)

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広島原子爆弾の炸裂により、青年被爆者は皮膚の色素が脱出した顔面の火傷を被爆した。帽子から露出した顔面から頸部の皮膚は、広島原子爆弾からの熱線と原爆放射能によってすべて焼き尽くされて、帽子をかぶっていた跡が残った。  原子爆弾が人体に与える障害や損傷を、原子爆弾症(傷...
2019年8月7日水曜日

長崎原子爆弾の爆心地近くの山里町で、母親とおんぶした子どもが、廃墟にしばらく爆心地付近に立ったまま動かなかった。(長崎)

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長崎市の爆心地近くで、母親とおんぶした子どもが1945年8月30日に、廃墟でしばらく爆心地付近に立ったまま動かなかった。長崎市にいた親族を探すため、原爆が落とされた山里町に向かい、焼け焦げた山里町を歩き回った。長崎原子爆弾は、中央後方の立ち木の上空約500mで爆発した。せん...
2019年8月3日土曜日

長崎原子爆弾により火傷した少年は、新興善臨時救護所で火傷の治療を受けガーゼの付け替えによる疼痛で泣いた。(長崎)

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長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。顔面から上半身を火傷した少年は、新興善臨時救護所で火傷の治療を受けながらガーゼ交換による激しい疼痛により泣いた。赤く焼けただれた火傷から肩から骨が露出していた。  新興善国民学校は爆心地から南南東約3.0...
2019年8月1日木曜日

広島原子爆弾に被爆1カ月後に原爆症を発病した母親と娘が救護所で巡回診療を受けた。(広島)

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広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から北に約2.4kmにある大芝国民学校が、倒壊と焼失を免れて、8月7日から臨時救護所となった。学校の教室の片隅に、板間のゴザ上に、布団を引いて、毛布をかけて母親と娘が寝込んでいた。医師と看護婦の巡回診療を1945年10月11...
2019年7月20日土曜日

ソ連は1961年10月30日に人類の歴史上で、最も強力な核兵器である水爆をノーヴァヤ・ゼムリャー島で爆発させた。

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ソ連は、1960年代初頭に連続して水素爆弾の核実験をした。1961年10月30日午前3時30分に、ソ連は人類の歴史上で、最も強力な核兵器を爆発させた。北極に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島で核実験された核爆弾は、TNT爆弾で約58メガトンに相当した。爆弾は核融合段階で、さらに...
2019年7月14日日曜日

長崎原子爆弾により這って出る姿のまま黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。(長崎)

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長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれ...
2019年7月6日土曜日

袋町国民学校に救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、肉親を探し求めた多くの伝言が残っていた。(広島)

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広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎...
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