Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会

Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会: 日本平和市民が原爆の悲惨な体験をした「日本思い出の原子爆弾」の真実を授けたい。日本原子爆弾の代弁者として多くの世界平和市民の心に送りたい。いつかの時代も、原子爆弾の加害者と被害者にされるのは市民です。原子爆弾を知らない世代の平和市民に「思い出の原爆」の真実を覚えてほしい。原爆と平和市民の真実を記録するブログには、その関心や意義だけではなく、JNAB の掲載に対する閲覧注意[NSFW]も慎重に留意してください。「思い出の原子爆弾」の真実は平和市民による原子爆弾禁止の真の抑止力となります。 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会 japan.atomic.bomb@gmail.com https://sites.google.com/view/japanatomicbomb/ @Aug/6/2016, JNAB [NSFW: Not Safe For Work]

Japan No Atomic Bomb (JNAB)  日本原爆禁止の会
2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

›
1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日...
2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

›
2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送...
2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

›
1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ ( Chernobyl) 原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラ...
2022年2月26日土曜日

25人の広島の原爆乙女が身体的顔貌の醜状で、18か月以上もニューヨークのマウントサイナイ病院で約138回も形成外科を受けた。

›
1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身...
2022年2月19日土曜日

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者は、広島赤十字病院にてガーゼにリバノールを塗る火傷の処置を受けた。

›
広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者の佐々木忠孝が、1945年10月5日から6日にかけて、爆心地から約1,500mの広島赤十字病院に収容されて火傷の処置を受けた。ガーゼにリバノールを塗るだけの治療だった。火傷の上でガーゼを交換するのは非常に激痛であった。広島赤十...
2022年2月12日土曜日

1945年9月20日頃から長崎で原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付き救護活動をした。

›
  長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。  ...
2022年2月5日土曜日

ABCCは、広島原子爆弾のケロイドの瘢痕がある女子と男子と認識番号を撮影した。顔面にケロイドが膨隆した若い女性は、髪を結い上げられて写真を撮影された。

›
ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけ...
2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

›
吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1...
2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

›
長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮...
2022年1月15日土曜日

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年の健二が、二次放射能による残酷な急性髄質白血病により12歳で死亡した。

›
広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富...
2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

›
広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけ...
2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

›
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて...
2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

›
  1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛...
2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

›
広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以...
2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

›
広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤...
‹
›
ホーム
ウェブ バージョンを表示

Japan No Atomic Bomb: JNAB 日本原爆禁止の会

自分の写真
Japan No Atomic Bomb (JNAB)
詳細プロフィールを表示
Powered by Blogger.