Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会

Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会: 日本平和市民が原爆の悲惨な体験をした「日本思い出の原子爆弾」の真実を授けたい。日本原子爆弾の代弁者として多くの世界平和市民の心に送りたい。いつかの時代も、原子爆弾の加害者と被害者にされるのは市民です。原子爆弾を知らない世代の平和市民に「思い出の原爆」の真実を覚えてほしい。原爆と平和市民の真実を記録するブログには、その関心や意義だけではなく、JNAB の掲載に対する閲覧注意[NSFW]も慎重に留意してください。「思い出の原子爆弾」の真実は平和市民による原子爆弾禁止の真の抑止力となります。 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会 japan.atomic.bomb@gmail.com https://sites.google.com/view/japanatomicbomb/ @Aug/6/2016, JNAB [NSFW: Not Safe For Work]

Japan No Atomic Bomb (JNAB)  日本原爆禁止の会
2022年12月31日土曜日

1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で治療を待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けた。

›
1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けていた。松本栄一が撮影した。8月6日の広島原子爆弾の炸裂した直後から、広島市内の被災の復興から、9月18日には、被爆者の死体や遺...
2022年12月24日土曜日

新興善国民学校の2階は、学校の教室がそのまま長崎原子爆弾の仮設病院になっていた。1945年9月上旬に未就学児とその家族が入所して手当を受けていた。

›
新興善国民学校の2階は、学校の教室がそのまま仮設病院になっていた。1945年9月上旬に未就学児とその家族が入所していた。新興善国民学校は、特設救護病院となった。入院して床の上に敷いた布団で被爆者の子どもが手当を受けた。顔面から頭部に火傷していた。朝日新聞西部本社のカメラマンだった...
2022年12月17日土曜日

比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにて火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者が避難した。広島県が8月7日に布告した救護所13カ所の一つに指定された。

›
比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにあって、火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者市民が避難した。広島県は、広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に布告した救護所13カ所の一つが比治山に指定された。教諭らも泊まり込んで救護を手伝った。火傷や負傷して...
2022年12月10日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。

›
長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。  アメ...
2022年12月3日土曜日

アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーンは、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを発症した女性を撮影した。

›
  原子爆弾によって焼かれ、死傷つけられた犠牲者の被爆者たちの恐ろしい苦痛を、原爆映画が映し出した。アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーン(Daniel McGovern)は、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを...
2022年11月26日土曜日

広島日赤病院の医師が、被爆者の耳介から血液を採取して、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主の若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。

›
広島原子爆弾による放射線被爆の影響で白血球の異常や減少が起こる症状が報道された。被爆者が血液検査を求めて広島日赤病院を受診した。医師が、被爆者の耳介から血液を採取した。医師が、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主になった若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表...
2022年11月19日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児の兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて素足で徘徊した。

›
長崎原子爆弾の炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児と思われる兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて、1945年10月頃に素足で徘徊していた。原爆で両親を亡くした子どもを原爆孤児と呼称した。原爆により約7,000人の原爆孤児が発生したと推測された。  アメ...
2022年11月12日土曜日

1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見され、氏名が判明者として左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。

›
広島藩主の浅野泉邸であった縮景園は、爆心地から北東約1.3kmの縮景園(広島市中区)は崩壊して灰塵に帰した。広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から避難した被爆者で満杯となった。しかし、次々に被爆者が縮景園で死亡した。被爆直後から、数多くの被爆者が縮景園似゜避難した...
2022年11月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、爆風と熱線で全焼して崩壊した。その外地には死んだ馬が県道に横たわった。

›
長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があ...
2022年10月29日土曜日

広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部における兵団軍医部があり、多数の重篤な被爆者が入所して、一部には蚊帳の中で療養していた。

›
広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部の暁第6167部隊があった。陸軍船舶司令部における兵団軍医部の医務関係の司令部であった。多数の重篤な被爆者が次々に入所して、一部には夏期の蚊帳の中で療養していた。被爆して日数が重なるのに従って、被爆者の収容人...
2022年10月22日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが呆然と立ちすくんでいた。

›
長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの...
2022年10月15日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mの浜口町の北端は崩壊して廃墟となり、炸裂した翌日に、長崎県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の婦人が見守った。

›
  長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南...
2022年10月8日土曜日

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年は、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわった。

›
1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年が、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわり原爆症により衰弱していた。医療関係者が参集して、終戦直後の8月10日に、新興善救護病院...
2022年10月1日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院の外来の診察室には、10月11日になっても多数の被爆者が殺到して来院した。

›
  広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から、大芝国民学校に設置された臨時特設病院に、被爆者が殺到した。工作室を代用して、多数の受信した被爆者に、救護者は10月11日に外来診療を施行した。被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対し...
2022年9月24日土曜日

広島原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、爆心地から約1500離れた広島日赤病院で残存した本館に殺到して、外来受診した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

›
  広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後から、原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、広島日赤病院に殺到した。その日赤病院に受信した被爆者に対する診療の状況が撮影された。  爆心地から約1500m離れた広島赤十字病院の瓦礫の中に、死者と瀕死の...
‹
›
ホーム
ウェブ バージョンを表示

Japan No Atomic Bomb: JNAB 日本原爆禁止の会

自分の写真
Japan No Atomic Bomb (JNAB)
詳細プロフィールを表示
Powered by Blogger.