長崎原子爆弾の爆心地から道ノ尾への間の人家の縁側で、翌日の8月10日に少年が被爆死してうつぶせで倒れていた。そこの家具や建具は爆風で全部が片方に寄せられて、火事はなかったかが、家中は空き家のようになった。
広島原子爆弾の炸裂により、爆熱により重度の火傷を被爆した兵士は救護された。爆心地から東約700mの臨時救護所となった福屋百貨店に直ちに搬入された。
長崎原子爆弾の炸裂による重度被爆者は、爆心地から南約3Kmにある長崎市興善町の新興善国民学校内の特別救護所に入所した。収容されるも、灯火もなく、消え入るような細い悲痛な泣き声が、夜毎に続いた。火傷だけでなく放射能障害により、急変して重篤で瀕死の状態となった。
広島原子爆弾の炸裂により、挺身隊に出勤中に女子学生は上半身にから正面にかけて熱線を浴びて瀕死の病状となった。陸軍船舶司令部の写真部が救護所にて死に至る直前を撮影した。
長崎原子爆弾の炸裂した威力によりと膨大な犠牲となった。被爆死した犠牲者があまりにも膨大なために、遺体はあちこちで野外で火葬された。遺族からの引き取り手もないままに、長崎市内の各地の空き地に遺骨は散在して8月下旬では放置されていた。
広島原子爆弾の1945年8月6日の炸裂により、女子中学生の挺身隊員が出勤して作業中に重度の火傷を被爆した。救護所に収容されてから8月末に全身火傷にて瀕死状態で苦悶していた。陸軍船舶司令部の写真部が収容所内で撮影した。
長崎原子爆弾の爆心地より北方約3.6kmの長崎本線の道ノ駅前に、多くの被爆者が集結した。そこで翌日の午後3時過ぎに被爆した母と乳児は治療のために放心状態で順番を待っていた。しかし、乳児には乳を吸う体力も失われていた。
広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。その約3時間後の11時頃に、爆心地から南南東約2.3kmの御幸橋西詰にて、宇品警察署の警官が食料油で応急手当ての救護活動をした。中学生や広島女子商業や広島一中の学校の生徒が周囲を囲んだ。原爆の被爆当日の写真は、同地の被爆者写真の2枚しかない。
長崎原子爆弾の爆心地から南に約2.2kmの長崎駅の周辺にて、両親をうしなって、弟が被爆して火傷を受け頭部は血まみれで凝固した。兄は翌日の朝7時頃に負傷した弟を背負ながら縁者や知り合いらを探した。
広島原子爆弾の爆心地から約1.0kmの戸外で被爆した。原子爆弾から3週間の受傷後の熱傷であった。顔面から前腕まで重度の火傷の原爆症となった。
長崎原子爆弾の爆心地から約200mの下ノ川鉄橋の北詰で電車が被爆して大破した。上空からの爆圧を受け地面からの反射圧で、電車の屋根を残して大破した。電車内の乗客は、線路側まで吹き飛ばされ被爆死した。翌日でも全焼の影響は少なく被爆状況が残存していた。
広島原子爆弾が炸裂してから直ちに救護隊は被爆死した膨大な遺体を広場に集めては火葬した。翌日には爆心地からは東約700mの臨時救護所となった福屋百貨店の西側に死体を運搬して集結した。被爆死者を火葬する煙は広島市内を何日間も立ち込めた。
長崎原子爆弾の爆心地から約110mと間近な長崎市松山町付近は全焼と全壊した。翌日にはその一帯には焼死して黒化して硬化した数多くの被爆遺体が散在した。逃避したり、つかみ、捻るような姿勢で硬化して周りには瓦が一面に飛び散った。中央は長崎製鋼所であり、稲佐山に連なる丘陵の手前では、長崎電鉄の架線支柱は残存していた。
2017年のノーベル平和賞は、International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN: 核兵器廃絶国際キャンペーン)が10月6日に受賞が発表された。授賞理由は核兵器の使用がもたらす壊滅的な人道上の結果に注意を向けさせた働きおよび、条約による核兵器禁止の実現に向けた多大なる尽力した。 ICANは世界およそ100か国のNGOによる連合であり、核兵器廃絶に向けた「人道の誓い」に賛同するよう世界の国々を動かす力になった。さらに2017年7月7日に122か国の賛成で採択された核兵器禁止条約については、ICANが市民社会での主導的な役割を担った。条約の発効には50か国以上の批准が必要となるが、既に 50か国以上が署名している。署名した各国は批准に向けて国内手続きを進めることになる。 ノルウェーノーベル委員会では、条約が核兵器を1つでも減らすことのできるものではなく、核兵器保有国やその同盟国が条約に賛成していないことを指摘したうえで、核兵器廃絶の取り組みは保有国も含めて進めていくべきだ。
一方で、アメリカやロシアなどの核兵器の保有国や、核の傘の日本などは条約に参加しない。
広島原子爆弾の爆心地から北東約700mにある西練兵場は壊滅的な被爆を受けた。広島原子爆弾の炸裂により青年兵士は猛烈な熱線と爆風圧を受けた死体となった。日本軍の中国軍管区司令部など諸隊員が集結していたが、全滅して死体の広場と様変わりした。
長崎原子爆弾の爆心地より、南方に約500m付近の浜口町にて、全壊して散在した破片上に焼死体が散在していた。被爆した焼死体は、翌日の午前中には爆風で吹き飛ばされて、爆熱で焼死して真っ黒に焦げて炭化していた。
広島原爆症により入院した佐々木禎子が1955年7月29日まで血液検査のメモ書きで7月18日には白血数が10万を越えて10月25日に白血病で死去する。名古屋の女高生から折り鶴をもらい千羽鶴を折り始めるも原爆の子の像が建立される象徴となる。