2022年4月30日土曜日

広島原子爆弾の炸裂により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の被爆直後から押し寄せる被爆者の診療の補助と療養上の世話など多忙を極めた。広島原子爆弾により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。担架で運ばれた被爆者は入院に、外来には、被爆者が詰め寄せた。被爆者は、原子爆弾の猛烈な爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、悲惨な身体に変貌した。傷口には、チンク油やリバノール液をガーゼで塗布した。ホウ酸水で洗浄した包帯で、創部の傷口を覆った。カーテンを裂いた包帯を巻いた。爆風により、突き刺さったガラスを除去した。

 広島赤十字病院は、被爆直後から救護活動を開始した。各所に救護テントを増設して救護した。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医療関係者や職員らは約51人が死亡して、約250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院であり、め、治療を求めて被爆者が殺到した。鉄筋コンクリート3階建ての病院は、外郭だけが残存して、猛烈な爆風によって窓ガラスは吹き飛び、室内も無惨に破壊され、悲惨な被爆した建物となった。木造であった看護婦生徒寄宿舎はほぼ全壊して、火災により類焼した。看護婦には、原爆症と過労のために血便も続出して、貧血に陥った。看護婦は、身を横たえた末期の被爆者を、できるだけ楽に死に行くように見守った。水道水で、身体を清拭して、末期の水を求める被爆者には致し方なく禁忌の水を含ませた。排泄介助、感染予防などから死体の処理まで担当した。

 戦時体制に向けて、国家の全ての人的・物的資源を、日本政府が統制管理する1938年に国家総動員法が成立した。1944年8月23日には、太平洋戦争時下の労働力不足を補うために、中学以上の男子生徒と12歳以上の未婚女性を強制労働に動員できる学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が交付された。戦時体制下の看護婦も巻き込まれて、従軍看護婦など兵役勤労にも動員された。 


2022年4月23日土曜日

世界初の原子爆弾が炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。




2022年4月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂後に2〜3ケ月後に、広島駅構内には近隣の町村から広島市内に参集して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々や被爆者も集結した。

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂した。爆心地から約1.9kmの広島駅構内は、原子爆弾による火災で全焼した。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。広島原子爆弾の投下して炸裂後に、広島駅周辺は焼け野原となった。広島市には大規模な守備隊があり、原子爆弾により広島城の練兵場で演習していた約3,243人の日本軍兵士が被爆死して、日本軍兵士は広島鉄道駅で救護された。

 広島駅ホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、東練兵場(現在の光町)の方に走って逃げた。まるで阿修羅のような惨状が繰り広げられた。まさに亡霊のような姿でトボトボと歩いて鉄道寮の方に向かった。途中、東練兵場の中には足の踏み場もないほど多くの被爆者が横たわっていた。火傷をした被爆者や負傷をした被爆者、中には裸同然の人など、地獄さながらの様相であった。「助けてくれ・水をくれ」と叫び通行人にとりすがった。

 近隣の町村から広島市内に急行して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々が集結した。アメリカ軍により1945年10月か11月に広島駅構内の写真は撮影された。広島駅の待合室は倒壊して、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡から、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒約20人を含めて約78人の死体が発見され、駅職員も約11人が死亡した。  

 広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかり、全線が不通になった。入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業をした。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれたが、そのほかの詰所はほとんど焼失した。8月6日12時頃に、広島駅の裏線から避難列車第一号が発車し、夕方5時頃にも山陽本線の上りに避難列車が発車した。鉄道は、原爆投下当日の8月6日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた。復旧作業も早急に進められ、8月7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線、8月8日は幹線の山陽線、8月9日には広島県北部地域をつなぐ芸備線が開通した。そして、8月18日には広島市郊外をつなぐ可部線が全線開通した。壊滅的な被害を被った市内路面電車も8月9日には一部区間(西天満町〜己斐)で片側運転が始められた。



2022年4月9日土曜日

ひとりの広島原子爆弾の被爆者は銀行の地下1階に横たわり、火傷した左前腕と手指で、書類を眺めて、周囲には棒きれの箸と茶碗が置いた。

ござとむしろの上に、布毛布をかけて、ひとりの男性被爆者が横たわっていた。火傷した左前腕と手指で、周囲の書類をつまんで眺めていた。被爆者の周囲には、棒きれの箸と茶碗が置いていた。1945年9月中旬に、アメリカ海軍が広島市内の臨時収容所内部の地下1階で、被爆者を撮影した。広島市内上流川町(現在中区胡町)の日本勧業銀行広島支店の収容所にて、アメリカ海軍が撮影した。但し、日本勧業銀行広島支店の収容所は、宇品の陸軍船舶司令部は8月12日に引き揚げている。第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、重症の被爆者はどこかほかの救護所へ移送された。

 日本勧業銀行広島支店は、1931年4月に鉄筋コンクリート造の新しい本店が竣工して移転した。アメリカ風のRC造3階建て地下1階の建物であった。中国新聞社の東隣りで、1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約940mに位置した上流町の日本勧業銀行広島支店(3代目本店)は外郭は維持されたものの内部が全焼し、勧銀全体で32名の犠牲者を出した。

 広島原子爆弾の被爆当日の8月6日から、日本勧業銀行広島支店は、広島市の受託銀行として援護資金を融資して、戦後も長く勧銀広島支店、1971年から第一勧業銀行広島流川支店として使用された。1972年には八丁堀の広島支店に統合された。店舗は廃止されて、清水組広島支店などに利用された後に、1980年に解体された。



2022年4月2日土曜日

広島原子爆弾の爆心地の直下となった島病院は、玄関の柱以外全て崩壊して瓦礫の山となり、病院関係者の約80人が即死して、生死消息を尋ねる看板を立て掛けた。

広島原子爆弾の爆心地の直下となった細工町29番地2の島病院は、玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外を除いて全て崩壊した。島病院の建物は瓦礫の山となり、レンガの一部を残して、圧潰されて崩壊した。島薫院長の回想録では、病院関係者の約80人が即死した。敷地は約1,320平方メートルでレンガ造り2階建て、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者の木造の施療7室もあった。 

 原子爆弾の投下日に、世羅郡甲山町への出張手術した島薫院長と看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子は健在であった。8月6日午後7時前に、世羅から復路上で列車が矢賀駅で停止した。その後徒歩で広島市内に向かった。見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がって、焼け跡の熱気で島病院に近づけなかった。翌日の8月7日午後に、瓦礫の山の島病院に到着した。玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、死体の口の中の金歯から婦長の宮本さんだと判明した。瓦礫の底では、死体は原爆が炸裂で直後に一部は骸骨化して、大量の黒焦げの死体と白骨が散乱していた。ほかの人の死体は皆下敷きになって行方不明となった。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島薫さんは、外遊中に買ったアルミの箱の器具ケースにつまづいた。その中に入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐える器具であった。その器具が島病院の唯一の痕跡と回想した。島薫は病院の焼け跡に消息を知らせる伝言板を書き残して、関係者を探して回った。島薫らは、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら、島病院から西約460mの救護所となった袋町国民学校で被爆者の救護活動に従事した。島薫院長は、1945年10月上旬に、入院通院患者・付添者看護婦家人・病院関係者の生死消息を尋ねて記載を求める看板を立て掛けた。 


 爆心地(hypocenter)は、現在の広島市中区大手町1丁目5−25の島内科医院の第3駐車場上空である、東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600mと推定された。広島現爆弾の原爆被害を伝える象徴である原爆ドームは、爆心地から西へおよそ200メートルの地点に存在した。島病院は、原子爆弾が炸裂した直下の地表面となる「グラウンド・ゼロ(Ground zero)」であった。グラウンドゼロを爆発する爆弾、特に原子爆弾のすぐ下にある地面の部分と定義して、最も深刻な被爆を受けた地点を示した。2001年9月11日の同時多発テロ事件では、アルカイダのテロリスト10人がハイジャックした2機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーに飛び込んで、110階建ての高層ビルが倒壊した。崩壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼称された。