2024年4月27日土曜日

太平洋戦争末期に、21歳の少女が、長崎原子爆弾の投下時に、長崎の三菱大橋工場にいて、被爆者の右頸部から顔面に被った火傷に増殖した瘢痕組織をアメリカ軍が診察した。

 

        非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月21日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-273295



























SC-273295

487

FEC-47-70148

10 DECENBER 194646

THICK SCARS PRESENT IN BURNS SUSTAINED BY NAGASAKI ATOMIC BOMB SUVIVOR.


GIRL, AGE 21, WAS AT THE MITSUBISHI OHASHI FACTORY AT NAGASAKI AT THE TIME OF THE ATOMIC BOMB EXPLOSION- ABOUT 0.9 RM. FROM THE GROUND CENTER, BURNS ON CHEEK HEALED WITH THICK SCAR "ISSUE WHICH WAS EXCISED AND A SKIM GRAFT APPLIED

ON 8 OCT. 1946 BUT HEAVY SCAR TISSUE HAS RECURRED AT THE SAME PLACE.


PHOTOGRAPHER-DR. HENSHAW


RELEASED FOR PUBLICATION

BUREAU OF PUBLIC RELATION

 

Photograp WAR DEPARTMENT, WASHINGTON


PAR RELATIONS 4468

Photogaraphy by Signal Corps U.S.Army 487


Atomic Bombing Casualities

14468




SC-273295

487

FEC-47-70148

19464年10月

長崎の原爆被爆者が負った火傷跡。

少女、21歳、原爆投下時、長崎の三菱大橋工場にいた。

1946年10月8日に切除され、スキムグラフトが施されたが、同じ場所に重い瘢痕組織が再発した。

撮影者:ヘンショー医師

出版用にリリース: 広報局

ワシントンの陸軍省が撮影。

パー・リレーション 4468

米陸軍通信部隊による写真撮影 487

原爆犠牲者

14468

2024年4月20日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約2キロに位置する広島赤十字病院では、1946年中に、耳鼻咽喉科の多くの被爆した患者を外来で治療にあたっていた。


   非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月21日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC. 273261





















SC. 273261
484
FEC-47-70123
17 DEC 1946

* HIROSHIMA RED CROSS HOSPITAL TREATS MANY PATIENTS:*
THE HIROSHIMA RED CROSS HOSPITAL LOCATED ABOUT 2 KM FROM THE GROUND CENTER OF THE ATOMIC BOMB EXPLOSION HAS BEEN TREATING PATIENTS DURING ALL OF 1946. SHOWN HERE IS THE EAR, NOSE, AND THROUT OUT-PATIENT CLINIC IN OPERATION.

PHOTOGRAPHER Dr. HENSHAW
RELEASED FOR PUBLICATION
BUREAU OF PUBLIC RELATIONS
WAR DEPARTMENT, WASHINGTON.
14468
AOMIC BOMB CASUALTIES.
Photograph by Signal Corps U.S. Amy


SC. 273261
484
FEC-47-70123
17 DEC 1946

* 広島赤十字病院、多くの患者を治療:*。
原爆爆心地から約2キロに位置する広島赤十字病院は、1946年中、患者の治療にあたっていた。写真は耳鼻咽喉科の外来診療所。

撮影者 Dr. HENSHAW
出版用リリース
広報局: ワシントンの陸軍省
14468
原爆犠牲者
写真提供:米軍通信隊


2024年4月13日土曜日

広島原子爆弾の投下後に、被爆した直前に妊娠した母親から、1946年4月に子供が生まれた。母親は爆心地から1.4kmで被爆して、火傷を受傷してケロイドを形成して広島逓信病院を受診した。

                 


       非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月21日

(The National Archives College Park, Maryland) 


























SC-273262  487

2FEC-47-70107

6 DEC  6 DEC 6, 1946


"HIROSHIMA SURVIVOR WITH CHILD BORN AFTER BOMBING."

MOTHER IS SHOWN WITH HER CHILD WHICH WAS BORN APRIL, 1946 

SO THAT CONCEPTION MOST HAVE OCCURRED JUST BEFORE THEn BOMBING.

BABY 1S IN APPARENT GOOD HEALTH. MOTHER WAS 1.6 KM. FROM HYPOCENTER AT TIME OF BOMBING.

SHE SUSTAINED BURNS WHICH HEALED WITH KELOID FORMATION OF LEFT HAND AND FOREARM, AND LEFT SIDE OF NECK. 

SHE WAS BEING TREATED AT HIROSHIMA POST OFFICE HOSPITAL.

PHOTOGRAPHER: DR. HENSHAW

RELEASED FOR PUBLICATION

BUREAU OF PUBLIC RELATIONS

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON.

ATOMIC BOMB CASUALTIES.

14468



SC-273262 487

2FEC-47-70107


1946年12月6日

「原爆投下後に生まれた子供と被爆者。」

1946年4月に生まれた子供と母親。

妊娠は原爆投下の直前に起こったと思われる。

赤ちゃんは明らかに健康である。母親は爆心地から1.6kmにいた。

母親は火傷を負ったが、左手と前腕、左首筋にケロイドを形成して治癒した。

広島逓信病院で治療を受けていた。

撮影者:Dr. ヘンショー

掲載: ワシントンの陸軍省広報局

原爆による犠牲者

14468


2024年4月6日土曜日

広島原爆が炸裂した後に、広島市立商業学校の生徒たちが1946年12月17日に校庭に集合した。原爆が彼らの右後方で炸裂して、生徒の全員が首と顔の右側に火傷を負った。


非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月21日

(The National Archives College Park, Maryland) 





































SC-273249

FEC=47=70125  

1946年12月17日

原爆が投下され、集合する広島の少年たち: 

広島市立商業学校の生徒たち、

全員が首と顔の右側に火傷を負った。

彼らはその中にいた。

原爆が彼らの右後方で炸裂したとき、

ここに写っているのと同じような集団にいた。

火傷は完治した。

写真家:P.S.ヘンショー博士

広報局

ワシントンの陸軍省広報局 14468

写真撮影:米陸軍通信兵団 487

原爆犠牲者


SC-273249

FEC=47=70125 17 DEC 46

HIROSHIMA SCHOOL BOYS ASSEMBLE AS THEY WERE ATOMIC BOMB EXPLODED: 

THIS GROUP OF HIROSHIMA COMMERCIAL SCHOOL STUDENTS. 

ALL SUSTAINED BURNS ON THE RIGHT SIDE OF THEIR NECKS AND FACES.

THEY WERE IN. A GROUP SIMILAR TO THE ONE SHOWN HERE WHEN THE ATOMIC BOMB EXPLODED TO THEIR RIGHT AND REAR. 

THE BURNS ARE NOW ALL WELL-HEALED.

PHOTOGRAPHER: DR. P.S. HENSHAW

RELEASED FOR PUBLICATION 

BUREAU OF PUBLIC RELATIONS

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON 14468

Photogaraphy by Signal Corps U.S.Army 487

Atomic Bombing Casualities


2024年3月31日日曜日

第二次世界大戦の広島原子爆弾で死亡くなった友人や親戚のために、関係する日本人が広島での神道による礼拝に参列した。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月21日

(The National Archives College Park, Maryland) 

















TR-15646

U.S. Navy

SUBJECT: 473754 - Sept 1945

CAPTION:

JAPANESE ATTEND SHINTO SERVICES IN HIROSHIMA FOR FRIENDS AND RELATIVES KILLED IN ATOM BOMB BLAST OF WORLD WAR II.

LOCATION: HIROSHIMA, JAPAN

PHOTOGRAPHER:MILLER, WAYNE.LT. 

TAKEN BY (UNIT)

LOCAL NO: TR-15646

CLASSIFICATION: RELEASED


TR-15646

米国海軍

件名: 473754 - 1945年9月

キャプション

第二次世界大戦の広島原子爆弾で死亡くなった友人や親戚のために、関係する日本人が広島での神道による礼拝に参列した。

撮影地:日本、広島

撮影者:Miller, Wayne.Lt. 

撮影:(ユニット)

ローカルナンバー:TR-15646

分類:リリース

2024年3月23日土曜日

アメリカ軍による広島への原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂により、その影響により日本の民間人である母親と赤ん坊が家を失ってホームレスになって徘徊していた。

  

非公開の日本原爆被爆者の写真

   ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 


































TR - 15655
U.S. NAVY
SUBJECT: 
473763 Sept. 1945
CAPTION:
JAPANESE CIVILIANS WHO WERE MADE HOMELESS BY ATOMIC BOMBING OF HIROSHIMA, JAPAN.
LOCATION:
HIROSHIMA, JAPAN
PHOTOGRAPHER:
MILLER, WAYNE, LT.
TAKEN BY (UNIT)
LOCAL NO:
TR-15655
CLASSIFICATION:
RELEASED

TR - 15655
アメリカ海軍
件名: 473763 1945年9月
キャプション
広島への原爆投下により家を失った日本の民間人。
場所
日本、広島
フォトグラファー:ミラー、ウェイン、LT:
ミラー、ウェイン、LT.
撮影者:(部隊)
現地番号
TR-15655
分類:
リリース

2024年3月16日土曜日

アメリカ海軍カメラマンが広島原爆の被爆者と廃墟を撮影した。 日本人は原爆犠牲者のための神道礼拝にて追悼式に出席する。

非公開の日本原爆被爆者の写真
ーアメリカ軍原爆調査団ー
アメリカ国立公文書館 
2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland)







473736 1945年9月
件名
CAPTION:
海軍カメラマンが広島での原爆の被害と廃墟を撮影。
日本人は原爆犠牲者のための神道礼拝に出席する。追悼式。
撮影地:日本、広島
撮影者:ウェイン・ミラー, 中将
ローカルナンバー:TR 15622
分類:リリース

473736 Sept 1945
SUBJECT:
CAPTION:
NAVY PHOTOGRAPHER PICTURES SUFFERING AND RUINS THAT RESULTED FROM ATOM BOMB BLAST IN HIROSHIMA, JAPAN.
JAPANESE ATTEND SHINTO SERVICES FOR BLAST V VICTIMS. MEMORIAL For SERVICES.
LOCATION: HIROSHIMA, JAPAN
PHOTOGRAPHER: MILLER, WAYNE, LT. 
TAKEN BY (UNIT)
LOCAL NO: TR 15622
CLASSIFICATION: RELEASED

473736 Sept 1945
Subject:
Caption:
Navy photographer pictures suffering and ruins that resulted from atom bomb blast in Hiroshima, Japan.
Japanese attend shinto services for blast v victims. memorial for services.
location: Hiroshima, Japan
photographer: Miller, Wayne, lt. 
taken by (unit)
local no: TR 15622
Classification: Released



2024年3月9日土曜日

太平洋戦争の終戦後に1945年9月に日本軍の復員兵士たちが、故郷へ帰る途中に原子爆弾の被爆地である広島で列車に群がった。

 

   非公開の日本原爆被爆者の写真

   ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 
2024年2月22日
(The National Archives College Park, Maryland)



473743 1945年9月
件名
CAPTION:
故郷へ帰る途中、広島の列車に群がる復員兵たち。
場所:広島:
日本、広島
フォトグラファー:ミラー、ウェイン、リ
ミラー、ウェイン、リ。
撮影者:(ユニット)
ローカルHO: TR 15629
分類: リリース

473743 Sept.1945
SUBJECT:
CAPTION:
DEMOBILIZED JAPANESE SOLDIERS CROWD TRAINS AT HIROSHIMA ON WAY TO HOMES.
LOCATION:
HIROSHIMA, JAPAN
PHOTOGRAPHER:

2024年3月4日月曜日

17歳の少年は長崎原子爆弾の爆発で火傷を負った。火傷は治り、ところどころに厚い瘢痕がある。足と手の瘢痕は部分的に色素沈着している。

非公開の日本原爆被爆者の写真
ーアメリカ軍原爆調査団ー
アメリカ国立公文書館 
2024年2月22日
(The National Archives College Park, Maryland)


























88747-70151

スコットランド 273305

1946年12月10日

* 原爆による火傷の痕が残っている。

この17歳の少年は原爆の爆発で火傷を負った。XT NAGASAKI(長崎原子爆弾)。火傷は治り、ところどころに厚い瘢痕がある。足と手の瘢痕は部分的に色素沈着している。

撮影者:ヘンショー医師

ワシントン陸軍省広報局・ワシントンの陸軍省

写真:アメリカ陸軍信号隊14468

原爆 犠牲者


No. 488747-70151

Sc. 273305

10 DEC 46

* HEAVY SCARS APPEAR FROM BURNS DUE TO ATOMIC BOMB:"

THIS 17 YEAR OLD BOY SUSTAINED BURNS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION. XT NAGASAKI. HE WAS ON HTS ABDOMEN AT THE TIME. BURNS HAVE HEALED WITH THICK SCAR AT SOME PLACES. SCARS ON LEGS AND HANDS ARE PARTIALLY DEPIGMENTED.

PHOTOGRAPHER: DR. HENSHAW

RELEASED FOR PUBLICATION BUREAU OF PUBLIC RELATIONS

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps U.S. Army14468

Atomic

Bomb. Casualtie

3 

2024年2月17日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年は、多くの火傷患者と同様な典型的なケロイド傷跡を示した。初期には火傷患者の67%、外傷患者の21%の瘢痕ケロイドを発見した。ケロイドを手術的に切除しても大多数に於て再発を来すことを認めた。

長崎原子爆弾に被爆した少年は、多くの火傷患者と同様な典型的なケロイド傷跡を示した。

 長崎市における原子爆弾の被爆者の7年後の外科的後遺症調査が、長崎大学医学部(調来助)が実施した。1946年8月、1947年9月、1949年1月にて、合計3回にわたり長崎原子爆弾の後遺症の調査を行った。初期には火傷患者の67%、外傷患者の21%の瘢痕ケロイドを発見した。しかもケロイドを手術的に切除しても大多数に於て再発を来すことを認めた。

 時日の経過と共にケロイドは自然治癒の傾向を示し、手術後の再発も著しく減少したことを1949年1月の第3回調査において確認できた。長崎原子爆弾後の満7ヵ年を経過した1952年の時点で、原子爆弾ケロイドの状態、原子爆弾によって受けた火傷および外傷の経過、肢体不自由の運動障害の手術による経過を観察した。後遺症患者は男123、女167、計290人に過ぎなかった。受傷当時の損傷種類は熱傷が最も多く、硝子創が之に次ぎ、骨折及び脱臼は少ない。原子爆弾に特有の手関節及び膝関節の脱臼が見られた。

 損傷の後遺症は、肥厚性瘢痕の状態を呈するも、ケロイドは極めて少く、多くは普通の單純性瘢痕となった。拘縮は肥厚性瘢痕が大部分を占め、他は骨折及び脱臼による。神経麻痺は硝子破片による神経幹の離断で、尺骨神経麻痺が大多数である。異物はすべて硝子片で、耳殻奇形は顔面火傷の化膿により軟骨炎を起して、耳の変形を生じた。

 原爆ケロイドは多くは單純性乃至肥厚性瘢痕に移行し、辺縁の一部に小ケロイドを殘すものは、わずかに火傷の6.3%、外傷の0.9%に過ぎない。しかも12例中3例(火傷の2例及び外傷の1例)は灸痕あるいは昆虫刺痕にケロイドを生じた先天性ケロイド体質であった。原子爆弾により発生したケロイドは先天性体質の所有者を除いて、他はすべて完全に自然治癒を営む傾向にあった(1952年原爆班研究報告、長崎大学医学部調来助を一部加筆修正)。




2024年2月10日土曜日

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウは、広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で1945年10月11日に、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウの両下肢である。広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で、1945年10月11日に菊池俊吉が撮影した。娘の竹内ヨウは、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。





    





   竹内ヨウは、爆心地より南西約2km付近で被爆した。冷蔵庫が倒れて、その下敷きとなり、一時的に失神した。そのために右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を受けた。その傷が化膿して重篤となった。後頭部にも、そいだ傷を受けていた。母も娘も原爆症が発現した9月18日から大芝国民学校に入所した。被爆後約2ケ月経過して、原爆症を呈した。脱毛、下痢、発熱が続いた。母親の竹内ヨネは10月14日に原爆症で死亡して、娘の竹内ヨウは1945年11月に原爆症により死亡した。

 大芝国民学校に臨時特設救護病院が設置され、爆心地から北2.4kmにあり、広島市西区大芝1丁目に位置した。校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたため臨時救護病院に転換した。被爆した8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、医療関係者は引き返して再び医療活動の任務に付いて、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人が配置された。




2024年2月3日土曜日

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。右顔面から頸部にかけた火傷のケロイド病理標本の模型である。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。

  右上腕から前腕と手指のケロイド病理標本の模型であり、右手の手関節が伸展して、手指が屈曲拘縮した。長崎原爆資料館は被爆コーナーで、溶けたガラス瓶や黒焦げの弁当箱、黒焦げの少年の写真や、ケロイドの被害の写真と模型、爆風で背中にガラス片が刺さった洋服の実相を展示をした。

 原子爆弾による障害は、爆風、熱線(輻射熱)、放射線の複合的な影響により生じて、非常に複雑な症状が出現した。特に1km以内の被爆者では熱傷を負った者の96.7%、外傷を負った者の96.9%が死亡し、無傷の被爆者でも94.1%が死亡した。原子爆弾による初期の死亡が、熱傷や外傷のみならず、放射線の強い障害が加わった為に起こった。

 原子爆弾の放射線は人体を刺し貫き、いろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した放射線量によって異なる。爆心地から1km以内で被爆した人のうち、無傷でも、大多数の被爆者が死亡した。放射線の破壊力は細胞には強烈だった。人体におよぼす被害は、炸裂時だけでなく、放射線は身体の奥深くの細胞を傷つけた。時がたつにつれて放射線障害から様々な症状を発症した。癌・白血病・白内障などの病気を引き起こした。

 ケロイドは、原子爆弾の炸裂による熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけた不規則な隆起を生ずる状態をいう。被爆後4ヵ月頃より発生して、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から2km前後で被爆した人に多かった。

2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日に写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月20日土曜日

1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約4kmの宇品に位置した陸軍船舶練習部の負傷者の収容所に、日本陸軍兵士の被爆者が収容された。1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。人体への急性障害の第3〜5週の主要な症状は、脱毛、紫斑を含む出血、下血等を引き起こして、全身衰弱を伴って死亡した。

 広島市宇品は港湾地帯で爆心地から3km以上へだたって、原子爆弾による被害は比較的少なかった。火災をまぬがれたこの地区へ、広島市内で被爆した人びとが殺到した。宇品の負傷者の救護にあたった施設の一つは、陸軍船舶練習部であった。陸軍船舶練習部は、陸軍の部隊に船舶操作の教育・訓練をほどこす組織であり、大和紡績広島工場を接収して駐屯していた。教育をうける部隊がつぎつぎ入れ替わるので、兵舎は常時満員でなかった。食糧の備蓄もあり、約1,000人程度の給食には事欠かなかった。診療所もあり、救護施設としての条件を備えていた。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂による被爆とともに建物は軽い損傷を受けたが、大破はなかった。その約1時間後ころから負傷者がしだいに集まった。広島市内へ救援に出動した部隊からトラックや舟で送られて来る負傷者がしだいに増えた。8月6日の午後3時頃には数百名の被爆患者を収容した。8月6日中に処置して、あるいは収容した負傷者は、約6,000人を超えたと推定された。陸軍船舶練習部は、野戦収容所というべき状態になった。収容者の多くは重症の原爆病で8月10日から9月中旬までに約3,000人の死亡者が出た。

 野戦収容所となった陸軍船舶練習部は、船舶司令部の命令によって体制をととのえて、8月12日に陸軍船舶練習部臨時野戦病院 となった。8月15日の日本の敗戦とともに、軍部の戦時体制が解放された。船舶衛生機関の名称で救護と医療が継続された。8月25日に、広島第一陸軍病院宇品分院の表札が掲げられた。この期間に8月8日には陸軍省調査班、8月14日には同第2次調査班が入った。船舶練習部を基地として被爆の調査に従事した。