2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月6日土曜日

広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



2018年9月24日月曜日

長崎原子爆弾により重度の火傷を3歳女児が被爆して大村海軍病院の入院直後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。



2018年9月16日日曜日

似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に被爆者の遺骨が千人塚に埋葬された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。






広島原子爆弾の臨時救護所に、爆心地から南方に約7kmの孤島にある似島陸軍検疫所が当てられた。似島陸軍検疫所の付近に埋葬所が設けられた。



2018年9月10日月曜日

学徒男動員された15歳の男子は、長崎三菱養成所で長崎原子爆弾に被爆して、重度で激痛の熱傷と重篤な破傷風を発症した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



2018年8月25日土曜日

広島原子爆弾の熱線で、女性の右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。(広島)

広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。二次熱傷となり、熱線で焦げた衣服で、その下の皮膚が色調により異なる熱傷を被爆した。衣服は色の濃い部分が強く熱線を吸収して焼け焦げた。被爆当日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
 広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。


2018年9月4日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 60,000回

2018年8月15日水曜日

広島へ新型爆弾、B29少数機で来襲攻撃、相当の被害 (大本営発表 1945年8月7日15時30分)

大本営発表(1945年8月7日15時30分)
広島へ敵新型爆弾 
B29少数機で来襲攻撃 
相当の被害、詳細は目下調査中

1. 8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細は目下調査中なり

落下傘つき 空中で破裂
人道を無視する悲虐な新爆弾

6日午前8時過ぎ敵B29少数機が広島に突入、少数の爆弾を投下した。これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に火災が発生した。敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したもののごとく、この爆弾は落下傘によって降下せられ空中で破裂したもののごとく。その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある。
敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には戦争遂行上の憔悴を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残虐性を敢えてした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である。

朝日新聞(昭和20(1945)年8月8日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

2018年8月12日日曜日

広島原子爆弾による焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車で、広島日赤病院に通わせた。(広島)

広島原子爆弾によって広島市内は壊滅した。その焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車にて、広島日赤病院に通っていた。 娘は1945年8月15日に広島市革屋町に出勤する途上で被爆した。爆心地から約2kmの羽衣町の南大橋で被爆した。母は救護所を転々として娘を探索した。23日目に大竹市玖波小学校で母と火傷した娘は再会できた 。母は吉島の家から娘を大八車で日赤に通わせた。



原子爆弾に被爆した被爆女性が、顔面から左上肢から左半身の熱傷を1945年10月初旬に広島日赤病院で手当を受けた。広島日赤病院の皮膚科医長と救護看護生が治療をした。被爆女性は母親に荷車に乗ってもらっていた娘であった。先生は 継続した治療を諦めていた。母親が玖波町から娘を連れて帰り、毎日病院に大八車で送り迎えした。両人ともに戦後も原爆症が抑えられ健在であった。


2018年8月12日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 50,000回


2018年8月9日木曜日

長崎原子爆弾が炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍がは16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。



2018年8月6日月曜日

広島原子爆弾の無差別な広島市民に対する無差別なきのこ雲と除外された海軍の江田島町や呉市が撮影された。(広島)

広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。





2018年8月6日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 40,000回


2018年8月5日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂によって後頭部と前腕部の熱傷に被爆した17歳の女子学生が、大村海軍病院に護送された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂によって被爆した17歳の女子学生が、長崎市かせ北東約20kmの大村海軍病院に護送された。炸裂した当日の8月9日に8病舎に収容された。後頭部に小鳩卵大の裂創があり、創面は挫滅して、中等度に出血していた。顔面は発赤して腫脹して、疼痛を伴った。左前腕手背は水疱を形成して、各所がびらんしていた。意識は明瞭で、一般状態は特記はなかった。8月25日になって、顔面熱傷は軽快して、左上腕は外側全面にびらがあり、手背は瘢痕化して、手指の可動が少し制限された。後頭部は化膿はなかったが、母指頭大の肉芽となり、頭髪が軽度に脱毛した。体温は8月15日まで39度程度まで上昇した。9月17日に37.9度、9月19日に36.8度に降りた。原爆症により、8月28日に白血球数は1,800に低下して、赤血球は3,880,000、血色素53%、色素係数は0.69も減少した。一般状態が落ち着き10月1日に退所となった。



2018年8月4日土曜日

広島原子爆弾の原爆症で脱毛となり、その後に再発して、弟は1949年に、姉は1965年に死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1kmの舟入町で姉弟が被爆した。自宅で11歳の姉と9歳の弟が夏休みの宿題をしている時に被爆した。その後に2ケ月経過した1945年10月頃には、原爆症による著明な脱毛症状を伴っていた。広島日赤病院で急性原爆症は診療されて、小康状態となった。しかし原爆症が再発して、弟は1949年に死亡した。姉は、結婚して1児の母となった後の1965年に死亡した。




2018年8月3日金曜日

長崎原子爆弾に被爆した翌日に、避難して座り込んだ少女が、水筒から少量の最後の水をゆっくり飲んだ。(長崎)

長崎原子爆弾による熱射と放射線に浴びながら三菱製鋼所の付近まで避難した。爆心地から南約1.5kmに、翌日の1945年8月10日午前10時頃に井樋ノ町のトラックの荷台の上と横で既に数名が被爆死していた。1台のトラックの周辺では、一面が焦土化した地域を避難して、約10人が日陰に倒れ伏した。長崎市の連絡員が自分の水筒を被爆者らに渡した。トラックの手前の布団の上に座り込み被爆した少女が、その水筒から少量の最後の水をゆっくりゆっくりと回して飲んだ。



2018年8月1日水曜日

重症の原爆症により、口唇と口腔内の出血から口内炎症と脱毛した兵士は翌日に死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から南西1.0kmの屋外で被爆した日本軍兵士が、第1陸軍病院の宇品分院に護送された。重症の原爆症により、口腔内を診察すると、口唇から出血して、さらに歯茎からも出血が継続していた。口内炎も併発して、さらに脱毛も伴った。1945年8月下旬に病状を撮影した翌日に、日本軍兵士は死亡した。



2018年6月3日日曜日

18歳の女性学徒が、長崎原子爆弾で顔面、両方前腕から右膝関節周辺に熱傷を被爆して、大村海軍病院に収容された。(長崎)

長崎市から北東約20kmも離れている大村海軍病院は、大村海軍航空隊のために1942年10月から開設された。1945年8月9日午前11時2分に炸裂した長崎原爆から午後3時になって電話連絡で救護隊が被爆者の護送を始めた。18歳の女性学徒が、8月9日に長崎海軍病院の第6病舎に護送されて収容された。顔面および両方前腕から右膝関節周辺に第2度の熱傷を被爆して、水疱を伴っていた。8月25日には、顔面の熱傷は黄褐色の痂皮で覆われてほとんど落ち着いた。しかし、8月28日の血液検査で白血球数は約800個 /m3( 基準値3,500から9,500)まで著明に減少した。赤血球は437万個(350から500万)、ヘマトクリット48%(35から45%)、色素係数は0.55であった。創部はリバノール肝油で湿布やマクロライドを塗り、火傷は軽快した。リンゲル液は静脈注射して、トリアノンを服用して感染を予防して、ナルビンを注射して造血した。8月31日に第3病舎に転舎した。