2020年10月24日土曜日

国連は、2020年10月24日に史上初めて50カ国が核兵器を禁止する核兵器禁止条約を批准し、2021年1月22日の発効を公表した。

 国連は、2020年10月25日に史上初めて50カ国が核兵器を禁止する核兵器禁止条約(TPNW: Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)を批准し、90日後の2021年1月22日に発効することを公表した。国連は10月24日土曜日に、50カ国が核兵器を禁止する国連条約を90日後に発行する国連条約が批准されたと発表した。反核活動家には歓迎されたが、アメリカや他の主要な核保有国は強く反対した。

 このTPNWは、2017年7月7日に193名の国連総会で賛成122票、オランダ反対票、シンガポール棄権票で承認された。賛成票を投じた国の中にはイランがあった。インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの5つの核保有国と、核兵器を保有している他の4か国は、多くの同盟国とともに、交渉と条約への投票をボイコットした。

 50回目の批准日は、国連を公式に設立して国連の日として祝われる国連憲章の批准75周年にあたる。国連は核兵器廃絶を目標に平和を推進するために設立された。TPNWは国連で最高の条約である。市民社会と緊密に協力して民主主義から軍縮させる。条約は、すべての批准国が、いかなる状況においても、核兵器またはその他の核爆発装置を開発、試験、生産、製造、その他の方法で取得、所有、または備蓄してはならないことを要求している。また、核兵器または核爆発装置の譲渡または使用、およびそのような兵器を使用する脅威を禁止し、締約国に条約を他の国に宣伝することを義務付けている。批准したすべての国で発効すると、これらの要件に拘束される。
  国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、50の国を称賛し、交渉を促進し、批准を推進する市民社会の「道徳的活動」に敬意を表した。国連は、1月22日に発効した条約は、「核兵器の使用による人道上の壊滅的な結果に注意を引くという世界的な運動の頂点に達して、核爆発と核実験の生存者への賛辞であり、その多くの国はこの条約を提唱したと述べた。この条約は国連の軍縮の最優先事項であり続ける核兵器の完全廃絶に向けた有意義な提言を公表している。核兵器がもはや存在しない日だけ、核兵器が完全に安全になることは明らかである。それは簡単ではなく、多くの障害がある。配備された核弾頭、ミサイル、爆撃機を制限する新戦略兵器の削減条約の更新に関するアメリカとソ連の協議や来年のTPNWの再検討会議など、すべて同じ方向に収束し、最終的な目的は、核兵器のない世界を持つことでなければなりません。
 2017年のノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: ICAN)の事務局長であったベアトリス・フィンは、この瞬間は、広島と長崎への恐ろしい攻撃から75年が経ち、核軍縮を基礎とした国連条約の創設である。TPNW を批准した50か国は、核兵器は不道徳であり、違法であるという新しい国際条約を設定する真のリーダーシップを示した。1945年の広島原爆投下の生存者であり、この条約の熱心な運動家であるサーロー節子は、私たちが50回目の批准に達したことを知ったとき、私は我慢できない喜びがあった。

  1970年に発効した核不拡散条約(NPT: Traety on the Non-Proliferation of Nuclear Weaptons)は、5つの核保有国を含めて、核兵器の拡散を防止し、核兵器を廃絶することを目的として、核兵器を禁止することによって、核不拡散条約を弱体化させる条約ではない。核廃絶が核不拡散条約の最終目標である核不拡散条約は、核兵器が5つの元の兵器力を超えて拡散するのを防ぐことを目指した。非核署名国は、核軍縮に向けて動くという5大国のコミットメントと引き換えに核兵器を追求しないこと、非核国がエネルギーを生産するための平和的な核技術を保証することを要求した。 
 アメリカからのTPNWに対する書簡では、5つの元々の核保有国(米国、ロシア、中国、英国、フランス)とアメリカのNATO同盟国は、統一して条約の潜在的な影響に反対している。TPNWの核兵器禁止条約は、世界的な核不拡散努力の要と考えらた半世紀前の核不拡散条約に、検証と軍縮の時間を遅らせる危険性がある。TPNWは、国際社会では分裂しており、今後も分裂し続け、コンセンサスに基づく進展の唯一の現実的な見通しを提供する既存の不拡散と軍縮のフォーラムの分裂をさらに定着させる危険がある。TPNWが、差し迫った拡散に対処するために協力する核保有国の能力を狂わせることが許されたら、それは残念なことであると批判した。

 


2020年10月17日土曜日

27際の女性(中心)は、広島原子爆弾の被爆による小頭症の犠牲者で知的障害を伴って、自宅で簡単な作業をした。

 1950年代に原爆傷害調査委員会(ANCC)の研究が、原爆からの放射線に被曝した母親の妊娠と子供に与える影響を公表した。知的障害を伴う伴う異常に小さな頭である原爆小頭症(A-bomb Microcephaly)を出産した。子宮内の放射能の暴露により、推定約7週間の妊娠時点で小頭症が胎児に発症した。特に、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2km以内の距離で露出して被爆した。子供は全身の成長の遅れと小頭症を模となった。広島と長崎の妊娠の調査は1948年に始まり、6年間続けられた。期間中に、約76,626人の新生児がABCCによって検査された。

 原子爆弾の爆心地から約2,000メートル以内にいた母親の妊娠の結果は、アメリカGHQが本国に戻る直前にようやく調査が開始された。放射線障害の兆候を示した母親では、所見を示さない母親と比較して、周産期に有意な頻度の増加が見られた。子供たちの、知的障害を伴う異常に形の小さな頭である小頭症を伴った。乳児期の流産、死産、死亡の発生率は約43%で、放射線を受けていない胎児の対照群の発生率の約7倍であった。放射線の影響だけで、発達中の脳の著しい脆弱性が明らかになった。ニューロンの生成が増加し、未成熟なニューロンの皮質機能部位への移動が発生する発達の時間に対応した。出生時に最も一般的な欠陥は、無脳症、口唇裂、内反足、多指症および合指症であった。異常は、594人の奇形乳児のうち445人(75%)を占めた。

 妊娠初期に妊婦が高線量の放射線に被曝すると、赤子の頭のサイズが異常に小さくなり、精神的および身体的障害を引き起した。原子爆弾による小頭症を伴う。日本の厚生労働省は、1967年に小頭症の約22人の患者に公式に近距離早期胎内被爆症候群と認証された。偏見に直面する恐れを感じ、社会との境界に引きこもった。社会では「原爆はうつる」と陰口をたたく人もいた。きのこ会は1965年に結成されて、小頭症の被爆者は約15人である。原爆小頭症の母親は高齢となり全て死亡した。 


 

2020年10月10日土曜日

広島原子爆弾が炸裂する前後の広島市内の繁華街である本通りが崩壊する同地点の前後で、被爆者は熱線、爆風と放射線で殺傷された。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂する前後の広島市内の繁華街である本通りが崩壊する同地点の変貌である。賑やかだった本通りなどに戻り、崩壊する以前の本通りの繁華街に戻り撮影した。原爆前後の写真を比較すれば、複雑な都市構造、電気、公共交通機関などを備えた近代的な都市が、全く荒涼とした廃墟へと変貌した。本通り商店街も完全に崩壊して、焼け野原となり、広島市内の中心部に密集している建物の崩壊が一望と化した。都市機能の電車、水道、ガスなどが不通となった。

 1935年頃の広島市革屋町の本通り商店街であった。1921年に設置されたスズラン燈、びっしりと建ち並ぶ家々、遠方にはドーム型の屋根の広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、手前の通りを走る路面電車、繁華街のにぎわい、人々の生活、被爆前の広島市内には多くの人々の暮らしていた。本通りは広島市内で古くからの繁華街であった。広島城主の福島正則が広島城の北側を通っていた西国街道(山陽道)を城の南側の本通りに付け替えた。この本通りに沿って革屋町、平田屋町、播磨屋町といった町が誕生した。

 広島原子爆弾が炸裂すると衝撃波が発生する。空中爆発からの直接波と、地面からの反射波で、地上の建物などに強烈に破壊した。原子爆弾の約半分のエネルギーが爆風となる。広範囲の建物に壊滅的に崩壊した。爆風の衝撃波で、建物全体が爆風方向に圧潰した。 爆心地に近い地域の建物には、衝撃波は垂直方向に加わり、屋根の破壊や変形、大梁と小梁が破損した。

 広島市内は原子爆弾の爆風と火災で壊滅した。 約13平方kmが崩壊して、家屋や建物の崩壊による発火と原子爆弾の熱線から、市内の領域でほとんど同時に大火災となった。火災に向けて吹き込む火事嵐で、約18m/秒の突風がさらに大火災に巻き込まれた。爆心地から半径約2kmでは全てが燃え尽くした。被爆者も巻き込まれて、熱線、爆風と放射線による原爆症で殺傷された。

 


2020年10月4日日曜日

広島原爆供養塔で、遺骨の引き渡し式典で、骨箱をひざの上に抱え込んで目頭を抑えて慟哭しながら供養式をした。

広島原子爆弾が1945年8月6日に落下して炸裂した直後には、被爆者の死体はように物体のように取り扱われて処理された。錯乱した被爆地の中で、死後処置しなければならない死体も数万人にも達した。軍隊や民間市民が、死体を焼跡や川辺から広場や路地に運んでは、丸太のように積み重ねて焼却した。その時に、その一部に警察が付き添って検死調書を作成した。性別や年齢などを推定できるだけであった。わずかな氏名が判明しても、瓦や髪の破片に記載して、死体の付近に置くだけであった。その後には焼却して処理された。供養塔に集積された遺骨も大部分は、氏名が不詳の無縁仏になった。そのほかに約2,000体もの氏名がわかった遺骨も残存していた。原爆供養塔のコンクリートの地下室に、骨壷が入った骨壷に積み重なった。1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めた。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、約824柱の遺骨は引き取り手がなく、原爆供養塔に潜在している。

 1955年に、広島市は氏名の判定している遺骨の名簿を、新聞紙上に公表した。約70人の引き取り手が出現した。1968年には、広島東警察署で残存していた検死調書から、原爆供養塔内の納骨名簿、広島第1・2陸軍病院の被爆死者の名簿、戦災収容者名簿を、広島平和記念館で公開して、縁故者を求めた。1968年の遺骨氏名の公表で、広島原子爆弾が炸裂して23年間が行方不明の中学生であった息子の名前を発見して、母親は悲鳴を上げて慟哭した。引き渡された骨壷の遺骨は小さくわずかであった。担当の係官に、詰め寄り確認した遺骨の経緯を問い合わせた。1968年8月1日に、広島原爆供養塔の前で、縁故者に遺骨の引き渡し式典が挙行された。骨箱をひざの上にしっかり抱え込んで供養式をした。遺骨を拝受した縁故者は、多くの縁故者が目頭を抑えながら、慟哭した。 

 

2020年9月26日土曜日

広島原子爆弾の被爆者が1945年10月6日に、爆心地が南東約460mでも残存した袋町国民学校の救護所で外来治療を受けていた。

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で外来治療を受けていた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡して、生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。
 家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。




2020年9月20日日曜日

広島原子爆弾に被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。

広島原子爆弾で自宅を焼失して被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。つくろいものをする主婦と力を失ったように腰をおろす主人。婦人は熱線をあびて顔面を痛々しい火傷をした。レンズに向けた悲しげなまなざし。松葉杖が痛ましい。夫婦のシャツの上には多数のハエが集る。爆心地付近の鉄筋の建物は少なく、焼け残ったのは紙屋町の広島銀行、三菱商事、野村商亊のビルのひと棟が残っていた。1945年9月中旬にライフ誌のアメリカ軍従軍カメラマンのアイヤ・マン(Jay Eyemann)が撮影した。

 広島原子爆弾が炸裂した8月6日直後には、緊急的に約11ケ所以上の救護所が開設された。その後1週間以内に広島市内では約53ケ所以上に達した。被爆者の集結場を救護所に指定した。被爆当初に、具体的な救護所や救護活動の詳細な記録は見当たらない。大病院からテント救護所や地下室救護所など格差が様々であった。『戦災誌』では被爆後1週間以内に日本銀行広島支店と1週間以後に勧業銀行跡が、残存した建造物内の救護所と記載されている。広島市内と市外で、約249ケ所の救護所が開設された。市内の救護所は次第に機能の限界を越えて、被爆者は市外へと避難した。

 原子爆弾から生き延びた被爆者は癌ややその他の病気で苦しんだ。アメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾により、被爆者は危険な量の放射線に被爆した。被爆した犠牲者の骨を調査すると、9.46グレイ(Gy)ものの放射線を吸収していた。癌に対する放射線治療では、腫瘍の局所領域に2〜3Gyを照射している。放射能の曝露のために、広島と長崎の多くの生存者が癌に苦しんだ。アメリカ軍が投下した原子爆弾から約2年後に、白血病の割合は子供たちの間で急上昇した。その約10年後には、癌の発生率は中壮年者の間で急上昇した。広島と長崎の癌患者の約10%は、高濃度の放射能の被爆から原爆症を発症した。 

 

2020年9月12日土曜日

原子爆弾の爆心地に近いほど、母体内で原爆放射線に被爆した胎児は、胎児期から乳児期までの死亡率と知的障害の発現率が増加した。

原子爆弾が炸裂時に、母体内にいた胎児も被爆して、様々な影響を受けた。その中で被爆によって、多くの妊婦が死亡して、胎児の死亡、胎児の流産も認められた。妊娠中に被爆して出産した子供は、体内被曝児と呼称された。母体内で被爆した子供の人数は不詳である。1960年にABCC(原爆傷害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)は、体内被曝時の人数は、広島で2,310人、長崎で1,462人で、合計3,872人と報告した。

 長崎市内の爆心地から0〜2km以内の妊婦96人と4〜5kmで被爆した妊婦の113人とを比較して経過観察した。 0〜2kmで被爆して放射能症が発症して妊婦は、胎児死亡率は約23.3%、新生児の死亡率は約26.1%、知的障害の発現率は25%であった。4〜5kmでは胎児死亡率は2.7%、新生児の死亡率は3.6%、知的傷害の発現率は0%であった。爆心地の近いほど死亡率と発現率が急上昇した。

 長崎原子爆弾の爆心地から0〜2km以内で被爆して急性放射能傷害があった妊婦のうちで、7人が胎児の死亡、6人は新生時以降に死亡、残る16人の内でのうち4人に知的障害を伴った。知的障害は特に小頭症を合併した。頭囲が平均値に比較して、2標準偏差以上に 狭小であった。3標準偏差以上に狭小であるほど、知的障害が重度で、社会生活機能が低下した。

 広島原子爆弾の胎児被爆児では小頭症が48例と長崎原子爆弾で約15例を認定された。知的障害を伴う重度の小頭症は、約3〜15週間に被爆した胎内被爆時に多く発現した。被曝線量の増加に、発現率が相関した。特に広島原子爆弾では、小頭症児の母親が比較的に低線量閾値でも発現した。広島原子爆弾による被爆した初期の放射線量に中性子線が多いことが想定された。



2020年9月6日日曜日

重症の被爆者をトラックの荷台に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送され、重度な火傷にはガーゼや布で応急処置がされた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。

 


2020年9月6日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 300,000回

2020年8月29日土曜日

住友銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、その場で死亡した人影の石と推定された。

人影の石 (Human Shadow Etched in stone)

住友銀行広島支店の入口階段を切り出して、1971年に広島平和記念資料館に移設した。銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、逃げることもできないまま、その場で死亡したと推定された。広島平和記念資料館に移設されるまでに1959年に柵を設け、1967年に強化ガラスで薄くなる影を覆っていた。風化等で人影の石は薄くなっている。原子爆弾の記憶が風化して薄れないように、人影の石の保持を継続している。

 原子爆弾の強烈な熱線により階段は白っぽく変色し、腰掛けていた部分が影のように黒くなって残存した。この人影が自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられている。 石段の人影だけでなく、壁、路面に焼き付く欄干の影、ガスタンクに残るハンドルの影などにも現れた。1人の婦人が銀行の開店を待って、右下肢を伸ばして、左下肢は立膝をして、石段にうずくまって腰掛けていたと推定される。たとえ炸裂直後に約4,000度に達しても、人体は気化することなく、骨と炭化した器官は残る。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した爆心地から約260mに階段は存在していた。原子爆弾の約4000度もの熱線が、その周りの花崗岩の石段の表面を白く焼いて人の影の部分が残った。「死の人影」とも呼称された。石段に座った被爆者は、その場で即死した。 住友銀行は、ビルの外観だけを残して内部は崩壊した。8月6日には従業員は約29人が被爆死して、負傷者は約40人であった。

   These stone steps were at the entrance to the Hiroshima Branch of the Sumitomo Bank. Exposed to the atomic explosion at close range , the person sitting on the steps waiting for the bank tp open is thought to have died on the spot with no possibility of escape. The intense heat of the A-Bomb turned the steps whitish; the stone under the sitting person remained dark, like a shadow. Several families have suggested that the person killed on the steps may have been one of their own.


広島平和記念資料館で強化ガラスで覆われた人影の石

 

アメリカ戦略爆撃調査(USSBS)が1945年11月20日に撮影した。


2020年8月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して8月下旬頃に、城山町の荒野に「故人の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市に投下されて炸裂した。爆心地からわずか約500mの城山町は、全域が壊滅して原爆死した。8月下旬頃に、城山町の荒野に「倉橋満嘉子の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。おそらく原爆死を免れたと思われる夫か父親のどちらかの身内が、妻や娘の遺体を火葬した後に、そこに目印として置いていた。その銘板の地下には、火葬した遺骨の一部は埋葬されたと思われる。その他の不詳不明の多数の多量の遺骨は、そのままに城山町の荒野にそのまま放置された。

 長崎市城山町は爆心地からわずか500mの近距離で甚大な被害を受けた。秒速約250m以上もの猛烈な爆風と熱線を受けて、一体は崩壊して炎上した。城山小学校の近くの住宅は全滅で道路だけが残存した。まっ黒に焼かれた死体が散乱した。付近の浦上川は、長崎原爆の被爆者が水を求めて集まり、折り重なり死体で一杯であった。骨だけの上に皮膚がぶら下がった死体、真っ黒い顔の死体、一面焼け野原の中に無数の真っ黒な死体が転がり、異臭が漂っていた。城山町は全焼して、生存者でも生きながらに炎に包まれ焼け死んだ。泥水に水を求めて、無数の死体で埋まった。つかむように手を上げて、目をむき出して、すごい形相していた。被爆者は家族との再会を願いあちこち探しまわった。 

 城山町の周辺では、家屋や工場が一瞬にして破壊され、人間や動物が殺害された後に、数え切れないほどの火災が発生し、翌日8月10日の午前1時まで燃え続けた。空襲警報の解除後に原子爆弾が炸裂したため、避難所に避難したのはごく少数であり、結果として比較的大きな被害が出た。夏季であり、灼熱のためにうじ虫とひどい死臭のために、死体はすぐに火葬する必要があった。1945年9月中旬に長崎市を訪れたアメリカ海軍将校は、原子爆弾の炸裂から約1か月以上経過した後も、「死と腐敗の匂いが地域に広がっていた」と報告した。 

 

 

2020年8月16日日曜日

広島原子爆弾により、女性が顔面から頸、胸部に熱傷を被爆して、発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。

広島原子爆弾の炸裂によって、広島市民の女性が顔面から頸、胸部にかけて熱傷を被爆した。熱傷部位から発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。 女性ホルモンであるエストロゲンは瘢痕化を促進すると推定された。結果として、閉経前の女性は、閉経後の女性と男性の両方よりも瘢痕が悪化することがよくある。特に、顔面など真皮が厚い皮膚部位は、真皮が薄い部位に比べて、瘢痕が大きくなる傾向があった。

  被爆者の火傷や傷が治癒したように見えた後に、傷跡は厚くなり、ケロイドとして知られる瘢痕をもたらした。ケロイドは、爆心地から約2km(約1マイル)以内で熱線に曝された生存した被爆者の約50〜60%に発生した。ケロイドは、損傷後に形成される瘢痕組織の線維性過成長である。ケロイドの語は、鳥の鉤爪を示唆するギリシア語に由来した。深刻な程度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕形成の比較的高い発生率は、被爆者が2度または3度の重症度である閃光火傷の治癒後に発生した。ケロイドは放射線の被爆で悪化して、しばしば触覚に非常に敏感で、痛み、灼熱感、かゆみを引き起した。

 ケロイドに関連する放射線は、爆弾から1分以内に原子爆弾によって放出された初期放射線と、初期放射線の後に放出された残留放射線の2種類に影響を受けた。身体の未熱傷部分から採取された皮膚移植しても、ケロイドを発達させた。ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に、顔にケロイドを持っている被爆者は、避難所を退所しても、家を離れることを拒否することが多く、背中や肩にケロイドを持っている被爆者は、肌を見えることをためらっていた。広島の多くの被爆者は、原爆攻撃後の夏期でも長袖のシャツを着ていた。他の日本人は「原爆病」を恐れて、その傷跡のために明らかである被爆者の障害者を軽蔑した。 被爆から年月が経つにつれ、精神的および肉体的な深刻な傷跡と逆境に悩まされたる女性と子どもは、一般の健常な市民の軽率な視線に直面して苦悩したいた。

 

 

2020年8月9日日曜日

長崎平和祈念式典 長崎平和宣言 2020年8月9日

長 崎 平 和 宣 言
 私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど75年。4分の3世紀がたった今も、私たちは「核兵器のある世界」に暮らしています。
 どうして私たち人間は、核兵器を未だになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか。
 75年前の8月9日、原爆によって妻子を亡くし、その悲しみと平和への思いを音楽を通じて伝え続けた作曲家・木野普見雄さんは、手記にこう綴っています。
 私の胸深く刻みつけられたあの日の原子雲の赤黒い拡がりの下に繰り展げられた惨劇、ベロベロに焼けただれた火達磨の形相や、炭素のように黒焦げとなり、丸太のようにゴロゴロと瓦礫の中に転がっていた数知れぬ屍体、髪はじりじりに焼け、うつろな瞳でさまよう女、そうした様々な幻影 は、毎年めぐりくる八月九日ともなれば生々しく脳裡に蘇ってくる。
 被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました。しかし、核兵器の本当の恐ろしさはまだ十分に世界に伝わってはいません。新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気づかなかったように、もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまいます。
 今年は、核不拡散条約(NPT)の発効から50年の節目にあたります。この条約は、「核保有国をこれ以上増やさないこと」「核軍縮に誠実に努力すること」を約束した、人類にとってとても大切な取り決めです。しかしここ数年、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄してしまうなど、核保有国の間に核軍縮のための約束を反故にする動きが強まっています。それだけでなく、新しい高性能の核兵器や、使いやすい小型核兵器の開発と配備も進められています。その結果、核兵器が使用される脅威が現実のものとなっているのです。
 “残り100秒”。地球滅亡までの時間を示す「終末時計」が今年、これまでで最短の時間を指していることが、こうした危機を象徴しています。3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は「核兵器をなくすべきだ」という人類の意思を明確にした条約です。核保有国や核の傘の下にいる国々の中には、この条約をつくるのはまだ早すぎるという声があります。そうではありません。核軍縮があまりにも遅すぎるのです。被爆から75年、国連創設から75年という節目を迎えた今こそ、核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束“国連総会決議第一号”であることを、私たちは思い出すべきです。
 昨年、長崎を訪問されたローマ教皇は、二つの“鍵”となる言葉を述べられました。一つは「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」という言葉。もう一つは「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という言葉です。世界の皆さんに呼びかけます。平和のために私たちが参加する方法は無数にあります。今年、新型コロナウイルスに挑み続ける医療関係者に、多くの人が拍手を送りました。被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者に、同じように、心からの敬意と感謝を込めて拍手を送りましょう。
 この拍手を送るという、わずか10秒ほどの行為によっても平和の輪は広がります。今日、大テントの中に掲げられている高校生たちの書にも、平和への願いが表現されています。折り鶴を折るという小さな行為で、平和への思いを伝えることもできます。確信を持って、たゆむことなく、「平和の文化」を市民社会に根づかせていきましょう。若い世代の皆さん。新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです。あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか。核兵器のない世界へと続く道を共に切り開き、そして一緒に歩んでいきましょう。
 世界各国の指導者に訴えます。
 「相互不信」の流れを壊し、対話による「信頼」の構築をめざしてください。今こそ、「分断」ではなく「連帯」に向けた行動を選択してください。来年開かれる予定のNPT再検討会議で、核超大国である米ロの核兵器削減など、実効性のある核軍縮の道筋を示すことを求めます。日本政府と国会議員に訴えます。核兵器の怖さを体験した国として、一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください。そして、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、未だ被爆者と認められていない被爆体験者に対する救済を求めます。
  東日本大震災から9年が経過しました。長崎は放射能の脅威を体験したまちとして、復興に向け奮闘されている福島の皆さんを応援します。新型コロナウイルスのために、心ならずも今日この式典に参列できなかった皆様とともに、原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、長崎は、広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや平和を求めるすべての人々と連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを、ここに宣言します。 
2020年年8月9日 
                         長崎市長 田上 富久

2020年8月8日土曜日

26歳の女性は、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆して、新興善国民学校の救護所に入所した。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日の午前11時2分に投下して炸裂した。26歳の女性は、爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆した。新興善国民学校の救護所に入所した。薄下着を着付けて、靴と靴下は脱いで、茶色かかた黄色のもんぺを通じて、両方の下肢が火傷した。女性は、中等度の第2度の火傷を顔面から首に被爆した。下腿と足に重度の第2度の火傷を被爆した。ガラスの破片によって、多数の小さな裂傷を被爆した。女性は、中等度の原爆放射能も被爆をして、頭皮とまゆげが脱毛した。さらに被爆した皮膚に色素沈着とケロイドの瘢痕を左膝と足背に被爆した。被爆写真は、長崎原子爆弾が炸裂してから約1ケ月目の1945年10月11日に撮影された。

原子爆弾の火傷は身体の片側が特に火傷した。被爆者が火傷しない側で休んでいる状態で治療を可能にする。火傷の部位は、生存者の3591人の火傷症例では、頭や手足が98%に、手足に火傷が87%、わずか9%で顔と首に火傷が約9%に限定された。閃光熱傷からの直接の症状は、爆心地から同じ距離でも、被爆者によって異なった。小胞は、0.6マイル以内にいた生存者の方が、遠方よりも頻繁に出現する傾向があった。この距離の被爆者は、水疱がすぐに出現したが、翌日まで痛みはなかった。0.6マイルと0.9マイルの間の2人の患者では、痛みと水疱の両方が5分以内に発生した。0.9マイルの被爆者は2時間以内に痛みがあったが、水疱は翌日まで現れなかった。他の患者では、1.2マイルであっても、10分以内に小水疱がみられた。ほとんどの火傷と同様に、最初の数時間は痛みが激しく、その後は治まった。第1度のやけどを負った患者の症状と経過は、通常は紅斑がより早く現れたことを除いて、日焼けの症状と似ていた。
  皮膚が露出した屋外の被爆者に、炭化と壊死を伴う重度の第3度のやけどが発生した。この火傷は0.6マイル以内でよく見られた。 一方、軽い衣服でもかなり保護して、重い衣服はさらにより多くの保護を果たした。火傷の程度と関連する身体領域の両方が減少した。この被爆者は、露出部分に第3度のやけど、衣類の下に第2度または第1度のやけどを負う可能性があった。 第3度の火傷は、火傷の組み合わせがあった部位でも発生した。感染、栄養失調、または放射線障害による全身への影響によって遅延した場合を除き、治癒は通常の経過をたどった。生存者の大部分の火傷は第1度または第2度であったため、治癒は通常迅速でした。しかし、重度の2度以下の火傷のほぼすべてが感染し、真皮のより深い部分が破壊され、特に放射線障害のある患者では治癒が遅れました。傷のいくつかは、原子爆弾の4か月後には治癒できず、この時までに患者は白血球減少症から長い間かけて回復した

2020年8月6日木曜日

広島平和祈念式典 平和宣言 2020年8月6日

1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、踠(もが)いていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました。その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。
  原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」という当時13歳であった男性の訴え。昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」して立ち向かうべきであることを示唆しています。
 今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった成果です。実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして悲劇について学んだ。」、「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。
 ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。
 そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。
 本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。

2020年8月6日  広島市長 松井 一實

2020年8月1日土曜日

広島原子爆弾による爆風により飛び散ったガラスなどで、少女(10歳、女性、藤井幸子)は左顔面を怪我して、熱線により右前腕と手指は熱傷を受けた。

広島原子爆弾は、1945年8月6日午前15分に投下されて広島市内の中心部で炸裂した。広島原子爆弾による爆風により飛び散ったガラスなどで、少女(10歳、女性、藤井幸子)は左顔面を怪我して、熱線により右前腕と手指は熱傷を受けた。原子爆弾が投下された直後から、陸軍の検閲と関門で広島市内には入れなかった。3日後の8月9日に、広島市中区流川通りの救護所の付近で、少女は写真を撮影された(毎日新聞社、国平由紀夫)。記者がおにぎりを少女にあげると笑顔を見せた。爆心地からわずか約1.2kmは全ての建物が破壊されて、市民の約4割が即死していた地位であった。少女の写真は、2019年4月25日に約5年をかけてリニューアルされた広島市の広島平和記念資料館の本館入り口に「焼け跡に立つ少女」として掲げられ、年間150万人以上の来館者が最初に見る壁面に展示された。掲示される写真のサイズは、縦が約1.6m、横は約1.2mとなった。広島平和記念資料館にて、被爆者と関係者から寄贈された約2万点の被爆資料が収蔵されている。
    当時10歳であった少女は、爆心地から東約1.2kmの洋食店の自宅で、右手をついていたら爆風が吹き込んでて被爆した。自宅は2階建ての木造の家屋であった。縁側に続く部屋で座っていた体の右側から強烈な熱線を浴び、爆風で飛び散ったガラス片で負傷した。火災の直前に倒壊した家から脱出した。直接に熱線が当たった右手に重い火傷を負い、くっついた指を離す手術を受けた。やがて少女は成長し、結婚後に2人の子どもを育てながら幸せに暮らしていた。30代になり、がんに侵された。広島原爆病院で手術を受け、持ち直した。がんの転移により体調不全が続くようになり再入院した。1977年に42歳で原爆病死した。
 少女は、定期的にアメリカ原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所)で検査を受けていた。広島原子爆弾による被爆の影響で、悪性骨髄腫により30代から入院と退院を繰り返して、1977年に原爆症により若くして42歳で亡くなった。リニューアル前は、被爆した兵士の写真を展示する予定であったが、兵士の遺族から父親が苦しむ姿を見るのは耐え難いと要望があり、被爆した少女の写真に差し替えられた。兵士は、熱線で頚や腕が焼けただれ、救護所で横たわった写真であった。その他に、やけど治療を受ける少年の写真は身元不明のために見送られた。