原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。
(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。
その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。
それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。
(2)長期疾病の原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。
原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。
Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会: 日本平和市民が原爆の悲惨な体験をした「日本思い出の原子爆弾」の真実を授けたい。日本原子爆弾の代弁者として多くの世界平和市民の心に送りたい。いつかの時代も、原子爆弾の加害者と被害者にされるのは市民です。原子爆弾を知らない世代の平和市民に「思い出の原爆」の真実を覚えてほしい。原爆と平和市民の真実を記録するブログには、その関心や意義だけではなく、JNAB の掲載に対する閲覧注意[NSFW]も慎重に留意してください。「思い出の原子爆弾」の真実は平和市民による原子爆弾禁止の真の抑止力となります。 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 日本原爆禁止の会 japan.atomic.bomb@gmail.com https://sites.google.com/view/japanatomicbomb/ @Aug/6/2016, JNAB [NSFW: Not Safe For Work]
2021年7月17日土曜日
広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。
2021年7月10日土曜日
広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。
広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。
薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。
有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。
2021年7月3日土曜日
広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。
広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。
医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。
2021年6月26日土曜日
長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。
ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。
原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。
1) ケロイド: 広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。
爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。
2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。
3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。
1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。
2021年6月12日土曜日
広島原子爆弾が炸裂した直後に、日本軍の軍隊が窓枠が吹き飛んだ建物の上層階を占領した。生存した被爆者は下の階を再使用して避難させた。
広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。
日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」
2021年6月5日土曜日
原爆災害調査研究委員会が、1945年9月から10日に訪問した爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死者が火葬されて荼毘に伏されて、白骨が一面に散乱していた。
原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。
1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。
1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。
陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。
8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。
終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。
1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。
2021年5月29日土曜日
原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。
原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。
原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。
2021年5月22日土曜日
長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。
入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。
原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。
長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。
2021年5月15日土曜日
長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。
2021年5月8日土曜日
アメリカは史上初の水中にて核爆発させるベーカーの核実験により、長崎原子爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾による核爆発を、ビキニ環礁で1946年7月25日に実施した。
ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。
2021年5月1日土曜日
広島原子爆弾の炸裂で家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場から逃避した。
はだしのゲン「第1巻 青麦ゲン登場の巻」で、1945年8月6日にアメリカ軍により、広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した。直後に家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した。原子爆弾が炸裂した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場となった爆心地周辺から逃避した。その後に、生まれたばかりの赤ん坊の新生児を抱えたお母さんと一緒にはだしのげんは逃避した。戦後から、さまざまな苦難の日々を過ごした。
「ばだしのゲン」の作者である中沢啓示は自らの小学校1年生の広島原子爆弾の被爆体験を源泉として「少年ジャンプ」に連載したマンガの長編で、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の厳しい被爆者の厳しい生活を描いた。太平洋戦争の末期にて、広島原子爆弾を舞台にして、小学校2年生の中岡元が主人公のはだしのゲンは掲載された。下駄の絵付けの製造に従事している中岡家はとても貧しかった。5人の子供たちは健やかに戦中に育った。しかし、父親が太平洋戦争に批判的な発言をもらして、非国民として疎外と差別されて、村八分に追い込まれた。
やがて、戦後に日本軍の予科練に志願して入隊していた長男の中岡浩二と、学童疎開していた次男の中岡昭とめぐり会った。焼死した弟の中岡進次とよく似た孤児の隆太も加わった。生活は一層にふくらみを持って展開されが、このマンガのポイントは、被爆者たちの悲惨な生活の実態を通じて、戦争の残酷と悲惨が描き出された、
戦後の若い世代は、戦争の大量虐待と大量虐殺を全く体験もなくて無知である。テレビ・映画・アニメ・ゲームなどのゆがんだ戦争感で洗脳されている。戦争の恐怖と困窮は、原子爆弾の炸裂や戦場で射撃や空襲を受けるだけでない。戦争に対して批判や反対、積極的に戦争に協力しない者は、全て差別されて村八分になり虐待と虐殺むされる。しかも、それらの後遺症は、戦争後にも及び悲痛な傷口が開いている。
はだしのゲンは、そのような戦中と戦後の世の中の境遇に決して諦めないで、這いながら生きた。はだしのゲンと呼ばれた少年が主人公となり、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の悲惨な被爆者の生活をより痛切に描写した。中岡家は、戦中は非国民の一家として周囲から避難されて、戦後にもよそ者として疎外された。戦争の残酷さや悲惨さを全く無関心で無知である戦後に生まれた世代に、はだしのゲンのまんがが、小さな軽くやさしく戦争と平和を描いている。
2005年に少なくとも「はだしのゲン」の英語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、韓国語版、ロシア語版、スペイン語版、インドネシア語版、タイ語版、エスペラント版、ノルウェー語版、ポーランド語版が既に刊行された。
作者の中沢啓治は、はだしのゲンを次のように談話した。原子爆弾を主題にしてまんがを描くのはしんどいが、子どもらは、素直に何が真実がを見極めてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラクスしながら、子どもが作品の中にはいっていけるように念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、原子爆弾とは何かをわかっていただけれ本望です。
2021年4月24日土曜日
広島原子爆弾により24歳の被爆者は、母親の胎内で被爆を受けて、頭囲が著しく小さい小頭症による重度の知的障害を伴った。
広島原子爆弾によって、胎内被爆した24歳の小草信子さんが、1946年3月7日に誕生した。原子爆弾の炸裂によって、母親の胎内で約2月程度の胎児が、放射能による遺伝子障害を受けた。小頭症は頭囲が著しく小さい。爆心地より近距離からの早期の被曝による小頭症と、1967年9月7日に原爆症に認定された。重度の知的障害を伴って、児童程度の知能に留まって、日常生活活動と社会活動に支障を伴う。重複障害を伴って、先天性奇形により、生後から右足関節の機能全廃の障害を受けた。知的精神障害だけでなく、重度の身体障害も伴っている。24歳の女性であるが、身長は小学生程度の発育にとどまっている。
広島市中局私書箱第119号に、原子爆弾の胎内被爆で原爆小頭症を受けた子供を持つ親達の18人と支援者らがきのこ会を結成している。アメリカが占領期に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)は、1952年には原爆小頭症を伴った16人の障害児を論文発表していた。広島における胎内被爆児の小頭症について調査と研究したABCCは、原爆小頭症を患う子の親には、妊娠中の栄養失調が原因であると説明していた。1957年の原爆医療法の対象から除外されていた。当事者らが広島研究会の調査により、1965年に原爆小頭症の科学的根拠である1952年の学術英語論文を発見した。1965年に、18人の原爆小頭症を患う子と親のきのこ会が結成された。きのこ会の関係者らの社会運動によって、1967年に日本政府は原爆小頭症と原子爆弾の因果関係を認めて、被爆者手帳を交付した。きのこ会の名称の由来は、「きのこ雲の下で生まれた命。たとえ日陰で暮らしいようとも、落ち葉をおしのけ成長するきのこのようにすくすくと育ってほしい」と親子と支援者の願いであった。原爆小頭症のきのこ会は、被爆者と障害者であることに対する二重の差別に苦悩した。
2021年4月17日土曜日
4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが左顔面と両手に後遺症が残った16歳の少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成するために、広島原爆病院に入院した。
広島原子爆弾が1945年8月日午前8時15分に投下されて、炸裂によって膨大な広島市民が被爆した。4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが、左顔面と両手に後遺症が残った。 被爆した少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成してもらうために、1957年5月12日に16歳時に広島原爆病院に入院した。入院してから、熱傷とケロイドを、大腿部からの植皮の手術によって形成した。
金時さんというニックネームの少女は、約4歳の時に、爆心地から約2kmの広島市福島南の自宅で、縁側に腰掛けた時に被爆した。意識を失って、他の家の下敷きになった。近所の知り合いに助け出された。1957年5月12日に、広島赤十字原爆病院に入院して形成手術を受けた。左頸部、左前頸部、右肘関節の瘢痕など合計9回の形成手術を受けた。10月21日の大腿部から患部への皮膚の植皮術後には、絶対安静が必要なので、帯紐でベッドに縛り付けられた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。両方の大腿の皮膚を移植のために皮膚を引剥いで、その傷跡が残存して、醜くなった。少女が大人になるに従い、瘢痕や傷跡な人知れず悩むことが手紙に示唆された。12月14日に少女はまずは退院した。
広島原爆病院は1954年に、1955年度のお年玉くじ付き年賀はがきの利益の一部が配当された。広島赤十字病院の構内に、広島原爆病院が設置された。1956年9月20日に開院した。長崎にも、1958年5月に、お年玉年賀はがきの利益の一部の配当で、原爆病院が設置された。 1957年当時は、病院の内科病棟には白血病の患者、外科病棟には瘢痕の形成手術を受ける若者も多かった。1967年頃になると、内科病棟が担当する悪性腫瘍や癌の患者が多くなっていた。
2021年4月10日土曜日
CP-1原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。
CP-1(Chicago Pile 1)原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。CP-1原子炉により、原子爆弾の材料となるプルトニウム239を生成する原子炉となった。その4周年記念日である1946年12月12日に、シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で、CP-1の原爆科学者らは原子爆弾に寄与して栄光の勝利を得た集合写真を撮影した。アメリカは1942年8月3日からニューヨークのマンハッタンに拠点を設置して、科学者のグループと軍隊が秘密裏に協力して原子爆弾を実験し始めていた。その直後にCP-1は、マンハッタン計画の原子爆弾開発に組み込まれた。
核兵器時代は、1945年7月16日午前5時30分に始まった。ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティで核兵器が炸裂した。日本の降伏を余儀なくさせて、第二次世界大戦を終結させた広島と長崎への原爆投下の前奏曲となったトリニティ実験は、科学者、民間企業、アメリカ軍による原子核分裂を引き出す脅威的な悪魔の集大成であった。第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツが、もし最初に原子爆弾を設計できたら、連合国の勝利もほとんど失われる。アメリカのマンハッタン計画は、世界初の原子爆弾を設計するために、世界大戦から地球大戦までも巻き込んだ。オークリッジ、ハンフォード、ロスアラモスでの秘密裏の核兵器の起源から、アメリカ軍が枢軸国の勝利を奪い、日本に勝利した日まで、マンハッタン計画が展開された。
核兵器の歴史の頂点に立つマンハッタン計画は、アルバート・アインシュタインの有名な方程式 E = MC2 を驚異的な専制国家に対して炸裂させた。アインスタインは1907年に、エネルギー(E)= 質量(m) × 光速度(c)の2乗 質量とエネルギーの等価性の方程式を仮設した。つまり、どのような物質からも光速度の2乗もの無限で膨大なエネルギーを生み出すことを証明した。宇宙空間の無限で膨大なエネルギーから物質の誕生を示唆した。原子爆弾を生み出したマンハッタン計画は、科学者のロバート・オッペンハイマーが率いて、1945年7月16日に実戦的な核兵器を実現した。そのプロジェクトは、実際にはアインシュタインとレオ・シラードの手紙からルーズベルト大統領が発現された。マンハッタン計画は、核連鎖反応を引き起こした最初のプロジェクトであり、原子核が分裂し続けて炸裂する地球の存在を脅かした。
シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で行われたCP-1(Chicago Pile 1)原子炉のパイオニアが4周年記念で再会した。後列、左から右:ノーマン・ヒルベリー(Norman Hilberry)、サミュエル・アリソン(Samuel Allison)、トーマス・ブリル(Thomas Brill)、ロバート・G・ノーブルズ(Robert G. Nobles)、ウォーレン・ナイアー(Warren Nyer)、マーヴィン・ウィルケニング(Marvin Wilkening)。中段:ハロルド・アグニュー(Harold Agnew)、ウィリアム・シュトルム(William Sturm)、ハロルド・リヒテンベルガー(Harold Lichtenberger)、レオナ・W・マーシャル(Leona W. Marshall)、レオ・シラード(Leo Szilard)。前列:エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)、ウォルター・H・ジン(Walter H. Zinn)、アルバート・ヴァッテンベルク(Albert Wattenberg)、ハーバート・L・アンダーソン(Albert Wattenberg)。
2021年4月3日土曜日
広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、殺到した多数の被爆者が収容された。
広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が収容された。人数は不詳であるが、大量の負傷者が殺到した。1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂によって、重度な火傷を受傷した被爆者らは、8月10日には死の瞬間を迎えようとしていた。顔面や身体を火傷して、衣服も着けれない瀕死の被爆者があふれた。うめき声が広い部屋に充満して、枕元の水すら自力では手に取ることができなかった。
1945年8月6日の原子爆弾の炸裂によって、広島赤十字病院と併設した陸軍病院分院は、爆心地より南方に約1.6kmに位置した。構造3階建ての病棟は外郭を残して大破したが、消火活動によって火災は免れた。本館等は外郭だけが残り、強烈な爆風により窓ガラスは吹き飛ばされ、室内も廊下などは残骸が散乱して悲惨であった。広島赤十字病院が保管したレントゲンフィルムが、被爆によりすべて感光して、原子爆弾の炸裂による放射能が立証された。広島市内は空襲対策には備えていたが、原子爆弾の炸裂という空前絶後の事態には、市内中心部は潰滅して、救護機能は困難となった。広島周辺部の半壊あるいは小破の被害を受けた国民学校や寺院あるいは民家などに救護所を設置した。
炸裂した直後から、広島赤十字病院に押し寄せた大量の被爆者に治療が開始された。比較的に被害が少なく、診療機能が残存していた広島日赤病院と広島逓信病院が、市内中心部の救護所の拠点となった。その後に広島原爆病院は、1954年度と1955年度のお年玉付き年賀はがきの利益配分金の約6,500万円で、広島市中区千田町の広島赤十字病の構内に、広島原爆病院が設置されて、1956年9月20日に開院した。
















