2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容されて仰向けの被爆者の診察検査をした。

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を調査するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

 広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。






 


2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月24日土曜日

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で顔面の広範囲の火傷と傷痕から発生したケロイドの加療を受けた。

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で加療を受けた。彼女は原子爆弾による熱線により、顔面を広範囲に火傷した。原子爆弾による火傷の痕から顔面に多大のケロイドが発生した。顔面のケロイドは、まばたき、話し方、嚥下などを困難にした。火傷の傷跡は、被爆者の皮膚が、原子爆弾の炸裂の最初の閃光の熱線に直接にさらされた部位に形成された。

 ケロイドは、火傷の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、ギリシャ語でケロイドはカニを意味して、不規則なケロイドの隆起を生じた。被爆後に約4ケ月頃までに発症して、約6ケ月から約1年2ケ月後にケロイドが最も顕著に隆起した。約2年後には部分的に改善され、隆起も縮小していた。原子爆弾の爆心地から約2km前後で熱線にさらされた被爆者には約50から60%に発症した。原子爆弾の熱線で大火傷を受傷して、特に女性の顔面にケロイドが残存すると心的外傷後ストレイ障害(PTSD)などの社会的後遺症に苦悩した。

 深い第2度または第3度の重症と思われる閃光熱傷の治癒後に、重度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕の形成が比較的高い頻度で発生した。ケロイドの病因は、皮膚病変の治癒にて発症する生物学的および生化学的過程における修復過程に起因する。被爆者によっては、火傷の治癒時に過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向がある。瘢痕ケロイドは、治癒過程で生成される線維性結合組織に影響される。瘢痕ケロイドや肥厚性瘢痕の原因となる過剰なコラーゲン産生は、病変が真皮の網状層の深部にまで及んでいた。深部まで及んだ火傷や、感染や追加の外傷による壊死によりケロイドが合併した。




2021年7月17日土曜日

広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。

 原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。
(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。
 その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。
 それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。
(2)長期疾病の原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。
  原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。



 


2021年7月10日土曜日

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。

  薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。

  有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。



2021年7月3日土曜日

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。

  医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。





2021年6月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。

   1) ケロイド:  広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。

 爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。

   2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。

    3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。

 1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。





















2021年6月22日 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 
日本原爆の会 視聴回数 330,000回

2021年6月12日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、日本軍の軍隊が窓枠が吹き飛んだ建物の上層階を占領した。生存した被爆者は下の階を再使用して避難させた。

広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。


  広島原子爆弾を撮影した写真家たちは、写真に収めることができないほど多くの被爆の悲劇を目撃した。救護所では、焼けただれた子供たちの茫然自失の姿をとらえた。わずかに残っていた建物では、死屍累々の各階の救護室内フロアを用心しながら移動した。しかし、最悪の被爆者の光景は写真に、あまり記録されていない。"何度もシャッターを切ろうとしましたが、被害者が哀れみを求めてくるのです」とある写真家は釈明した。"あまりにも残酷で、あまりにも非人間的で、被爆者の救護の嘆願を無視することはできなかった。もし原爆だと知っていたら、写真を撮影しようとは思わなかったでしょう」。
 日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」

 


 

2021年6月5日土曜日

原爆災害調査研究委員会が、1945年9月から10日に訪問した爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死者が火葬されて荼毘に伏されて、白骨が一面に散乱していた。

原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。
  1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。
 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。
 陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。
 8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。
 終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。
 1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。

 


 

2021年5月29日土曜日

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。 
 原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
 1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
 似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。




2021年5月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

 長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。 



2021年5月15日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。

 長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。


 

2021年5月8日土曜日

アメリカは史上初の水中にて核爆発させるベーカーの核実験により、長崎原子爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾による核爆発を、ビキニ環礁で1946年7月25日に実施した。

1946年7月25日に、アメリカは史上初の水中で原子爆弾の核爆発を実施した。太平洋のビキニ環礁で爆発したベイカー核実験は、これまでに行われた約2,000回を超える核爆発実験の中で5番目であった。これらの核実験の内では、わずかのベイカー核実験などは、主に船舶や潜水艦の被害を評価するために水中爆発で核実験された。1962年のスターフィッシュ・プライム核実験などの宇宙空間での少数の核実験を除いて、主に核実験の約4分3は地下で行われ、残りは大気中で行われた。
 ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
 ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
 ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。




ベイカー核実験, 1946年, クロスオーバー作戦
Operation Crossroads (Baker Event 1946)

2021年5月1日土曜日

広島原子爆弾の炸裂で家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場から逃避した。

はだしのゲン「第1巻 青麦ゲン登場の巻」で、1945年8月6日にアメリカ軍により、広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した。直後に家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した。原子爆弾が炸裂した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場となった爆心地周辺から逃避した。その後に、生まれたばかりの赤ん坊の新生児を抱えたお母さんと一緒にはだしのげんは逃避した。戦後から、さまざまな苦難の日々を過ごした。

 「ばだしのゲン」の作者である中沢啓示は自らの小学校1年生の広島原子爆弾の被爆体験を源泉として「少年ジャンプ」に連載したマンガの長編で、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の厳しい被爆者の厳しい生活を描いた。太平洋戦争の末期にて、広島原子爆弾を舞台にして、小学校2年生の中岡元が主人公のはだしのゲンは掲載された。下駄の絵付けの製造に従事している中岡家はとても貧しかった。5人の子供たちは健やかに戦中に育った。しかし、父親が太平洋戦争に批判的な発言をもらして、非国民として疎外と差別されて、村八分に追い込まれた。 
 やがて、戦後に日本軍の予科練に志願して入隊していた長男の中岡浩二と、学童疎開していた次男の中岡昭とめぐり会った。焼死した弟の中岡進次とよく似た孤児の隆太も加わった。生活は一層にふくらみを持って展開されが、このマンガのポイントは、被爆者たちの悲惨な生活の実態を通じて、戦争の残酷と悲惨が描き出された、
 戦後の若い世代は、戦争の大量虐待と大量虐殺を全く体験もなくて無知である。テレビ・映画・アニメ・ゲームなどのゆがんだ戦争感で洗脳されている。戦争の恐怖と困窮は、原子爆弾の炸裂や戦場で射撃や空襲を受けるだけでない。戦争に対して批判や反対、積極的に戦争に協力しない者は、全て差別されて村八分になり虐待と虐殺むされる。しかも、それらの後遺症は、戦争後にも及び悲痛な傷口が開いている。
 はだしのゲンは、そのような戦中と戦後の世の中の境遇に決して諦めないで、這いながら生きた。はだしのゲンと呼ばれた少年が主人公となり、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の悲惨な被爆者の生活をより痛切に描写した。中岡家は、戦中は非国民の一家として周囲から避難されて、戦後にもよそ者として疎外された。戦争の残酷さや悲惨さを全く無関心で無知である戦後に生まれた世代に、はだしのゲンのまんがが、小さな軽くやさしく戦争と平和を描いている。
 2005年に少なくとも「はだしのゲン」の英語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、韓国語版、ロシア語版、スペイン語版、インドネシア語版、タイ語版、エスペラント版、ノルウェー語版、ポーランド語版が既に刊行された。
 作者の中沢啓治は、はだしのゲンを次のように談話した。原子爆弾を主題にしてまんがを描くのはしんどいが、子どもらは、素直に何が真実がを見極めてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラクスしながら、子どもが作品の中にはいっていけるように念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、原子爆弾とは何かをわかっていただけれ本望です。