2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。


 


2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

 広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。

 広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。

 被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。

 広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年11月27日土曜日

広島原子爆弾で、建物内は燃え尽き、窓は吹き飛び、枠は曲がった袋町国民学校のコンクリート造りの西校舎は被爆者の救護所となった。

広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。

 爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。

 可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。

 2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。






























2021年11月29日 Japan No Atomic Bomb (JNAB)
日本原爆禁止の会 視聴回数 350,000回, 417投稿

2021年11月20日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に爆心地周辺で救護活動をした元日本軍兵士が5年後に、残留放射線の被爆により白血病が発症して死亡した。

広島原子爆弾が炸裂時には、元日本軍青年兵士は広島市内では被爆していなかった。広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、爆心地周辺で救護活動をしていた元日本軍兵士である。その5年後に、白血病が発症して死亡した。残留放射線に強く被爆して、白血病が発症したと推定された。白血病による結節が、全身に発生していた。被爆がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後に、月日が経過してから発病して、死亡した事例である。白血病により、皮下脂肪に炎症が起こり、皮膚に小さな卵くらいまでの大きさのやや膨らんだ赤色や紫色の斑点である結節が多数発生する。結節部には圧痛があり、発熱や倦怠感、関節痛など全身症状を伴う。皮疹は融合して大きな紅斑を形成して、赤紫色を呈するようになる。

 原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、約5%が初期放射線となり、約10%が残留放射線となった。放出される残留放射線は、爆発後24時間で約80パーセントが放出された。放射線は、人体の奥深くまで侵入して、細胞や組織を破壊して、血液を変質させ、骨髄などの造血機能が低下して、肺や肝臓等の内臓を侵すなど深刻な障害を引き起こした。爆発後に、長期間にわたって残留放射線を地上に残した。救護活動などのため市内が被爆した後に参入して、直接被爆していない人にも原爆症を発病した。原爆投下後、爆心地近くには放射性降下物や中性子による誘導放射能など残留放射能が存在し、その後に放射線を被爆した。広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86: Dosimetry System 1986)として、原爆線量再評価検討委員会が1986年3月に新しい線量評価システムを公表した。長崎原子爆弾は、プロトニウム型であり、Trinity実験と同一であり、推定精度は高かった。しかし、広島原子爆弾は、ウラニウム型であり実測値が乏しく精度が低下して大幅な誤差が出た。

 残留放射線には、核分裂によって生じた放射性物質から放出される放射線と、核分裂していないウランから放出される放射線がある。最初の放射線に核反応して発生した放射性物質が発する放射線も含まれる。核爆発による残留放射線は、そのほとんどが放射性降下物による。放射性物質は、兵器の破片、核分裂生成物、地上での爆発の放射壌から発生する。核分裂反応で発生する核分裂生成物は約300種類以上あり、多くは放射性物質で、半減期が大きく異なる。半減期が数分の1秒と非常に短いものから、数ヶ月から数年にわたり危険な物質もある。放射性物質の主な崩壊様式は、ベータ粒子とガンマ線の放出である。残留放射線は、土壌や建築物の資材が中性子線を浴びることによって放射線を放出するようになる誘導放射線と、地表から巻き上げられた放射性物質を含んだチリやススの一部が雨などと共に地上に降下する放射性降下物がある。残留放射線は外部被爆に加え、食物や空気などと一緒に取り入れる内部被爆により、人体に影響を及ぼす可能性がある。




2021年11月13日土曜日

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、仁科芳雄が作った理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。さらに大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄した。太平洋戦争中の日本では、ウランがなく、資源も乏しく原子爆弾の開発は不可能であった。1943年3日に海軍委員会は、アメリカが原子爆弾を製造できる可能性は低いと報告した。1943年5月から、陸軍が主催するNI計画が開始された。ウラン鉱石からウラン235の分離、ガス拡散法、加熱実験、フッ化エチレン結晶、サイクロトロンに中性子の放射、1945年4月13日にアメリカ軍の爆撃機が東京を空襲して、理科研の49号棟が突然炎上して破壊され、日本の原爆開発は終わりを告げた。

 広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分頃のことであった。物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で8月9日に仁科芳雄が調査のために広島に入った。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した。写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、8月10日に新型爆弾は原子爆弾であったと大本営に報告された。日本政府は8月14日に国民に知らせた。010年8月9日のことである。「広島に原爆」と埼玉県川越市の同盟通信が、新型版弾の正体を説明する放送を傍受して、通信社分室が政府に報告していた。

  全ての物質が原子からできるも、量子力学が原子が安定しているのかを解いた。ラザフォードは1911年にキュリー夫人が発見したポロニウムの放射性同位体(RI:Radio Isotope)が発するアルファ線を金ぱくにあてて金原子の原子核の存在を実証した。しかし、原子核をより詳しく観察したり、十分な量のRIを製造するには、天然のRIから得られる放射線の強度では弱すぎた。ラザフォードは標的の原子核を破壊できるエネルギーまで人工的に原子核を加速する装置ー加速器の実現を強く訴えた。1930年代初頭に、加速器となったサイクロトロン、静電圧加速器、リニアックまたは線形加速器が新設された。特にサイクロトロン(円形加速度)は大強度の陽子や重陽子ビームを発生でき、はじめて強い放射能をもつ人工RIが製造できた。湯川秀樹が、1934年に電子よりはるかに重く、核の強い力を伝える中間子を予言した。日本では1937年に、仁科芳雄が世界で第2番目のサイクロトロンを理化学研究所に建造した。理化学研究所は、第1号サイクロトロン以来、第2号は太平洋戦争中の1943年に建造さそれた。1945年8月15日に終戦して、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が締結されて1952年4月28日に発効された。その後に日本が正式に独立した後の1952年に第3号から、理研は合計で6台のサイクロトロンを建造した。




2021年11月6日土曜日

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内に、死亡した被爆者を火葬して、引き取り手のない無縁の遺骨を安置所に集積した。

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内にて多数の被爆者が原爆病で死亡した。被爆者を火葬して、その遺骨を安置所に集積した。遺骨を引き取る身内もなくて、残された遺骨が保管された。新興善国民学校に仮設された病院内には、火葬された犠牲者の遺灰骨が入った多数の骨箱が並べて一時的に保管された。学校の教室が病室として活用された。

 新興善国民学校には、仮設された救護所に、移送して運び込まれて収容された被爆者が充分な治療も受けられず次々と死亡した。救護所内には、被爆者で密集してうめき声と蒸し暑さ、悪臭がて漂った。焼けただれて、衰弱した被爆者の体を蝿が飛び回り、うじ虫がはい回り体を食いちぎった。医薬品も不足し、手当てらしい手当ても望めなかった。死体は救護所内の安置所から運び出されて、空き地で昼夜なく火葬されて、遺骨は一時的に安置所に保管された。火葬されて遺族と再会できないまま、安置されている遺骨は数多い。各地で埋葬された身元不明の遺骨が、たびたび発掘されてきた。1947年に爆心地付近に原子爆弾駒場町殉難者納骨堂を町内会が設置して、1951年5月に慰霊施設を増設した。1958年3月に平和公園の平和祈念像の西側に長崎市原爆死没者慰霊納骨堂が建立されて、各地の遺骨を長崎市が引き取って地下に安置された。

 長崎市の平和公園にある長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂には、長崎原爆で無縁仏となった遺骨約8,964柱が安置された、そのうち氏名判明した遺骨は約122柱で。その他はほとんどは誰の骨かも分からない。長崎市では、氏名が判明していながらも、引き取り手のない無縁遺骨を引き渡すために遺族調査を行っている。遺族と無縁のままに、安置される遺骨は数多い。各地で火葬して埋葬された身元不明の遺骨が発掘と収集されている。















新興善特設救護病院内の遺骨安置所












長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂

2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。































2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。








2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。





2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

広島原子爆弾の爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。 







2021年9月25日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着ていた女性が被爆して、衣服とストラップや縫い目が、火傷に影響を及ぼした。

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着た女性が被爆した。タイトな衣服とストラップや縫い目が、火傷を保護する効果があった。火傷は衣服が最もきつかった部位である右肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。下着の紐と着物の縫い目が右肩を保護した。暗色の着物により熱線が影響を受けた。被爆者が炸裂時に着用していた外衣である。着物の焦げた部分が落下している。柄の薄いロゼンジ部分は比較的焦げにくい火傷が軽傷であった。火傷は衣服が最も密着していた部位で発症した。袖が緩んでいた上腕部の中央部分に焦げが発生しても、その部位には火傷はなかった。

  爆心地から約1km以内を除き、衣服は火傷を防ぐのに有効である。日本の都市では、服を着ていない人が服を着ている人の6から7倍もの人が火傷をしている。体の部位の割合は服を着ていない場合の数倍である。衣服による保護効果が高いことがわかる。頭や手足の火傷の発生率は、覆われている可能性の高い体幹の火傷の発生率よりもはるかに高かった。

 原子爆弾の爆心地から約800m以内では、衣服による保護は不可能であった。それ以上の、距離に応じて防護効果が高まった。しかし、夏期で日中の気温が高かったために、被爆者の衣服は一般に薄手のものが多く、野外ではほとんど衣服を身につけていない人々も多かった。これらの要因が、原子爆弾による火傷の発生率を高めた。

 衣服の上から受けた火傷は、素肌の場合よりも程度が低い。多くの場合、衣服を身に着けない素肌は炭化するほどの重度の火傷を負っていても、同じ人の衣服を着た肌は、わずかな色素脱失や単なる色素沈着を示すだけである。これは、同じ距離で火傷した人でも同じように変化する。

  熱の吸収の法則に従えば、白い服を着ることが一番の防御となる。白い服を着ていた広島原子爆弾の被爆者約169人のうち半分以上が白い服の下で火傷した。色付きの服を着ていた被爆者約785人では75%近くが火傷を被った。この結果は、素材の色のついた衣服よりも、白い衣服の方がはるかに防御力が高い証拠を裏付けた。黒い服はよく焦げて、時には火事にもなったが、同じ距離で着ていた白い服は燃えなかった。模様のある衣服を着ていた場合に、衣服の下の火傷には、色合いの違いに応じた模様が見られることが多い。白地に暗色の斑点やストライプがあると、焼けたり焦げたりするが、。白い布はそのままで、その下の皮膚は火傷しなかった。

  厚手の服は薄手の服よりも防御力が高く、皮膚が焼けた部分には縫い目や折り目に焼けていない線が多い。着物の重い襟や、靴やサンダルの紐も同様の効果がある。ゆったりとした衣服の方が窮屈な衣服よりも保護効果が高く、窮屈な衣服の下はそのままでも火傷する。窮屈な衣服による影響が示された。


暗色の着物により熱線が影響を受けて火傷が重傷化した。



火傷は衣服が最もきつい肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。

2021年9月18日土曜日

新興善救護所に入所した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫び、口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。

 新興善救護所に入所した長崎原子爆弾に被爆した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫んだ。顔面から口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。傷口もわずかに湿らす程度であった。周囲の被爆者は次々に死亡して救護所外で死後処理されて、被爆者は常に死の恐怖を伴った。

 新興善救護所は爆心地から、南南東に約3kmの地点であった。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着した。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。近隣から数百人規模の救護隊が駆けつけた。3階建ての救護所には、連日に被爆者で溢れ、瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、不眠不休の救護をした。8月末までの約2週間に約8,000人が手当を受けた。被爆者は原爆症により泣きわめいた。医薬品が不足する中で、火傷もわずかな手当でそのままとなる。外傷もぶらぶらの状態となり、夏場で蛆虫が集った。

 長崎原子爆弾で壊滅した長崎市は、崩壊した長崎医科大学の代賛として市内最大の救護所となった。1936年に新興善国民学校が建てられた鉄筋コンクリートの建物は、原爆の爆風で窓ガラスが粉々になるも、倒壊を免れて救護所になった。それ以後6年間は長崎医科大学の臨時の特設救護病院となった。長崎市立新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。





2021年9月11日土曜日

アメリカ週刊誌Lifeは、防空壕に入り長崎原子爆弾から無傷で不似合いな笑顔を浮かべ幸運の少女を美化してアメリカ国内に公表した。

アメリカ週刊誌「Life」(1952年9月29日号、26頁)は、「警報後に防空壕に入り、すべて異常なくなるまで出所しないで、無傷で不似合いな笑顔を浮かべながら幸運の少女が防空壕から這い出てきた。」と長崎原子爆弾に被爆しなかった幸運な少女と美化した。日本軍報道部員であったは山端庸介は、被爆を免れて瓦礫にいた少女に向かって、塹壕に入ってカメラに向かって微笑むように依頼して撮影した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日の早朝に、爆心地から南南東2.5kmの中町天主堂付近で少女を撮影した。原子爆弾の二次火災による焼失した地域であった。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、その後に自然発火して大火災に発展したと推定された。
 山端庸介ら報道部員は、8月10日午前3時ごろから、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で、8月12日までに爆心地周辺など約100コマを越える写真を撮影した。8月12日にフィルムを現像するも、写真の撮影を戦時中に守秘した。
 1945年7月に山端庸介は、福岡県福岡市の陸軍西部軍管区司令部に報道部員として徴用された。新型爆弾(原子爆弾)が広島に投下された8月6日に赴任した。8月9日に長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受けた。軍艦司令部から、対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を記録する指令されて、作家の東潤、画家の山田栄二、写真家の山端庸介ら5人の報道部員が長崎県長崎市に探索に向った。8月10日午前3時頃に、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着した。その地点で列車は不通になって、焦土と化した長崎市内の被災地を徒歩にて縦断して、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いていた。
 傷つき、ほこりをかぶった写真のコレクションが、遅延信管爆弾のような衝撃を日本に与えた。日本は初めて、広島と長崎に原爆が投下された人々に何が起こったのかを示す視覚的な証拠を目撃して、衝撃を受けた。アメリカで初めて出版されたこの写真集は、自らが原爆に巻き込まれるという非論理的な恐怖の中で、あるいは原爆に巻き込まれた被爆者の世話をする恐ろしい仕事の中で生きている全ての人々にとって、今日のニュース写真のような即時性を持っている。
 世界中の人々と同様に、日本人も原子爆弾による破壊の物理的事実、死亡者数の統計、きのこ雲の下で起こった物語しか知らなかった。しかし、例外を除いて、5人の日本人写真家らが、原爆投下後の恐怖の数時間に撮影した写真は、約7年間の占領期間中、厳格なアメリカ軍の検閲によって極秘にされた。その間に多くの写真ネガが破損・紛失し、戦時中の粗悪な薬品で処理されたネガは使用不可なほど劣化した。しかし、1952年の初め、アメリカ軍の日本占領が正式に終了する前に、日本の新進気鋭に富んだ出版社が、まだ残存している写真の収集を始めた。1951年9月8日の講和条約が1952年4月28日発効されて、アメリカ軍の検閲が廃止された。出版社は急いで写真集3冊及び26ページの原爆記録写真が「アサヒグラフ」週刊誌に掲載された。一夜にして完売し、出版社から新版の注文が入った。
 対日講和条約が1952年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。日本では、悲惨なの原爆写真が新たな反米主義の波を引き起こすと懸念された。しかし、原爆写真の教訓は、広島と長崎を引き起こした戦争を始めた人々に対する嫌悪よりも、はるかに深い衝撃であった。長い間封印された原爆写真を見た人々は、平和主義、中立、いかなる代償を払っても平和を求める心から新たな叫びを引き起こした。ほとんど一声に近い形で、朝鮮戦争とロシアとの侵略の脅威により忘れられていた。長崎の原爆死没者慰霊碑では、10代の被爆者が「あの日、焼け焦げた死体の中を這いずり回りながら、喉の渇きから水を求めて叫んだように、私は今、『平和、平和』と叫びたいのです」と、世界共通の平和を訴えた。
 原爆被害の世界初公開と誇った「アサヒグラフ8月6日号」から、岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』『原爆第1号ヒロシマの記録写真』。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)。1952年はアメリカ軍の検閲の解放により原爆報道が明けた年となった。(国際平和拠点ひろしま)