2022年11月12日土曜日

1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見され、氏名が判明者として左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。

広島藩主の浅野泉邸であった縮景園は、爆心地から北東約1.3kmの縮景園(広島市中区)は崩壊して灰塵に帰した。広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から避難した被爆者で満杯となった。しかし、次々に被爆者が縮景園で死亡した。被爆直後から、数多くの被爆者が縮景園似゜避難した。治療もほとんど受けれないままに死亡して死体が、縮景園内に集団舞うそうされた。死亡した被爆者の死体を園内の小高い丘の上に集団埋葬した。その埋葬した地点に墓標となる木板の標札を掲示した。1945年10月末時点の標札には、氏名が判明者として、左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。松の大木は、広島原子爆弾の爆風と熱戦によって、枝や葉が剥ぎ取られて、ハゲ木となった。

 縮景園は、江戸時代初期の1620年に広島藩主・浅野長晟が築庭され、戦前は泉邸と呼称された。太平洋戦争中に、縮景園は避難場所に指定され、原爆投下直後、おびただしい被爆者が押し寄せた。園内の森林は燃えだし、火災が迫って来た。猛烈な熱線で前の川に飛び込み水死した。縮景園の中で次々と被爆死して、死体は荼毘にもされず埋葬された。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見された。広島県教育委員会が1987年7月31日に写真を手がかりに、埋葬された原爆死没者の遺骨を発掘した。遺骨の発掘調査を行って、数千点の骨片を収集して、8月6日に原爆供養塔に納骨した。1988年3月19日、縮景園の遺骨が発掘された地点に慰霊碑が建立された。




2022年11月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、爆風と熱線で全焼して崩壊した。その外地には死んだ馬が県道に横たわった。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があった。長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、長崎原子爆弾の爆風と熱線で全焼して破壊され崩壊した。その隣の崩壊した第二工場の鉄骨が、あめのように波打っていた。地下の魚雷工場は比較的無傷で残った。製鉄所の外には死んだ馬が県道に横たわっていた。その背後に、長崎市電の線路が走っていた。

 爆心地に近い三菱製鋼株式会社長崎製鋼所では、従業員や養成工、動員学徒、教員など約1,400人が死亡した。鋼板や航空機の部品などを製造していた工場もほぼ壊滅状態となり、機能は全廃して、折れ曲がった鉄骨や機械設備等の残骸だけが残存した。

 長崎原子爆弾の炸裂に伴って生じた猛烈で強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。爆心地から約1kmで、最大風速は秒速約160mにも達した。特に熱傷を及ぼしたのは、爆発後の約0.3秒から約3秒までの間の赤外線であった。地上物質の表面温度は、長崎原子爆弾の直下では恐らく約3,000~約4,000度にも達したと推定された。




2022年10月29日土曜日

広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部における兵団軍医部があり、多数の重篤な被爆者が入所して、一部には蚊帳の中で療養していた。

広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部の暁第6167部隊があった。陸軍船舶司令部における兵団軍医部の医務関係の司令部であった。多数の重篤な被爆者が次々に入所して、一部には夏期の蚊帳の中で療養していた。被爆して日数が重なるのに従って、被爆者の収容人数は急増して、さらに原爆症での死亡者数が増大した。広島市周辺部の被災を免れた救護所は、どこも被爆者で溢れた。

 暁部隊と通称された陸軍船舶司令部の建物は全てが救護所になった。広島市内で新型爆弾の炸裂が、中国地方の各暁部隊に伝達された。訓練を一時中止し、大発や小発の上陸用舟艇に分乗して、1945年8月6日正午過ぎから広島市南部の宇品港に上陸した。午後2時頃には宇品の船舶司令部には、約1,300人の被爆者が収容された。広島原子爆弾で悲惨な犠牲を伴った広島市内で、一番先に被爆者の救済と救助に奔走したのは、陸軍船舶司令部で補給を任務とする宇品の暁部隊であった。

 アメリカ軍からの空襲に備えていた広島市内の約100ヶ所以上の救護所は、広島原子爆弾が炸裂して、爆心地から約2km以内は壊滅した。被爆者は、近場の大きな建物や学校跡などを目指して、その周辺の地域が救護所の役割を果たした。しかし、そこには医療も枯渇して、火災、建物の崩壊、放射線などの黒雨でどしゃぶりになった。

 広島市南部の宇品にあった暁部隊と通称された陸軍船舶司令部は、海上輸送など海運にかかわる陸軍の部隊であり、総兵士数は30万人にも及ぶ大きな組織であった。宇品港は、錨地から海岸までの距離が近く、軍事目的の秘匿が容易となり、軍事的的な条件を整備して、各地から収集した兵隊や物資を戦場に運搬する湾口となった。

 太平洋戦争は、日本軍が1941年12月8日未明にアメリカの真珠湾攻撃を突発して、約3年8カ月にわたり勃発した。1942年7月に陸軍運輸部は廃止されて、船舶輸送司令部は軍司令部と同格の船舶司令部に格上げされた。司令部は、広島市宇品の旧陸軍運輸部本部(凱旋館内)に設置された。陸軍船舶隊は、通称で暁部隊と呼称されて、各専門部隊が構成された。陸軍船舶司令部の部隊は、秘密保持のために、教育船舶兵団司令部は暁6167部隊とと呼称された。















2022年10月27日 Japan No Atomic Bomb (JNAB)
日本原爆禁止の会 視聴回数 370,000回, 463投稿

2022年10月22日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが呆然と立ちすくんでいた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの上空約503mで炸裂した。

 長崎駅前の西坂町から北へつらなる丘陵を見あげると、階段状に住宅が丘の上までつらなっていた。そのほとんどが焼失してしまった。被爆直後に、被災した工場群の従業員の多くは、この丘の上へ避難した。「ほとんどがはだしで、全身血に染まった者、やけどをして顔や手足がはれあがり、真っ黒くなって歯だけは白く見える者、 「水を・・・・」といいながら、くずれたようになってはい回る者、砲台山をめざして、えんえんと続いていった」(『長崎原爆戦災誌』第2巻)。

 斜面にならぶ家々は倒壊し、ところどころ火があり、それらが狭い道をふさいで、歩行は難渋をきわめた。その後「平坦地域をなめていた火災は、次第に山の手に燃え移り、午後になって燃え出した家もあり、夜に入っても、きつね火のような火災が続いた」(同上書)。翌日の8月10日の早朝である。画面を部分的に拡大してみると、焼けだされた人びとが、余燼のくすぶる焼け跡に立つ姿が、至るところに見出された。

 西坂町は、爆心地から約2.0〜3.0kmに区分されて、準焼失地域に区分された。長崎町の西坂公園には、日本二十六聖人殉教地がある。1957年2月5日に、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人がの26人を、西坂の丘で磔にて槍で刺殺する死刑に処した。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に類似した。長崎市の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく死体が、道路の脇や川底などに夏日に散乱した。進駐したアメリカ軍は、爆心地近隣の浦上川沿いに飛行場を設置するために、死体と遺骨が散らばる町をブルドーザーで整地を始めた。遺骨の惨状を憂えた長崎市民らによって遺骨収集が始まった。1946年3月からは長崎市西坂町にあった東本願寺長崎説教所(当時)を中心に、長崎駅から大橋、住吉等まで遺骨を丹念に拾い集めた。




2022年10月15日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mの浜口町の北端は崩壊して廃墟となり、炸裂した翌日に、長崎県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の婦人が見守った。

 長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の長崎市民の婦人が見守った。

 爆心地の松山町の近隣であった浜口町の北部一帯(現 平野町)は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。原子爆弾の炸裂後に発生した火球の中心温度は、摂氏数百万度以上に達した。人間と環境をすべて抹殺する核兵器が人類史上に2番目に長崎市で炸裂した。市民にも多くの犠牲者を出した長崎原子爆弾の惨禍を展示する長崎原爆資料館が、爆心地の近隣の長崎市平野町7番8号の爆心地の松山町を望む高台にある。

 長崎市の爆心地周辺では、何の罪もない民間人が息絶え、地上の建物は火炎に包まれ、あらゆる生命は死滅した。地上は灼熱のために、救護隊の接近も数時間後も遅延した。死体は真っ黒に焦げて炭化した死体は、バラバラと崩れ去った。



2022年10月8日土曜日

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年は、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわった。

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年が、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわり原爆症により衰弱していた。医療関係者が参集して、終戦直後の8月10日に、新興善救護病院となった。1945年8月から10月まで、長崎原子爆弾により被爆した数千人の被爆者を収容し加療した。

 爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、救護所の病室として使用された。鉄筋コンクリート3階建て、被爆で窓ガラスが割れて、熱線が壁を焦がす被害を伴ったが、倒壊や焼失は免れた。周辺地域は、長崎原子爆弾により発生した二次火災によって、広い範囲にわたり類焼して焼失していた。強固な鉄筋コンクリート建てで、被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日頃は、悲惨な救護所となり、まだ患者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、顔は男女の区別もつかず、次々に入院した被爆者は死亡した。手当てする医薬品、衛生材料もなく、港から海水を汲んできて、ドラム缶で煮沸し、寝ている患者にじょうろで散布した。

 1945年10月には、長崎市坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となり、新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。1946年5月に新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始した。1950年に新興善小学校に外来診療を設置した。1958年6月に外来診療所を坂本町の本館に復帰した。戦後の新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。市民の強い要望で一部が残され、救護所が再現された。




2022年10月1日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院の外来の診察室には、10月11日になっても多数の被爆者が殺到して来院した。

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から、大芝国民学校に設置された臨時特設病院に、被爆者が殺到した。工作室を代用して、多数の受信した被爆者に、救護者は10月11日に外来診療を施行した。被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。校内では負傷者はでたが、即死者はいなかった。被爆直後から、被爆者が校庭に殺到したために翌日の8月7日から臨時特設病院を開設して、被爆者の救護をした。1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。1926年に大芝尋常小学校として創設されて、1929年に広島市大芝尋常小学校に改称され、1941年に広島市大芝国民学校になった。終戦後の1947年に広島市立大芝小学校と改称され現在に至る。

 広島原子爆弾の爆心地から北方に約2.4kmにある大芝国民学校に、炸裂後に臨時特設救護病院が設置された。広島市大芝1丁目25-18の校舎は大破して、一部が焼失した。大芝国民学校の校庭に被爆者と避難者が、溢れかえって臨時救護病院が設置された。1945年8月6日の原子爆弾が炸裂後に、大芝町の周辺は原子爆弾の熱線により火災に取り囲まれた。救護に当たっていた者は、動かせない重傷患者を残して、一時的に退避しなければならなかった。火災の勢いが鎮まるとともに、救護者らは大芝国民学校に引き返して、再び救護の任務についた。救護者の中には医師約2人、歯科医約3人、薬剤師約2人、助産婦約1人がいた。救護者らは、専門性を越えた不眠不休の医療活動が、切実に被爆死やには必要とされた。

 臨時特設救護病院となった大芝国民学校の校舎の教室には、筵を敷いた床に大勢の被爆者が寝込んでいた。水、水とうめき、血まみれな被爆者もいた。背中一面火傷した被爆者の火傷にウジ虫がわいていた。毎日多数の被爆者が死亡するために、広島市の死体焼場も機能しないで、大芝国民学校の校庭の隅で、火葬に付すも、骨になるまで長時間かかった。親族は、火葬する周りで、悲痛な思いがこみ上げて沈黙した。




2022年9月24日土曜日

広島原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、爆心地から約1500離れた広島日赤病院で残存した本館に殺到して、外来受診した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後から、原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、広島日赤病院に殺到した。その日赤病院に受信した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 爆心地から約1500m離れた広島赤十字病院の瓦礫の中に、死者と瀕死の人々が散乱した。ほとんどの医療施設が破壊された中で、広島日赤病院は約69名の職員が戦死して、爆発後の数日で数千人の死傷者を出した。猛烈な消火活動で本館は助かったが、中庭の木造建築は失われた。当初は食料も水もほとんど手に入らず、圧倒された職員は何日も眠れず、自分の傷を無視する職員もいた。重傷者は、廊下や玄関、外の畳の上に寝かされ、そのまま瓦礫の中に放り込まれた。1945年10月に、国策医療が終結し、無料診療が終了するまで残っていた患者もいた。原爆病が続く中で、広島県民は医療の充実を訴えた。年、被爆者援護施設を開設した。1993年に取り壊された本館は、1995年に原爆の被害を受けた部分が慰霊碑として奉納された。チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため、広島赤十字病院の医師が1990年代に旧ソ連に派遣された。

 1945年9月に日本赤十字社は、後に赤十字国際委員会(ICRC)の支援を受けて、広島と長崎の原爆患者、死亡者、負傷者、障害者などを救済するために、最初の組織の一つとなった。広島の日本赤十字病院はほぼ壊滅状態だったが、石垣は残っており、何千人もの人々が救護と安全を求めて殺到して集まった。病院職員の約85%が負傷して、約10%近くが死亡した(約554人中約51人)。生き残った赤十字職員は、できる限りの治療を施した。しかし実際には、保管装置が破損して、ほとんどの薬品が爆風で汚染されたために、病院はもはや十分な機能を果たせなかった。献血者も死亡または失踪しており、輸血できる可能性は少なかった。初日に避難してきた1,000人の患者のうち、約600人が急速に直後に死亡した。

 1945年9月8日に赤十字国際委員会の新しい日本代表団長となったマルセル・ジュノー(Marcel Junod)博士が来日した。広島原子爆弾の惨状を知っていた彼は、直ちに日本政府の厚生省と交渉して、9月8日に、アメリカ軍から提供された約15トンの医薬品や医療器具を携えて、自ら広島市に入った。ジュノー博士は約4日間にわたり広島市に滞在して、救援活動に従事した。1956年9月に、広島赤十字病院の構内に、「日本赤十字社広島原爆病院」(現・広島赤十字病院・原爆病院)を設立した。診療科:内科・外科・放射線科、病床数:120床にて、原爆被爆の後遺症に苦しむ被爆者への提供する専門的医療サービスを開設した。





2022年9月18日日曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。



 

2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。




2022年9月3日土曜日

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。ここの墓地は、広島市中心部から約9km離れた似島にある臨時の墓であった。広島市中心部から約9キロ離れた似島には、1945年8月日の広島原子爆弾の投下から炸裂後に、約3週間で約1万人の原爆被爆傷害者が収容された。暁部隊を統括する日本陸軍船舶司令部は、似島の第二検疫所を臨時野戦病院として使用することを決定した

 似島は、日清戦争を契機に広島市の行政、軍事、医療支援の拠点となった。1894年の赤痢・コレラ流行時に、病原菌も持ち込みを防ぐ陸軍の検疫所として設置されて、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでも重要な検疫所の役割を担った。1945年8月6日に、似島は重傷の原子爆弾の被爆者のための臨時野戦病院となった。

 広島の宇品港からフェリーで爆心地より午前10時頃から似島に運ばれた約1万人の被爆者のうち、助かって生存したのは約3割と言われた。多くの被爆者を治療護するために、多大な労力と犠牲が必要だった。原子爆弾の被爆者の死者は日に日に増えて、死体は火葬に付されるなど、危機は深刻化した。被爆してからわずか約4日で、似島での火葬の処理は困難となった。唯一の選択肢は、身元不明の数千の死体を似島に集団埋葬することだった。3つの墓標下の埋葬の意味が、次第に遺骨の重みを帯びた。荒涼とした空間の中にある塚の側に、文字を刻んだ3本の石柱が寄り添って立った。

 1945年9月に、陸軍馬防疫所の敷地内に千人塚と呼称する供養塔が建てられ、検疫所職員が発掘した被爆者の遺骨を納めた。その後、1955年7月に約2,000人の遺骨が似島から広島平和記念公園内にある広島市戦没者慰霊塔に納められた。

 似島は平和資料館として、広島原子爆弾で死亡した被爆者たちの慰霊碑が残存している。似島平和祈念資料館には、先祖や島の歴史を守る住民たちが約20年以上かけて収集した約130点の資料が展示された。似島は、遺骨の回収を目的とした発掘プロジェクトも進行した。1947年から1971年に約4,000人の遺骨が発掘された。2004年には約90体の遺骨が発掘され、さらに数年で多くの遺骨が発掘された。似島での遺骨の発掘と確認には、経年劣化や放射線被曝により、遺骨はもろくなって、細心の注意と時間をかけて修復した。







2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

 長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。



2022年8月20日土曜日

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から白黒撮影された写真を、AI技術と文化の推測でカラー化して再塗装された。

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から撮影された。広島県呉市吉浦町(現・若葉町)から、炸裂後の約40分後の午前9時頃のきのこ雲を、白黒写真で撮影された。吹き上がる巨大なきのこ雲が、生々しくオレンジ色に染めて、広島市の爆心地付近では熱線で約4000度近くにも達した。

 白黒のきのこ雲を、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは、AI技術でカラー化した。AI技術で約10%は自動化でカラーされる。ピンクも黄色も薄緑も、淡いグレーとなる。その他は、被爆体験者の記憶や歴史考証から補正された。白黒写真が色彩を帯びることで、原子爆弾を転写して、戦争の歴史が現代に地続きになり、実感される。(出典: 週刊ポスト・第54巻第26号、2022年8月5日)。アニメ映画『この世界の片隅に』の片渕須直監督の指摘から、赤みがかった雲をオレンジ色に、地上から立ち上った白い雲が覆い隠した。コンピューターソフトで解析した色彩を、年代や当時の文化等を精査して再構築する仕組みである。本当の色彩は不明であり、完全な再現は困難で、解析した仕組みが決めた色彩に変換された。色彩の復元ではなく、白黒からカラー色を推測して再塗装した。

 


 広島県海田町から呉海軍工廠火工品部設計係に勤務していた31歳の尾木正己は、炸裂時は室内で兵器の設計の仕事中で、鉛筆を持つ手が持ち上がるほどの轟音が聞こえた。仕事を中断して、ドイツ製ライカできのこ雲を撮影した(広島原爆戦災史、第三巻、第二編、第二章、原子雲)。日本軍が作成した記録によると、原子雲の中で何かが燃えているように見え、強い火花と閃光が煙雲の中で大規模な火災のように見えた。吉浦の近くに、8月6日午後5時頃になって被爆者が続々と避難してきた。吉浦駅では、衣服の引き裂けた血のにじんだ服装で、血の気が失せた人々が呆然とホームを徘徊していた。8月7日朝に出勤して、広島市に海軍工廠として火工兵器の経験者として救援隊を出した。トラック3台に工員が分乗して、広島市に向う一員に参加して8月7日に被爆直後の広島市内を撮影した。


2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。




2022年8月6日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約800m北方の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や草木の根は生存して、原子爆弾が炸裂して1945年10月末に生物不毛の地に、カンナは新しい生命の芽を出して再び新しい花を咲かせた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約800m北方にある日本軍の歩兵第一補充隊(旧二部隊)の焼跡には、強烈な熱閃光を浴びた。炸裂した直後は、爆心地から約800m北方の被爆地の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や地中の草木の根は生存していた。被爆しして、約2ケ月過ぎの1945年10月末頃に、灼熱の夏から涼しい秋を迎えた頃に、カンナから再び新しい生命の芽を出して、美しい花を咲かせた。カンナの手前において、日本軍兵士が所持していたと思われるアルミニューム製の食器が、広島原子爆弾の強烈な熱閃光で、重なったまま溶解していた。1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して、被爆後は長期間にわたり広島市内は生物不毛の地と示唆された焦土の中で、被爆者たちは、美しいカンナの花を見詰めて、戦後に生き残れる希望を抱いた。(昭和20年10月末、松本栄一撮影)

【広島市、広島原爆戦災誌、第一巻、序、1971年8月6日刊行 : 被爆関係の写真は、その歴史的記録を尊重し、それぞれ撮影者、撮影年月日、撮影場所を明記するようにつとめた。ただし、一部には不明のものもある。】

  広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆者体験の証言や各種の調査士利用など、つぶさに集大成して、『広島原爆戦災史』を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を祈念する永遠の献花とする次第である。

広島市長 山田 節男  昭和四十六年八月六日