2018年12月29日土曜日

長崎原子爆弾により市電と乗客は猛烈な被爆をして、猛烈な爆風と火玉で完全に市電と乗客は粉々に粉砕して即死した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から南南東の方向に約200mの地点で、長崎市電と乗客が猛烈な被爆をした。右上方から炸裂した猛烈な爆風と火玉で、完全に市電と乗客は粉々に粉砕して即死した。長崎市内の大橋行きの市電と乗客は、鉄橋の付近で被爆した。電車の台車だけは線路内に脱線して、それ以外の市電と乗客は、手前の側溝に叩きつけられた。全員の乗客は熱戦で焼死して黒化して即死した。
 1945年8月9日午前11時2分にB-29(ボックス・カー)から長崎市に原子爆弾が投下され炸裂した直後に、路面電車から投げ出された原爆の被害と犠牲を示した。 "ファット・マン(Fat Man)"と呼称された長崎原子爆弾は、地上約500mで炸裂して、長崎市の推定人口約200,000人のうち約13.5%に相当する約27,000人(約13.5%)が即死した。広島原子爆弾では、約78,000人が即死した。


2018年12月22日土曜日

広島原子爆弾で顔面の周囲を火傷して、眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼の開閉が制限された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下された。直後に炸裂して、爆心地より爆風・熱線・放射能が無差別に市民らに突き刺さった。原子爆弾に被爆して受傷した膨大な被爆者が、原爆症で苦悶しながら原爆死した。熱戦による火傷だけでなく、その後に醜いケロイドの瘢痕が残存した。特に顔面の周囲を火傷して、その後に眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼によるまぶたの開閉の可動域が制限されて診療を受けた。右目は、眼球が乾燥してまぶたも焼ただれて失明した。
 ケロイドは、特に露出部の皮膚への熱傷の後、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生して、不規則な隆起を生じた。爆心地から約3km以内の被爆者に、被爆後4ヵ月頃より発生し、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。原爆白内障が被爆後の約3か月から約10年ほど潜伏した後に発症する放射線により発症した。
 原子爆弾投下に際し、被爆者の中にケロイドを発症する人が多発した。爆発時の強力な輻射熱によって深部に達する火傷を負った部分が肥厚性瘢痕した。手術により切除しても再発して難治性で、顔面部から四肢の可動部のケロイドは、日常生活や社会生活にも大きな障害伴った。


2018年12月16日日曜日

長崎原子爆弾の被害を免れた新興善国民学校の救護所は、被爆者を4列に寝かせ1教室に約60人で1階から3階までで数100人を収容した。(長崎)

長崎原子爆弾により1945年8月9日に炸裂した直後に大きな被害を受けた長崎医科大学附属病院が、8月10日から新興善国民学校を救護所として被爆者の診療を開始した。4列に寝かせ1教室あたり60人を収容して、1階から3階まで数100人を収容した。収容患者は次々に死亡して、入院患者は増大する状況となった。
 爆心地から東に約600m離れた長崎医科大学は爆風で壊滅的な打撃を受け全滅全焼した。爆心地から南3kmの新興善国民小学校は窓ガラスが飛び散り、付近一帯火災がはまぬがれた。8月10日に長崎市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。午後に新興善国民小学校に針尾海兵団派遣の救護隊249人の宿舎なり、衛生材料が届いた。長崎市民が治療を受けに続々と集まった。後日に世保海軍病院武雄分院や各地医科大学から救護隊も集まり、8月16日に長崎市内で最大の特設救護病院になった。その後約2週間だけで約8,000人も治療した。



2018年12月9日日曜日

未亡人の母親は日雇い人夫として、広島原爆の被爆によるケロイド状の顔面をタオルで隠しながら、幼児に休息時に母乳を飲ませた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下され炸裂して、夫は被爆死した。母親は被爆による顔面に強度の熱傷により顔面はケロイド状となった。毎日の生活を支えるために日雇い人夫として重労働をした。その休憩時間に路上に横たわり休息取りながら、顔面をタオルで隠しながら。幼児に母乳を飲ませていた。


2018年12月2日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂で、トンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯となった。(長崎)。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された炸裂により、長崎市内はほとんど完全に崩壊した。崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯であった。防空壕の奥からは叫び声が聞こえ、土砂や抗木で埋まり生き埋めになった。庭の防空壕に避難して小さな防空壕ではさらに危険となり壊滅した。地上で熱線を浴びた被爆者は露出した部分が重度の熱傷、爆風による飛来物、ガラス片などと強烈な放射線が身体に刺って苦しみながら泣いて被爆死した。


2018年11月17日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日に爆心地から約1kmで、母と娘はあまりにも悲惨な被爆状況に涙を流して慟哭した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分頃に、ボックスカーと呼称されたB-29爆撃機投下されて炸裂した。その爆心地から南に約700mにおいて、翌日の1945年8月10日お昼頃に、人影はまばらでも、母親と娘は肉親を探しに来ていた。爆心地から1km足らずで、近距離の周辺である長崎市岩川町の県道付近にて、一面が焼け野原となり全ての木造の家は焼失した。あまりにも悲惨な被爆状況に、母と娘は言いようのない失望で胸が一杯に成り、涙を流して慟哭した。岩川町から長崎市中心部は、家が倒壊して道路が通れなくなった。道沿いには、被爆者や馬が生きてるままの格好で真白の白骨の灰になった。



2018年11月10日土曜日

宇品港から似島の第2検疫所に救護された被爆者は、重度の熱傷と激しい疼痛のために身動きもできない寝たきり状態となった。(広島)

広島原子爆弾の炸裂による重態の被爆者は、陸軍船舶司令部により宇品港から似島の第2検疫所に緊急的に救護された。被爆は熱傷が圧倒的に多く、特に顔面から四肢などの露出部に受傷した。激しい疼痛のために、身動きもできない寝たきり状態となった。第2日目から放射能の被爆により、多くの被爆者は急激な発熱や嘔吐を訴えながら死亡に至った。死体は、約1.5km離れた馬匹検疫所の空き地に埋葬した。8月12日に野戦病院に転換した。救護人員だけでなく医療材料が枯渇した。終戦直前の8月14日にから、収容された長期化料が必要な生存者は、大河国民学校などの救護病院にも転送された。最終的に残存者は8月25日には、広島市外の周辺の救護病院に転送されて、似島救護所は閉鎖された。数多くの身元不明の遺体のための墓の代わりに、千人塚を建立した。1995年に千人塚を発掘して約2,000体の遺骨は、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨され、千人塚は撤去された。





2018年11月3日土曜日

生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到して手当を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後3時頃に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者の背中に、薬液であるチンクオイルを医師と日赤看護婦が塗布した。海軍の甲板上の熱傷で使用していた。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。


2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。



2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月6日土曜日

広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



2018年9月24日月曜日

長崎原子爆弾により重度の火傷を3歳女児が被爆して大村海軍病院の入院直後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。



2018年9月16日日曜日

似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に被爆者の遺骨が千人塚に埋葬された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。






広島原子爆弾の臨時救護所に、爆心地から南方に約7kmの孤島にある似島陸軍検疫所が当てられた。似島陸軍検疫所の付近に埋葬所が設けられた。



2018年9月10日月曜日

学徒男動員された15歳の男子は、長崎三菱養成所で長崎原子爆弾に被爆して、重度で激痛の熱傷と重篤な破傷風を発症した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。