2020年6月27日土曜日

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆して、大村海軍病院にて1945年8月11日頃に撮影された。

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆した。上半身の表皮は、広範囲に浅く剥離した。大村海軍病院に8月9日に護送されて四病舎に収容されて、少年の受傷から2日目の1945年8月11日頃に撮影された。表皮が剥離してびらんした第2度の熱傷を患い、中等度の出血を伴った。リパノール肝油を塗布して、ビタカンフルや高張ブドウ糖駅を注射した。体温が8月26日に約36.4度であったが、27日から約39.0度の高熱になった。朝は約27度で夕方は約39度の弛緩性の熱型となった。9月4日に、白血球数は約4,000で、9月11日の午後4時20分に重症となった。その後の診療記録は不詳である。
 長崎原子爆弾が炸裂した放射性の熱戦により、長崎の少年の全身が火傷に被爆した。長崎県大村市の大村海軍病院に護送されて全身が3度の火傷の写真を撮影された。第二次世界大戦中に日本で起こった長崎原子爆弾の被爆者であり、少年の身体は、放射性の熱戦により、細胞は変性した第2度の火傷で覆われた。少年は放射線被性曝も伴った。長崎原子爆弾によっても、少なくとも約74,000人が死亡し、約75,000人が負傷した。別の原子爆弾はそれ以前の1945年8月6日午前8時15分に、日本の広島市で爆発した。 これら二つの原子爆弾の炸裂した後に、日本はアメリカ軍に降伏して、第二次世界大戦は終結した。
  原子爆弾の炸裂の瞬間の火球は数万度に達する。約0.2秒後には約7,700度から約3秒で熱戦は減衰する。原子爆弾の炸裂で約0.5秒まで火傷は最高度に達する。主に人体に熱傷を起こすのは赤外線であった。原子爆弾の熱線の照射を受けて、表皮組織が一様に浅く侵食されて、下層の健常部と境界が明瞭となる凝固壊死を伴った。表皮の傷害は2度以上で、組織が侵食されて凝固する凝固壊死、5度以上では黒焦げの炭化して、浮腫や浸出液の浸潤は乏しい。直接に人体に達した熱線により、第一次原子爆弾熱傷を被爆する。熱線等により、火災熱傷、焦熱傷、触熱傷、焔熱傷などにより間接的に、第二次原子爆弾熱傷を被爆する。特に第一次熱傷は、原子爆弾に特有の熱傷である。広島では爆心的から約1.0km以内、長崎で約1.5km以内では5度以上の熱傷を被爆した。それ5度以下は、広島で約3.5km、長崎では約4.0kmまで及んだ。  


2020年6月21日日曜日

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日に、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
 御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。


2020年6月13日土曜日

長崎原爆に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送され、入院中に早期から全身皮膚に紫斑が出現した。

1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
 1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
 爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
 その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
 これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
 被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。 



2020年6月7日日曜日

広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに無縁仏が虚しく納骨されている。

広島原子爆弾が炸裂した1945年から23年を経過した1968年にも、広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに虚しく納骨されていた。被曝した直後には、死体は物体のように扱われて処理された。広島市内は壊滅して大混乱して、処置する必要のある死体が数万も散在していた。焼け跡や川縁から軍隊等らにより、死体は運搬されて、約100mごとにまとめて集積された。警察が軍隊に付き添い検死するも、推定できるのは性別や年齢だけであった。氏名なども、わずかに瓦の破片の目印だけであった。原爆供養塔に集積した遺骨のほとんどが氏名不詳の無縁仏となった。アメリカ人捕虜や朝鮮人から中国人などの外国人も納骨されている。原爆供養塔の暗いコンクリートの地下室に、遺骨が密かに雑居している。供養塔内で偶然に身内の氏名を見出して歓喜しても、引き渡された遺骨は骨箱の中で小塊が当たり響いた。
 広島平和記念公園の北端にあたる慈仙寺鼻の川辺には多くの死体が打ち上げられて火葬場となった。一種の供養場となり、1946年には供養塔と納骨堂が建立されて、引き取り手のない無縁仏を納骨した。納骨堂が仮小屋で朽ち果て、1955年の円型古墳様のコンクリート製の原爆供養塔に移設された。さらに広島港から約3kmの似島の救護所の墓標であった千人塚の約2,000人の遺骨を1955年に発掘して、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
 原爆供養塔は、1955年年8月5日に広島戦災供養会が建立した。原爆供養塔のなりたちは、爆心地にの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれて、荼毘にふされた。氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するため、1946年に市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立された。その後10年経った1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納骨した。土盛り原爆供養塔の内部には、納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が納められている。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年 公開し、遺族を探している。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、2007年6月でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っている。合同慰霊祭は、1946年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれる。毎月6日には例祭がとり行われる。桃山時代の御陵を模した円形の土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている(直径16m、高さ3.5m)。 広島平和記念公園内に被爆者の遺骨を納骨することは不当とされて、原爆慰霊碑の石棺に過去帳の氏名のみが奉納されている。無縁仏となった遺骨のみが、原爆供養塔に納骨されている。





2020年5月30日土曜日

長崎原子爆弾の被爆者が道の尾駅の臨時救護所に多数の被爆者が集散し、熱傷の被爆者がチンクオイルで応急手当てを受けた。

長崎原子爆弾の爆心地から北方約3.6kmの長崎本線の道の尾駅の付近の臨時救護所に多数の被爆者が集散した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに熱傷の被爆者が応急手当てを受けた。両手から両上肢に熱傷を受けた被爆者が、大村海軍病院の看護婦が用意した洗面器に中に両手を漬けた。洗面器の水にはチンクオイルを含めた。チンクオイルは、酸化亜鉛を含み、皮膚を保護し、炎症を低下させる薬効があった。火傷からの浸出液を吸収して乾燥させた。皮膚の再生を助けて、皮膚保護薬として使用した。重症の被爆者は、大村や諫早、川棚の海軍病院に列車で護送された。道ノ駅には、壊滅した長崎市北部からお昼午後12時頃から被爆した負傷者や避難者が滑石の道に長蛇の列が形成された。むしろがけの2つの小屋の臨時救護所に約200人もの被爆者が収容された。約3,500人もの重症の被爆者は、救援列車で大村駅あるいは諫早駅などに護送された。列車に乗り込む被爆者は、プラットホームに一杯に待機する行列ができた。
 長崎本線は浦上駅、長崎駅の駅舎が全焼失して、倒壊して職員約157人が死傷した。路面電車の長崎電気軌道も壊滅的な被害を受け、車両約16両が焼失、約120人の社員が被爆死した。原爆救援列車として、8月9日の長崎原子爆弾投下の直後に、長与駅を出発した計4本の列車である。正午過ぎに最初の救援列車が出発した。最初の救援列車は、爆心地から約1.4kmほど離れた道ノ尾駅と浦上駅の中間にある昭圓寺付近で運行することが困難となった。そこで被爆者を収容してから、さらに道ノ駅で被爆者を詰め込み諫早へと向かった。長与駅で被災していた上り列車が、8月9日に最終の救援列車として運行するなど、8月9日に4本の救援列車が奔走した。約3,500人の被爆者が諫早、大村、川棚の各海軍病院などへ運ばれた。道ノ駅の長崎原子爆弾が1945年8月9日の午前11時2分に投下されて、初発の原爆救援列車は、長与駅から13時50分頃に爆心地近くの道ノ尾駅を発車して、15時頃に海軍分院院のあった諫早駅へ到着した。列車の中は足の踏み場なく被爆者が横たわった。


2020年5月24日日曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.77kmで被曝した若い女性の左顔面がガラスなどの飛散破片により、重度の皮膚裂傷を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.77kmで女性は被爆した。10月5日の時点で、女性の左顔面がガラスなどの飛散破片により、重度の皮膚損傷を受けた。創部に沿って目尻から口唇までケロイド状の瘢痕を伴った。被爆者として広島赤十字病院に護送されて、ガラスの破片による深い裂傷の救護された。

爆風による飛来破片による身体損傷
 原子爆弾が炸裂した爆発による間接的な負傷は、高爆発性の爆弾の場合と同様に、直接的な負傷よりはるかに多い。広島と長崎では、間接型の致命傷はほぼ完全に破壊された地域で発生した。
 広島と長崎の原子爆弾の臨床視察では飛散破片が生存者の中で最も多くの死傷者を引き起こした。爆風による致命的ではない飛散破片の負傷が死傷者のほとんどを占めた。爆風の力が最も大きかった内側の地帯では、ほとんどすべての自由な物体が致命的な弾丸に変換された。特にガラスの破片が裂傷の最も頻繁な原因となった。大きな破片が、時々窓の反対側の部屋の壁に打ち込まれた。深い裂傷はそのような破片から生じた。より小さなものは、小さな破片によって生じた複数の裂傷となった。この原因による末梢神経および血管の損傷が多発して、動静脈動脈瘤が時々に生じた。広島の原子爆弾の軍事救護病院では、治療された爆風による損傷の54%が挫傷、35%が裂傷、11%が骨折に分類された。爆風による死傷者の即死のほとんどは、建物とその中身の落下によるものであった。骨折は比較的まれであり、生存者のわずか4%で発生しが、発生率は低いにもかかわらず、その数は医療の過負担となった。しかし、多くの非生存者は重度の骨折をした可能性がある。日本では、骨折の治療は、放射線損傷の存在下での遷延治癒と、そのために骨折の固定が困難であり、開放創のある複雑骨折も伴った。地面に投げたり、固形物に衝突するなどの暴力的な飛散が頻繁にあり、被爆者はこの発生源から死傷した。
 
 爆風による直接的な内蔵損傷
被曝して直接的な爆風で肺損傷がある動物では、直接的な爆風損傷の肺の証拠がある動物では、40%にも腹部臓器に出血があった。最も影響を受けやすいのは大腸で、次に肝臓、脾臓、腎臓、膀胱の順であった。中枢神経系への損傷は、高度の脳圧を必要とした。広島と長崎の原子爆弾では、約300m以内で地圧が約241,000パスカルを超えても、深刻な爆風による直接的な損傷の証拠はほとんどなかった。この地域の少数の生存者によって部分的に説明される。日本の視察者は爆風による内臓への直接的な損傷の事例を発見することができなかった。即時の死傷者の剖検では、肺への爆風損傷の典型的な病理を見いだせなかったが、肺気腫と無気肺の病巣は発見した。共同委員会が調査した広島の生存者のうち、鼓膜が破裂したのは爆心地から約1.0km以内であっても1%未満であった。約1.5kmを超えると、発生率は0.1%未満であった。
 広島原子爆弾の生存者では、爆発の直後に検査された371人の患者のうち8人(2%)のみが鼓膜の破裂を起こた。371人のうち19人は一時的な難聴であった。その集団の76%は約2.0km以内であった。長崎の原子爆弾では、1945年10月に198人の生存者(全員が約1.0km以内)を検査し、破裂した鼓膜は8人が見出した。アンケートで調査された広島と長崎の両都市の生存者の中で、どの距離でも1%未満が難聴の状態を報告し、約3.0kmを超えた被爆者には見いだせなかった。めまい、耳鳴り、頭痛、トラウマの形跡のない意識喪失など、その他の明確に定義されていない症状は、爆風に起因する可能性があった。広島と長崎の両都市で調査された生存者の約15%が、めまい、耳鳴り、または頭痛を訴え、ほとんどは約2.5km以内であった。一時的な意識の喪失は、広島の原子爆弾の生存者のほぼ6%で、ほとんども約2.5kmマイル以内にいた。意識の喪失は直接の爆風ではなく暴力的な移動によって引き起こされたと想定された。日本より低い標高で原子爆弾が炸裂した場合には、熱と電離放射線が致命的な影響を及ぼすので、生存者間の直接の爆風損傷の相対的発生率が相対的に低くなる可能性がある。しかし、より大きなエネルギーの原子爆弾の場合には、爆風圧は距離が遠くなるほど高くなり、爆風圧の曲線は電離放射線の致死効果よりも急速に上昇した。


2020年5月28日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 210,000回


2020年5月16日土曜日

広島原子爆弾の炸裂で大規模半壊を受けた広島赤十字病院では、多くの被爆者には建物の外でも治療を受けるしかなった。

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の炸裂によって、人的にも物的にも大規模半壊を受けた医療設備と医療資材がが限られているため、多くの被爆者には建物の外でも治療を受けるしかなった。多くの被爆者が広島赤十字病院の建物外でも扱われる必要があった。
 広島赤十字病院は広島原子爆弾の炸裂から全壊は免れたが、建物はかなりの被害を受けた。膨大な被爆者に病院職員は圧倒された。広島赤十字病院自体の人的・物的打撃が甚大であり、医療機能も停止状態となった。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医師や職員らは院外にいた者も含め約51が死亡し、約259人が重軽傷を負った。一度に数千人の負傷者が殺到した。残余のわずかな医療機械・医薬品による救護活動に限定された。広島市内の医療機関が壊滅状態にあったため、医薬品の補給もつかず簡単な応急手当でさえも難しい状態で、不眠不休での治療が続いた。病院の衛生状態は、控えめに言っても最低であった。ハエは、その場しのぎの病院のすべてに飛び回っていた。医師と看護師らと広島赤十字病院の外来では重症度の軽い火傷者を治療した。
 広島原子爆弾の炸裂による火傷からの外観の異常に加えて、多くの被爆者は、線維組織の過度の増殖の結果であるケロイド瘢痕を患っていた。ケロイド形成の発生率は、1946年から1947年の間にピークに達した。ケロイドの瘢痕は多くの被爆者の首と頬などに見られた。典型的な火傷の被爆者はや多くの傷跡を残した。原子爆弾の炸裂による熱射の火傷に起因する色素異常を患った。関節またはその近くに火傷を負った人は、特に回復が困難で障害を伴った。肥厚性瘢痕および関連する拘縮により、被爆者は稼働制限を伴い、動作痛を伴った。関節の周りに深刻な火傷を負った多くの犠牲者にとって、回復への道は困難でした。多くの被爆者は、熱傷によって破壊された組織の広い皮膚領域を、再生するために広範な皮膚移植を受けた。不幸な場合では、皮膚移植が常に成功したわけではなかった。接合は部分的に成功しても、広範な瘢痕化につながった。外傷性白内障や白血病などの病気は、1947年頃から頻発して出現して、この時期に頂点に達した。衣服で保護されても、一症例では首を開いたシャツで火傷を負って、1946年12月14日時点には胸にケロイドができていた。


2020年5月9日土曜日

第五福竜丸無線長の久保山愛吉は、水爆に被曝してベッドに寝込んみ、家族の見舞いを受けて約20日後に水爆症死した。

第五福竜丸無線長であった久保山愛吉は、1954年3月1日のビギニ環礁におけるアメリカ軍のキャッスルブラボー(Castle Bravo)の水爆実験により放射能を大量に被曝した。最も重篤な40歳の久保山愛吉は国立東京第1病院に入院中に、8月29日に骨髄炎を併発して、1954年9月1日にベッドに寝込んで家族の見舞いを受けた。水爆を被曝した直後から、嘔吐、食欲不振、頭痛、めまい、下痢と倦怠感などが出現した。約3日目から外皮膚が赤くただれ、約10日目から水疱化して、頭髪が大量に脱毛して、急性水爆症に罹患した。3月14日に焼津協立病院で加療されて、重態の2人は3月15日から東京大学病院に転院した。は異変を併発して1954年9月23日に、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して国立東京第一病院で水爆症死した。
  第五福竜丸は156トンの漁船で、焼津港から南太平洋でマグロ延漁をしていた。第五福竜丸は、3月1日午前4時12分に南太平洋のビギニ環礁にて操業中に水爆実験の放射能降下物に被曝した。その他にも、マーシャル諸島の住民なども水爆の被曝に巻き込まれた。3月14日に焼津港に帰港して、3月16日に第五福竜丸事件が発覚して報道された。その事件後も、アメリカ軍の水爆実験のキャッスル核兵器作戦は、継承されて3月27日から6月20日まで5回の水爆実験が強行された。第五福竜丸は、アメリカ軍が設定した立ち入り禁止区域よりも遠方であるも、想定以上の水爆の威力により被曝した。
 第五福竜丸の船員は、突然に南西の海面から火炎のきのこ雲の噴出を目撃した。それから凄まじい爆発音、爆風、熱風が第五福竜丸を襲った。閃光から約3時間経過した午前7時頃から放射能降下物である死の灰が甲板一面に降り積もった。爆心地であるビギニ環礁から北西約168kmで、第五福竜丸の船員23人の全員が約300R以上の被曝した。直ちに午前10時30分頃に延縄を引き上げて、時速9Kmで約3,000km離れた焼津港に帰還した。第五福竜丸の船体は、東京都の夢の島公園に「第五福竜丸」に展示されている。
 アメリカ政府の公式な見解では、水爆には放出される放射能の同等の増加は伴わず、乗組員が放射性降下物の影響を受けたことを否定した。水爆の核分裂の最終段階が、広島原子爆弾と長崎原子爆弾に対して、放射能量が約1,000倍にも膨大した脅威が示唆された。日本政府のアメリカ軍の抗議で、外交関係が緊張して、「第二の広島」と呼称された。日米両政府はすぐに収束して、犠牲者に被爆者の地位が与えないことも合意した。金銭的補償としてアメリカ政府から日本政府に15,300,000ドルを転嫁して政治的和解に達した。生存した各被爆者には、1954年には5,550ドル、2020年までに約52,800ドルを補償で終結した。



2020年5月2日土曜日

長崎原子爆弾の被爆者が大村海軍病院にて8月末に死亡して、多数のガラス破片が、上半身の皮膚に刺入して膿瘍を伴った潰瘍を生じ、その周囲には紫斑を伴った。

長崎爆弾の被爆者が、大村海軍病院に救護された。しかし明細は不明であるが、大村海軍病院において被爆者は8月末に死亡した。長崎原子爆弾が炸裂した爆心地からの距離も不詳である。多数のガラス破片が、上半身の皮膚に刺入した。その刺入傷の周囲に膿瘍を伴った潰瘍を生じた。その周囲には紫斑を伴っていた。
 原子爆弾による紫斑病は、または皮膚の下の出血は、急性放射線病による原爆症の1つである。原爆投下後の数日から数週間、原子爆弾に被爆した被爆者は、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、血性下痢、脱毛、紫斑または点状疱疹、喉や口の痛み(鼻咽頭潰瘍)、腐敗と潰瘍、歯の周りの歯茎(壊死性歯肉炎)などの合併症を伴った。これらの原爆症の発症時期はさまざまであるが、重度の被爆者がより早く原爆症を発症した。
 急性放射線の主症状は、脱毛、紫斑及び下痢などがある。放射性物質による被曝の影響は、爆心地からの距離とともに増大して、約1.5kmで急性放射線症状の影響が最も出現した。爆心地から約6kmも遠位でも少なくとも残存した。最大の急性放射線症状には、ガンマ線(γ線)に影響された。原子爆弾の炸裂後の6週間後に測定された残留放射能は、広島では約6〜25レントゲン、長崎は30〜110レントゲンであった。
 初期放射線は、原子爆弾の炸裂後の約1分以内にγ線と中性子線による瞬間的な外部被曝した。約1分後からは、放射性降下物と誘導放射化物質により被曝した。放射性降下物は、原爆の核分裂による火球から原子雲そして黒い雨と黒い煤などの放射性微粒子を被曝して、広範囲の原子雲により遠距離まで被曝した。誘導性放射化物質は、主に中性子により、爆心地周辺に集中して、直爆被爆者にも入市被爆者にも内部被曝した。



2020年4月25日土曜日

長崎原子爆弾に被曝した2人の少女と1人の男子の頭部が脱毛状態を九州大学調査団が視察した。

長崎原子爆弾に被曝した2人の少女と1人の男子の頭部が脱毛状態を九州大学調査団が視察した。原子爆弾の被曝による脱毛は、被爆後の約2週間頃から突発した。原子爆弾から放出された放射線は、細胞分裂が活発なほど大きく損傷する。大量の放射線を被曝して、毛を作る細胞が損傷を受けて、新しく毛を作れず、毛が抜ぬけて脱毛になった。髪毛けが抜け、吐血をした。脱毛部では毛髪の母細胞である毛母基、内毛根鞘、外毛根鞘が強く細胞障害された。脱毛の発症頻度は爆心地から1km内では広島約69%と長崎約32%,3km以上では広島約2%と長崎約2%であった。脱毛発現は、広島の原子爆弾では1km以内は平均17.2日、1.5km〜2.0kmは平均28.1日であった。脱毛部分は、頭部が最も多く、まず前頭部から後頭部と側頭部に及んだ。その他の眉毛、腋毛、陰毛は影響は少なかった。脱毛は、平均1〜2週間に進行して、生存者の多くは約12〜14週間で再生始めた。  
 原子爆弾を作るために慎重に濃縮されたウラン元素に、中性子との衝突により2つの副産物であるセシウムとルビジウムが生成される。セシウムとルビジウムから分離したさらに2つの中性子がウラン元素と衝突し、プロセスが繰り返されて、強力なエネルギーを発生する。光の2倍の速度で発生する原子核の分裂に由来する。連鎖反応からガンマ(γ)線の放射線を放出する。放射線は人体に侵入し、X線への曝露で細胞損傷を引き起こす。原子爆弾の火傷以上に、ガンマ線は被爆者の人体を損傷した。広島と長崎の人々は、放射線に暴露された。炸裂後の最初の2〜3日では放射線の影響はなかった。その後まもなく、爆心地から被曝距離に相関して原爆症を発症した。原子爆弾の被曝により、血性下痢・軽度の吐き気と嘔吐・食欲減少・歯茎、口、咽頭の炎症・12〜48時間以内の発熱・脱毛・小さな鮮やかな斑点・歯茎、鼻、皮膚からの大出血・白血球数の減少などの原爆症を発症した。


2020年4月18日土曜日

広島原子爆弾で背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がるケロイドの被爆者が、原爆一号として世界に初めて紹介された。

広島原子爆弾が炸裂した爆心地より約1,500mの広島市西白島町で被曝した。広島電鉄の職員であった吉川清は、夜勤明けで自宅の玄関に到着した瞬間に、広島原子爆弾による爆風と熱線を後頭部から背中に受けて自宅の玄関で昏睡した。重傷となり背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がった。広島市北部の可部町で約70日間にわたり療養した。その期間には、生死を漂うも微かに生命を保持できた。
 1946年春季頃から原爆症が専門である広島赤十字病院に入院した。約5年間にわたり、頸部、両手首、両肘などのケロイド拘縮に対して約16回もの手術を受けた。アメリカから広島原子爆弾の視察に来日したアメリカ有名雑誌のライフとタイムズの2人の記者が、1946年に広島日赤病因に視察に来て、原爆症の取材と撮影をした。「このような身体で生きているのは奇跡に近い。原爆生存者の中でナンバー・ワンである。"Atomic Bomb Victim No1 Kikkawa"」と記者から雑誌社を通じて世界中に発進された。世界中に、ケロイドなどの原爆症の写真が世界中に公表された。その被爆者を原爆No.1第一号と呼称された。原爆症による限りない苦難が過去の長い病床生活にて切実に伝わった。
 広島と長崎の原子爆弾が炸裂した直後の被爆の実態が、世界で初めて総司令部(GHQ)に検閲を受けずに、ライフ英語雑誌により1952年7月29日号に公表された。世界初の英語版のライフ(Life)にpage19-25に原爆による被災写真の14枚が掲載された。原爆を投下したアメリカ軍に対して、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える被爆者の本当の実態写真が掲示された。
 「原爆一号」と「平和屋」と蔑視された活動から1951年8月に原爆傷害者更生会を結成し、1952年8月に原爆被害者の会を結成した。やがて他の被爆者組織の発足を促し、1956年5月に各組織が1本化した広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協・同年8月)の結成に繋がった。



2020年4月11日土曜日

長崎原子爆弾の男性被爆者が、佐賀総合病院に長崎市内から護送されて、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。

長崎原子爆弾に被爆して、佐賀総合病院に長崎市内から護送された男性の被爆者が、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。長崎原子爆弾が炸裂して、ちょうど1ケ月経過した1945年9月9日に、日本に駐留したアメリカ軍兵士が、佐賀総合病院に被爆者の実態を視察して情報収集した。ルイジアナ州ミタリアの米海軍中尉のトーマスMブラウンと佐賀総合病院の川田茂博士が、アメリカ軍が投下して炸裂した長崎原爆による閃光から熱傷を伴って衰弱した日本人被爆者の病状を診察と視察をした。その側で着物を着た看護師が診療の補助をした。原爆被爆者の凄まじい火傷によるケロイドや原爆症から、アメリカ軍側も原子爆弾による放射能による人体に及ぼす影響について痛感した。
 佐賀総合病院は、旧佐賀県立病院1910年10月に佐賀陸軍衛戌病院として開設された。1945年12月に厚生省移管国立佐賀病院として発足した。2015年4月に独立行政法人国立病院機構の佐賀病院に変革した。佐賀県立陸軍病院は長崎原爆の8月9日に長崎市内に救護隊第713号の派遣を命じた。数人の軍医からなるグループを編成して、内田部長を中心とする事務補佐員と16人の看護師が出張した。8月10日の午前4時頃に、グループは佐賀駅を出発し、午後に長陽に到着し、3つのチームに分かれて、長与駅、長与小学校、道の尾駅で医療救護を活動した。長崎市内の道の駅で約6日間の救援活動を行い、8月15日夜にから佐賀に戻り、日本が降伏した終戦日に佐賀陸軍病院に帰還した。終戦後も、救援チームは佐賀陸軍病院に多数護送された原爆被爆者の医療救護に従事し続けた。
 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎市内の膨大な市民らが被曝した。爆心地に近い長崎医科大学など、緊急的な救護所も直ちに稼働が困難となった。そのために圏域を越えて、長崎本線で被爆者が護送された。
 長崎と広島の被爆者計75人分のカルテを旧佐賀県立病院(現県医療センター好生館)で2011年に偶然に発見された。病状から被爆した克明な状況や死後に病理解剖した臓器の状態も記録された。原爆に関する資料は、第二次世界大戦後には連合軍進駐軍が多く原爆資料を没収された。詳細な記録と放射能による人体への影響に関する貴重な資料であ。75人は1945年8月14日から1946年1月まで、当時の県立病院内科を受診した16から59歳の男女である。妊婦もいた。カルテには脱毛や皮下出血などがドイツ語と日本語で記録された。放射能被害の特徴的な白血球の減少が認められた。カルテはB5サイズで「昭和二十年度内科、原子爆弾ニ依ル書類」と書かれた表紙のボール紙に229枚がとじられ、厚さは約6センチの診療記録である。色あせ、かすれて判読が難しい文字を佐賀医学史研究会が解読した。病院によると、カルテは原則、専用の倉庫でまとめて保管するが、県立病院に進駐軍の医師が複数回訪問した記録がある。2011年に看護師が内科の古いロッカーを整理中に偶然発見した。当時の医師が進駐軍に没収されないように別途に秘密裏に保管した可能性もある。


2020年4月12日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 200,000回

2020年4月2日木曜日

グリーンハムの女性平和団体の1人の女性が、核兵器反対を訴えて1988年にアメリカ軍基地にワイヤーをカットして侵入した。

グリーンハム・コモン・女性平和団体(Greenham Common Womens' Peace Camp)に参加していた1人の女性が、核兵器反対を訴えて、1988年にアメリカ軍基地にワイヤーをカットして侵入した。その時にアメリカ軍の警備隊兵士に逮捕されて、ワイヤーに絡まった女性の身体を引きずり出して連行した。イギリスのバークシャー郡のグリーンハム・コモンにある米軍基地に対して反核抗議活動をする拠点となった。多くの女性参加者は、訴訟、罰金、時には逮捕から投獄に直面した。グリーンハムの女性平和団体は、行動、ポスター、歌などを活用して核ミサイルに抗議して、社会的注目を集めた。アメリカとソビエト連邦の冷戦で、ヨーロッパが核兵器の脅威に迫られた。
 1981年9月にイギリス政府が、グリーハムにあるアメリカ軍基地に、核弾頭の巡航ミサイルを配備することを認可した。ウェールズから地球姓名女性の会(Women for Life on Earth)の36人が、グリーンハムのアメリカ軍基地に到着して、鉄柵の側に無期限の野営を開始した。その後に、1982年3月に世界の未来の子供の母親として、女性のみの抗議活動と宣言た。女性平和団体は1982年3月に約30,000人の女性が、アメリカ軍基地を取り巻いて封鎖した。1983年4月1日には、約70,000人の抗議者らが、グリーンハムから約14kmもの人間の鎖を形成した。1983年12月の約50,000人の女性の抗議活動は、アメリカ軍基地の柵の一部が切り取られて、数百人の女性が逮捕された。1987年12月の中距離核軍縮条約で巡航ミサイルは1991年に撤去されたが、女性団体の野営は、次のトライデント(Trident )におけるイギリスの潜水艦への核整備計画に対する抗議活動に向けて、グリーンハムで2000年まで抗議活動が約19年間も継続されて、国際的な女性平和活動に影響を与えた。


2020年3月29日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して身体に紫斑が出現して、九州大学病院に入院した。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して、九州大学病院に入院した。身体に紫斑病が出現して、原爆症が重篤となり、側臥位でベッドに横たわった。原子爆弾の放射線の被爆により、最も早期の原爆症は脱毛から始まり、紫斑は約1週間して出現した。同時期に出血性歯肉炎や口内出血も伴った。被爆後の約1週間から2週間に下痢症状が、3週間まで発熱と口腔内咽頭炎が生じた。多くの被爆者は約17日前後に死亡した。原子爆弾の被爆で、最も深刻な影響を受けた臓器は骨髄と腸粘膜であった。大量に放射線に照射された骨髄は脂肪と白く染色された細胞に置き換えられて、造血細胞の根絶した。放射線に曝された結腸は平坦になり、出血が出現した。病理学的所見では、急性放射線病または急性放射線症候群(ARS)と診断された。
 紫斑病は、血斑または皮膚出血とも呼称されて、紫色に現れた皮膚の斑点である。皮膚だけでなく、反転は口の内側の膜から臓器または粘膜にも出現する。紫斑は、皮膚の小さな血管が破裂して、血液が皮膚の下に溜まる。原爆症にて、血小板の減少、血管障害、凝固障害などの重篤な病態を呈する。身体無いに過度の出血をもたらす。「紫斑、すなわち皮下出血は、急性放射線疾患の症状の一つです。原爆被爆後数日から数週間にかけて、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、下痢を伴う血便、脱毛、紫斑または点状出血、のどまたは口内のただれ(鼻咽頭潰瘍)、歯ぐきの衰退および潰瘍(壊死性歯肉炎)を経験しています。これらの症状の発生時期はそれぞれ異なりますが、一般的に、重度被爆者においては早くから発生しました。 (日米共同研究機構、放射線影響研究所;1975年, 元ABCC(原爆傷害調査委員会 ;1947年)」


2020年3月21日土曜日

新興善国民学校の職員室で、9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。新興善小学校は解体され救護所メモリアルに変貌した。(長崎)

新興善特設救護病院における外来診察室は、かつて新興善国民学校の職員室であった。9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。1945年8月9日に長崎市へ原爆が投下されて炸裂した。8月9日被爆直後の原爆による甚大な被害により、長崎医科大学本部と附属病院が、新興善国民学校を仮収容所として患者診療を開始した。10月6日に、新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となった。11月上旬に長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に復帰した。
 1946年2月9日に、新興善国民学校の児童数約495名は、晧台寺に移転した。新興善国民学校を長崎医科大学附属第一医院として診療開始した。1947年4月1日に、学制改革(六・三制の実施)により、新興善国民学校は、長崎市立新興善小学校と改称した。1949年1月22日に新興善小学校は、大学校舎の裏手に仮校舎が完成して、晧台寺から移転した。1950年10月2日から、長崎大学医学部附属病院各科が10月6日までの4日間に、約6年ぶりに浦上の旧構内に復帰した。10月20日に、長崎大学本部が諫早から新興善小学校に附属外来診療所の一部を移転した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。


 1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校して、123年の歴史に幕を下ろす。2004年5月に長崎原子爆弾の最後の被爆遺跡が存続されずに解体された。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館した。被爆の遺跡の一部を複製して「救護所メモリアル」に再現した。
  救護所メモリアルは、その場所にあった新興善小学校では、かつて原子爆弾による多くの被爆者が救護を受けた。旧長崎市立新興善小学校の正門のみが僅かに残存した。長崎原子爆弾の象徴を残していた浦上天主堂も1958年3月18日から解体されて幻の人類遺産になった。長崎市内の原爆の遺跡は、数多く解体された。1980年代後半に、建物の老朽化で、多くの被爆建造物が解体された。爆心地の近隣の山里小学校の被爆校舎も、解体されて新校舎に変貌した。1992年には、旧長崎刑務所の浦上元刑務所の遺跡も、平和公園の改修で大部分が解体された。新興善小学校を、被爆関係者から救護所の現物保存による記憶よりも、校区住民が慰霊祭と平和学習の生活が優先された。
 原爆記憶は真実の象徴があれば、世界平和に向けて発信できる。特に視覚による画像は、戦争記憶を継続するためにもより発進することが重要となっている。戦争の視覚は、文字の視覚よりも、社会的な平和思想と戦争思想が到来して蘇生する。