2020年7月28日火曜日

朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑と長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いが込めらた。

世界遺産である原爆ドーム(左)から元安川を挟んで対岸の広島平和記念公園内に朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(中)がある。強制労働等により広島原子爆弾で被爆した朝鮮人の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願って建立された。朝鮮王家の李鍝公が原爆被災後に救出された場所の近隣の“ゆかり”から、本川橋を渡って西詰めに1970年4月10日に建立された。それは旧太田川の本流を挟んで対岸の広島平和記念公園と区別された。その後に広島平和記念公園内への移設を各方面から強い要望が出され、広島市等と協議により、1999年5月22日に広島平和記念公園内に移設された。広島平和記念公園内の北端にあり、付近には平和の鐘や原爆の像がある。移設後は、双竜を刻んだ冠の中に納めた死没者名簿は、韓国の銘石で韓国で制作された亀座部分前方地面の箱の中に納められた。死者の霊は亀の背に乗って昇天する故事から、亀の台座の上に碑柱が建ち、双竜を刻んだ冠を載せた。朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いを込めた。
 長崎県全体に在住した朝鮮人は約7万人など多数に上がった(内務省警保局発表)。長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられた。1945年8月9日にアメリカ軍による長崎原子爆弾の投下と粗炸裂で、朝鮮人は約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。ささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた約1万余の朝鮮人のために、長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑(右)を1979年8月9日に、原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会が建設した(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)。長崎市の平和公園とは約500mも南方に隔てた爆心地公園内に設置された。過去に日本は朝鮮を武力で威かくし、植民化し、朝鮮人を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた。戦争責任を、朝鮮人におわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾で被爆した朝鮮人は、戦後に原爆症を伴って帰国して実数は明確ではない。広島原子爆弾と長崎原子爆弾によって被爆した朝鮮人は約7万人と推定される。そのうち韓国に帰国した被爆した朝鮮人は約2万人以上とも示唆される。被爆した朝鮮人は、徴用による強制連行から原爆症から苦難している。慰霊碑はスクリーンともなり、隠蔽するための遮蔽物ともなる。戦争と平和の記念碑には、戦争犠牲者を代賛する象徴となる機能も、戦争における強烈な記憶を隠す機能もある。朝鮮半島の非核化やアメリカと中国・北朝鮮の冷戦の緩和、南北関係の融和を願い、その実現は核を廃絶する道でもある。
  明治維新以後に、朝鮮支配を強めた日本は、1910年の日韓併合により朝鮮を植民地とした。生活基盤を失った多くの朝鮮人は職業と生活を求めて日本に渡たり移民となった。第二次世界大戦中には、日本は労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって多くの朝鮮人が日本で強制労働させた。敗戦時には、日本には約300万人の朝鮮人がいたと推測された。1910年8月22日、日本政府は日韓併合条約を公布し、朝鮮は完全に日本の植民地下に置かれた。朝鮮人は自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失って、日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本終戦時には約2,365,263人に上った。





2020年7月25日土曜日

17歳の少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立位で背部の全体は炸裂方向に、着衣は炸裂直後に燃え上がり、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。

17歳の少年は長崎原子爆弾に被爆して、新興善救護所に搬送されて収容された。少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立ち上がり立位の時に被爆した。特に、背部の全体は長崎原子爆弾の炸裂方向に向けていた。頭部は左側に回していた。少年は、夏シャツと夏ズボンを装着していた。シャツやズボンなどの着衣は炸裂直後に、炎を出して発火して燃え上がった。そのために、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。おそらく頭部を回してしわが寄っていたために、頸部の周囲には不規則な火傷を被爆していた。写真は1945年10月頃に撮影された。少年は、長崎原子爆弾の炸裂後の爆風によって、殴り倒されたが、意識は消失しなかった。その後に、少年は脱毛を合併したが、その他の放射能による原爆症は発症しなかった。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
 爆撃当日の火傷による死亡率は不明であり、非常に多くの人々が熱と電離放射線の両方に曝されたため、最初の週の死亡率も不明である。しかし、閃光火傷による死亡率は、広島原子爆弾では、比治山高校の51人の少女が爆心地から約762mの校庭にいた。全員が重度の火傷を負い、1週間以内の死亡率は100%であった。約956mで完全にばく露された193人の労働者の死亡率は95%であった。死亡の一部は電離放射線もあるが、数日以内に発生した死亡のほとんどは火傷が原因であった。


2020年7月18日土曜日

広島原子爆弾により婦人は爆心地から約1.6kmの路上で被爆して、特に露出していた顔面と両上肢に重度の熱傷とケロイドを合併した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。婦人は、爆心地から約1.6kmの路上で被爆した。特に露出していた顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。広島逓信病院に救護されて熱傷の加療を受けた。広島原子爆弾の炸裂後から約1年半経過して、広島逓信病院に1947年2月10日の通院した。被爆者である婦人の顔面と両上肢の熱傷の痕からは異様なケロイドが上皮から厚く膨隆した。ケロイドは、熱傷の修復段階における創傷表面の瘢痕組織の異常増殖である。単純な瘢痕組織の肥大である肥厚性瘢痕とは対照的に、カニの殻や脚に似た不規則な形状の突起を形成する。したがって、「ケロイド」という用語はギリシャ語ではカニを示唆する。瘢痕は通常は二次熱傷によって引き起こされ、ケロイドは一次熱傷から生じる。ケロイドの瘢痕の再発は珍しいことではない。ケロイド瘢痕を除去するために多くの整形手術が行われた。被爆者の火傷や傷口が治ったように見えた後に、傷が厚くなり、ケロイドと呼ばれる腫物ができた。ケロイドは、爆心地から約2 km以内で熱線に曝された人々の約50〜60%に発症した。ケロイドは放射線被爆で悪化し、多くの場合に、触覚が非常に敏感となった。身体の未燃部分から採取されて移植した皮膚も同様にケロイドを発症した。
 ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドを持っている女性は、避難所を対処しても、外出して家を離れることを拒否することが多っかった。さらに背中や肩にケロイドを持っている女性は、その肌を見せることをためらった。原爆投下後された夏でも、広島の被爆者は長袖のシャツを着ていた。他からは「原爆病」として恐れられて、その傷跡のために明白に被爆者は軽蔑された。ケロイド瘢痕は肉体的にも感情的にも障害を伴う。若い女性は、顔や足のケロイドが愛と結婚の障害になって、特に脆弱となった。傷ついた女性の多くは、周りの人たちが受ける外見や軽蔑に絶望していた。感情的な苦痛を抱えながら、多くの女性は勇気を持って、自分の状態を共有している他の被爆者との接触を通じて、自立生活を模索した。ケロイドの被爆者は、原子爆弾の公の好奇心と悪意の対象となり、多くの社会的影響を伴った。雇用主はケロイドの傷のある人を雇うことを望まない。放射線病の症状を持っている人と結婚することを望まない。ケロイド被爆者は、人々から攻撃の生存者として監視されて、炸裂の悪夢を思い出させた。


2020年7月11日土曜日

広島陸軍病院宇品分院にて、アメリカ陸軍の調査団員が、原爆症による被爆者の角膜を通じる光度で、水晶体の白内障を検査した。

広島陸軍病院宇品分院にて、1945年9月11日にアメリカ陸軍の調査団員が、救護されて収書した被爆者を訪問診療をした。原爆症による被爆者の角膜を通じる光度により、水晶体の白内障を検査した。1945年8月6日に投下されて炸裂した広島原子爆弾による原爆症に関して、約1月後にアメリカ陸軍が被爆者を調査した。
   原爆放射能は、眼球の水晶体が最も放射能の感受性が高く、放射能障害を引き起こした。放射線により、水晶体上皮細胞が傷害されて、水晶体単位が変性して、後嚢下白内障が生じる。原爆被爆者における術後白内障の有病率は、原爆放射線量とともに著しく増加した。原子爆弾が放射した放射能が誘発した白内障は、特有のドーナツ型の不透明度は、水晶体の後極で著明となる。一面にわたる水晶体の不透明度は、周辺部にも散在した。白内障は、水晶体の老化、糖尿病、放射線、外傷などの原因とで水晶体の混濁が発症した。原爆白内障は、被爆後の約3ヶ月から10年の間に出現して、加齢により視覚障害が進行した。爆心地からの距離が短いほど発生率は高くなった。広島原子爆弾では1948年6秋、長崎原子爆弾では1949年に認定された。
 1928年に設立した国際X線ラジウム防護委員会は、1950年に国際放射線防護委員会(ICRP)に改組され、放射線防護の基本的な枠組みと防護基準を勧告する国際学術機関となった。 放射線防護委員会(ICRP)は、検出可能な水晶体混濁を引き起こすには少なくとも0.5〜2Svの短時間の曝露が必要であり、視覚障害の白内障には5Svが必要であると推定している。眼球被爆ガイドラインは、放射線白内障は、一般に2Gyを超える閾値線量を必要とされた。近年では、眼球被爆ガイドラインの最近の再評価により、放射線白内障の閾値を0.5 Gy /年に、眼球被爆限度を20 mSv /年に下げることが提唱されている。ICRPは2007年に線量限度を勧告した。職業人の線量限度を100mDv/5年かつ50mSv/年、一般公衆の限度を1mSv/年とした。
 原子爆弾の炸裂により被爆して、その後にも影響が残るのは、放射能傷害であった。たとえ、熱傷や外傷が軽微であっても、固縛者は数日から数週間にわたり、放射能による身体障害に罹患する。体温が40度近くにも達して、口や鼻から大量に出血して、下痢、全身の倦怠感を伴いながら、原爆症により被爆死した。大量の放射能をあびた被爆者の身体の細胞や血液が傷害されて、多臓器の傷害、免疫機能の低下して重篤な原爆症が発症して、多数の被爆者が死亡した。


2020年7月4日土曜日

長崎原子爆弾に18歳の女性が、爆心地から約1.1kmで被爆し、約19日目から脱毛が発症し、3日前から紫斑も出現した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、18歳の女性が、爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆者は、長崎市内の木造の建物の中にいた。原子爆弾が炸裂して、約19日目から脱毛が発症した。その3日前から紫斑も出現した。脱毛は、残存した頭髪が分散して伸びた。白血球減少症は2ケ月間は持続したが、その後に被爆者は回復した。DNAに放射線が当たると、当たった量に相関してDNAの一部が壊れる場合がある。X線1mGy当たり、1細胞で平均1箇所の1本鎖の切断が起こる場合があり、1mSVに相当する。もし2本鎖のDNAの切断は、頻度がなく約0.04箇所となり、約100細胞が均一に1mGy浴びたら、2本鎖の切断が4細胞に起こる場合がある。
 原子爆弾からの強力な放射線の被爆で、細胞の遺伝子(DNA)を切断されて、細胞分裂が困難となる。分裂が不可ならば、細胞は生まれ変われない。身体の外から放射線を照射された場合には、放射線は皮膚を通過する。正常な細胞であった毛母細胞も分裂が困難となり、多くの場合に脱毛が起こる。ただし、細胞に修復能力があれば、毛は再び生えてくる。放射線への曝露は体内のすべての細胞を損傷する可能性がある。毛髪は通常健康な正常組織よりも速く成長するため、頻繁に分裂する細胞ほど損傷を与える傾向がある。そのために、脱毛は最も著明で明白な発現の1つの症状となる。脱毛した被爆者の外見は典型的であった。頭頂部は側面よりも脱毛が多く含まれて、多くの場合、僧侶の剃髪との類似性が印象的であった。極端な場合には、髪は完全に失われた。場合によっては、爆撃の50日後までに被爆者に脱毛が認められたときまでに髪の再成長が始まっていた。頭皮以外の脱毛は非常に稀であった。
  原爆症の脱毛は、脱毛部では、毛髪の母細胞である毛母基、そしてそれに続く内毛鞘、外毛根精が強く傷害されていた。脱毛は早い人で1週間後から始まり、第3週間ころ発症した人が多かった。皮下出血もしばしば合併した。生存者の多くは、約12週間から約14週間で基に戻った。脱毛の発症頻度は、被爆距離に密接に送還した。生存者でみると近距離で被爆した人ほど高頻度であった。毛髪は、毛包または毛球中にある細胞群により作られている蛋白質からできる。放射線または有毒化学物質、例えば、がんの化学療法に使う薬剤などに被曝するとこれらの細胞は壊死する。その結果個々の毛髪は徐々に細くなり、くしを通したとき簡単に折れる。毛髪の喪失すなわち脱毛が発症する。原爆被爆後の数日から数週間の間、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲減退、血便を伴う下痢、脱毛、紫班 または点状出血、のどまたは口内の痛み、鼻咽頭潰瘍、および歯ぐきの衰退および潰瘍、壊死性歯肉炎を合併した。症状の発生時期は異なるが、一般に重度被爆者ほどより早い時期に発現した。

2020年6月27日土曜日

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆して、大村海軍病院にて1945年8月11日頃に撮影された。

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆した。上半身の表皮は、広範囲に浅く剥離した。大村海軍病院に8月9日に護送されて四病舎に収容されて、少年の受傷から2日目の1945年8月11日頃に撮影された。表皮が剥離してびらんした第2度の熱傷を患い、中等度の出血を伴った。リパノール肝油を塗布して、ビタカンフルや高張ブドウ糖駅を注射した。体温が8月26日に約36.4度であったが、27日から約39.0度の高熱になった。朝は約27度で夕方は約39度の弛緩性の熱型となった。9月4日に、白血球数は約4,000で、9月11日の午後4時20分に重症となった。その後の診療記録は不詳である。
 長崎原子爆弾が炸裂した放射性の熱戦により、長崎の少年の全身が火傷に被爆した。長崎県大村市の大村海軍病院に護送されて全身が3度の火傷の写真を撮影された。第二次世界大戦中に日本で起こった長崎原子爆弾の被爆者であり、少年の身体は、放射性の熱戦により、細胞は変性した第2度の火傷で覆われた。少年は放射線被性曝も伴った。長崎原子爆弾によっても、少なくとも約74,000人が死亡し、約75,000人が負傷した。別の原子爆弾はそれ以前の1945年8月6日午前8時15分に、日本の広島市で爆発した。 これら二つの原子爆弾の炸裂した後に、日本はアメリカ軍に降伏して、第二次世界大戦は終結した。
  原子爆弾の炸裂の瞬間の火球は数万度に達する。約0.2秒後には約7,700度から約3秒で熱戦は減衰する。原子爆弾の炸裂で約0.5秒まで火傷は最高度に達する。主に人体に熱傷を起こすのは赤外線であった。原子爆弾の熱線の照射を受けて、表皮組織が一様に浅く侵食されて、下層の健常部と境界が明瞭となる凝固壊死を伴った。表皮の傷害は2度以上で、組織が侵食されて凝固する凝固壊死、5度以上では黒焦げの炭化して、浮腫や浸出液の浸潤は乏しい。直接に人体に達した熱線により、第一次原子爆弾熱傷を被爆する。熱線等により、火災熱傷、焦熱傷、触熱傷、焔熱傷などにより間接的に、第二次原子爆弾熱傷を被爆する。特に第一次熱傷は、原子爆弾に特有の熱傷である。広島では爆心的から約1.0km以内、長崎で約1.5km以内では5度以上の熱傷を被爆した。それ5度以下は、広島で約3.5km、長崎では約4.0kmまで及んだ。  


2020年6月21日日曜日

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日に、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
 御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。


2020年6月13日土曜日

長崎原爆に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送され、入院中に早期から全身皮膚に紫斑が出現した。

1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
 1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
 爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
 その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
 これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
 被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。 



2020年6月7日日曜日

広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに無縁仏が虚しく納骨されている。

広島原子爆弾が炸裂した1945年から23年を経過した1968年にも、広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに虚しく納骨されていた。被曝した直後には、死体は物体のように扱われて処理された。広島市内は壊滅して大混乱して、処置する必要のある死体が数万も散在していた。焼け跡や川縁から軍隊等らにより、死体は運搬されて、約100mごとにまとめて集積された。警察が軍隊に付き添い検死するも、推定できるのは性別や年齢だけであった。氏名なども、わずかに瓦の破片の目印だけであった。原爆供養塔に集積した遺骨のほとんどが氏名不詳の無縁仏となった。アメリカ人捕虜や朝鮮人から中国人などの外国人も納骨されている。原爆供養塔の暗いコンクリートの地下室に、遺骨が密かに雑居している。供養塔内で偶然に身内の氏名を見出して歓喜しても、引き渡された遺骨は骨箱の中で小塊が当たり響いた。
 広島平和記念公園の北端にあたる慈仙寺鼻の川辺には多くの死体が打ち上げられて火葬場となった。一種の供養場となり、1946年には供養塔と納骨堂が建立されて、引き取り手のない無縁仏を納骨した。納骨堂が仮小屋で朽ち果て、1955年の円型古墳様のコンクリート製の原爆供養塔に移設された。さらに広島港から約3kmの似島の救護所の墓標であった千人塚の約2,000人の遺骨を1955年に発掘して、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
 原爆供養塔は、1955年年8月5日に広島戦災供養会が建立した。原爆供養塔のなりたちは、爆心地にの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれて、荼毘にふされた。氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するため、1946年に市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立された。その後10年経った1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納骨した。土盛り原爆供養塔の内部には、納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が納められている。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年 公開し、遺族を探している。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、2007年6月でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っている。合同慰霊祭は、1946年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれる。毎月6日には例祭がとり行われる。桃山時代の御陵を模した円形の土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている(直径16m、高さ3.5m)。 広島平和記念公園内に被爆者の遺骨を納骨することは不当とされて、原爆慰霊碑の石棺に過去帳の氏名のみが奉納されている。無縁仏となった遺骨のみが、原爆供養塔に納骨されている。





2020年5月30日土曜日

長崎原子爆弾の被爆者が道の尾駅の臨時救護所に多数の被爆者が集散し、熱傷の被爆者がチンクオイルで応急手当てを受けた。

長崎原子爆弾の爆心地から北方約3.6kmの長崎本線の道の尾駅の付近の臨時救護所に多数の被爆者が集散した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに熱傷の被爆者が応急手当てを受けた。両手から両上肢に熱傷を受けた被爆者が、大村海軍病院の看護婦が用意した洗面器に中に両手を漬けた。洗面器の水にはチンクオイルを含めた。チンクオイルは、酸化亜鉛を含み、皮膚を保護し、炎症を低下させる薬効があった。火傷からの浸出液を吸収して乾燥させた。皮膚の再生を助けて、皮膚保護薬として使用した。重症の被爆者は、大村や諫早、川棚の海軍病院に列車で護送された。道ノ駅には、壊滅した長崎市北部からお昼午後12時頃から被爆した負傷者や避難者が滑石の道に長蛇の列が形成された。むしろがけの2つの小屋の臨時救護所に約200人もの被爆者が収容された。約3,500人もの重症の被爆者は、救援列車で大村駅あるいは諫早駅などに護送された。列車に乗り込む被爆者は、プラットホームに一杯に待機する行列ができた。
 長崎本線は浦上駅、長崎駅の駅舎が全焼失して、倒壊して職員約157人が死傷した。路面電車の長崎電気軌道も壊滅的な被害を受け、車両約16両が焼失、約120人の社員が被爆死した。原爆救援列車として、8月9日の長崎原子爆弾投下の直後に、長与駅を出発した計4本の列車である。正午過ぎに最初の救援列車が出発した。最初の救援列車は、爆心地から約1.4kmほど離れた道ノ尾駅と浦上駅の中間にある昭圓寺付近で運行することが困難となった。そこで被爆者を収容してから、さらに道ノ駅で被爆者を詰め込み諫早へと向かった。長与駅で被災していた上り列車が、8月9日に最終の救援列車として運行するなど、8月9日に4本の救援列車が奔走した。約3,500人の被爆者が諫早、大村、川棚の各海軍病院などへ運ばれた。道ノ駅の長崎原子爆弾が1945年8月9日の午前11時2分に投下されて、初発の原爆救援列車は、長与駅から13時50分頃に爆心地近くの道ノ尾駅を発車して、15時頃に海軍分院院のあった諫早駅へ到着した。列車の中は足の踏み場なく被爆者が横たわった。


2020年5月24日日曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.77kmで被曝した若い女性の左顔面がガラスなどの飛散破片により、重度の皮膚裂傷を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.77kmで女性は被爆した。10月5日の時点で、女性の左顔面がガラスなどの飛散破片により、重度の皮膚損傷を受けた。創部に沿って目尻から口唇までケロイド状の瘢痕を伴った。被爆者として広島赤十字病院に護送されて、ガラスの破片による深い裂傷の救護された。

爆風による飛来破片による身体損傷
 原子爆弾が炸裂した爆発による間接的な負傷は、高爆発性の爆弾の場合と同様に、直接的な負傷よりはるかに多い。広島と長崎では、間接型の致命傷はほぼ完全に破壊された地域で発生した。
 広島と長崎の原子爆弾の臨床視察では飛散破片が生存者の中で最も多くの死傷者を引き起こした。爆風による致命的ではない飛散破片の負傷が死傷者のほとんどを占めた。爆風の力が最も大きかった内側の地帯では、ほとんどすべての自由な物体が致命的な弾丸に変換された。特にガラスの破片が裂傷の最も頻繁な原因となった。大きな破片が、時々窓の反対側の部屋の壁に打ち込まれた。深い裂傷はそのような破片から生じた。より小さなものは、小さな破片によって生じた複数の裂傷となった。この原因による末梢神経および血管の損傷が多発して、動静脈動脈瘤が時々に生じた。広島の原子爆弾の軍事救護病院では、治療された爆風による損傷の54%が挫傷、35%が裂傷、11%が骨折に分類された。爆風による死傷者の即死のほとんどは、建物とその中身の落下によるものであった。骨折は比較的まれであり、生存者のわずか4%で発生しが、発生率は低いにもかかわらず、その数は医療の過負担となった。しかし、多くの非生存者は重度の骨折をした可能性がある。日本では、骨折の治療は、放射線損傷の存在下での遷延治癒と、そのために骨折の固定が困難であり、開放創のある複雑骨折も伴った。地面に投げたり、固形物に衝突するなどの暴力的な飛散が頻繁にあり、被爆者はこの発生源から死傷した。
 
 爆風による直接的な内蔵損傷
被曝して直接的な爆風で肺損傷がある動物では、直接的な爆風損傷の肺の証拠がある動物では、40%にも腹部臓器に出血があった。最も影響を受けやすいのは大腸で、次に肝臓、脾臓、腎臓、膀胱の順であった。中枢神経系への損傷は、高度の脳圧を必要とした。広島と長崎の原子爆弾では、約300m以内で地圧が約241,000パスカルを超えても、深刻な爆風による直接的な損傷の証拠はほとんどなかった。この地域の少数の生存者によって部分的に説明される。日本の視察者は爆風による内臓への直接的な損傷の事例を発見することができなかった。即時の死傷者の剖検では、肺への爆風損傷の典型的な病理を見いだせなかったが、肺気腫と無気肺の病巣は発見した。共同委員会が調査した広島の生存者のうち、鼓膜が破裂したのは爆心地から約1.0km以内であっても1%未満であった。約1.5kmを超えると、発生率は0.1%未満であった。
 広島原子爆弾の生存者では、爆発の直後に検査された371人の患者のうち8人(2%)のみが鼓膜の破裂を起こた。371人のうち19人は一時的な難聴であった。その集団の76%は約2.0km以内であった。長崎の原子爆弾では、1945年10月に198人の生存者(全員が約1.0km以内)を検査し、破裂した鼓膜は8人が見出した。アンケートで調査された広島と長崎の両都市の生存者の中で、どの距離でも1%未満が難聴の状態を報告し、約3.0kmを超えた被爆者には見いだせなかった。めまい、耳鳴り、頭痛、トラウマの形跡のない意識喪失など、その他の明確に定義されていない症状は、爆風に起因する可能性があった。広島と長崎の両都市で調査された生存者の約15%が、めまい、耳鳴り、または頭痛を訴え、ほとんどは約2.5km以内であった。一時的な意識の喪失は、広島の原子爆弾の生存者のほぼ6%で、ほとんども約2.5kmマイル以内にいた。意識の喪失は直接の爆風ではなく暴力的な移動によって引き起こされたと想定された。日本より低い標高で原子爆弾が炸裂した場合には、熱と電離放射線が致命的な影響を及ぼすので、生存者間の直接の爆風損傷の相対的発生率が相対的に低くなる可能性がある。しかし、より大きなエネルギーの原子爆弾の場合には、爆風圧は距離が遠くなるほど高くなり、爆風圧の曲線は電離放射線の致死効果よりも急速に上昇した。


2020年5月28日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 210,000回


2020年5月16日土曜日

広島原子爆弾の炸裂で大規模半壊を受けた広島赤十字病院では、多くの被爆者には建物の外でも治療を受けるしかなった。

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の炸裂によって、人的にも物的にも大規模半壊を受けた医療設備と医療資材がが限られているため、多くの被爆者には建物の外でも治療を受けるしかなった。多くの被爆者が広島赤十字病院の建物外でも扱われる必要があった。
 広島赤十字病院は広島原子爆弾の炸裂から全壊は免れたが、建物はかなりの被害を受けた。膨大な被爆者に病院職員は圧倒された。広島赤十字病院自体の人的・物的打撃が甚大であり、医療機能も停止状態となった。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医師や職員らは院外にいた者も含め約51が死亡し、約259人が重軽傷を負った。一度に数千人の負傷者が殺到した。残余のわずかな医療機械・医薬品による救護活動に限定された。広島市内の医療機関が壊滅状態にあったため、医薬品の補給もつかず簡単な応急手当でさえも難しい状態で、不眠不休での治療が続いた。病院の衛生状態は、控えめに言っても最低であった。ハエは、その場しのぎの病院のすべてに飛び回っていた。医師と看護師らと広島赤十字病院の外来では重症度の軽い火傷者を治療した。
 広島原子爆弾の炸裂による火傷からの外観の異常に加えて、多くの被爆者は、線維組織の過度の増殖の結果であるケロイド瘢痕を患っていた。ケロイド形成の発生率は、1946年から1947年の間にピークに達した。ケロイドの瘢痕は多くの被爆者の首と頬などに見られた。典型的な火傷の被爆者はや多くの傷跡を残した。原子爆弾の炸裂による熱射の火傷に起因する色素異常を患った。関節またはその近くに火傷を負った人は、特に回復が困難で障害を伴った。肥厚性瘢痕および関連する拘縮により、被爆者は稼働制限を伴い、動作痛を伴った。関節の周りに深刻な火傷を負った多くの犠牲者にとって、回復への道は困難でした。多くの被爆者は、熱傷によって破壊された組織の広い皮膚領域を、再生するために広範な皮膚移植を受けた。不幸な場合では、皮膚移植が常に成功したわけではなかった。接合は部分的に成功しても、広範な瘢痕化につながった。外傷性白内障や白血病などの病気は、1947年頃から頻発して出現して、この時期に頂点に達した。衣服で保護されても、一症例では首を開いたシャツで火傷を負って、1946年12月14日時点には胸にケロイドができていた。


2020年5月9日土曜日

第五福竜丸無線長の久保山愛吉は、水爆に被曝してベッドに寝込んみ、家族の見舞いを受けて約20日後に水爆症死した。

第五福竜丸無線長であった久保山愛吉は、1954年3月1日のビギニ環礁におけるアメリカ軍のキャッスルブラボー(Castle Bravo)の水爆実験により放射能を大量に被曝した。最も重篤な40歳の久保山愛吉は国立東京第1病院に入院中に、8月29日に骨髄炎を併発して、1954年9月1日にベッドに寝込んで家族の見舞いを受けた。水爆を被曝した直後から、嘔吐、食欲不振、頭痛、めまい、下痢と倦怠感などが出現した。約3日目から外皮膚が赤くただれ、約10日目から水疱化して、頭髪が大量に脱毛して、急性水爆症に罹患した。3月14日に焼津協立病院で加療されて、重態の2人は3月15日から東京大学病院に転院した。は異変を併発して1954年9月23日に、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して国立東京第一病院で水爆症死した。
  第五福竜丸は156トンの漁船で、焼津港から南太平洋でマグロ延漁をしていた。第五福竜丸は、3月1日午前4時12分に南太平洋のビギニ環礁にて操業中に水爆実験の放射能降下物に被曝した。その他にも、マーシャル諸島の住民なども水爆の被曝に巻き込まれた。3月14日に焼津港に帰港して、3月16日に第五福竜丸事件が発覚して報道された。その事件後も、アメリカ軍の水爆実験のキャッスル核兵器作戦は、継承されて3月27日から6月20日まで5回の水爆実験が強行された。第五福竜丸は、アメリカ軍が設定した立ち入り禁止区域よりも遠方であるも、想定以上の水爆の威力により被曝した。
 第五福竜丸の船員は、突然に南西の海面から火炎のきのこ雲の噴出を目撃した。それから凄まじい爆発音、爆風、熱風が第五福竜丸を襲った。閃光から約3時間経過した午前7時頃から放射能降下物である死の灰が甲板一面に降り積もった。爆心地であるビギニ環礁から北西約168kmで、第五福竜丸の船員23人の全員が約300R以上の被曝した。直ちに午前10時30分頃に延縄を引き上げて、時速9Kmで約3,000km離れた焼津港に帰還した。第五福竜丸の船体は、東京都の夢の島公園に「第五福竜丸」に展示されている。
 アメリカ政府の公式な見解では、水爆には放出される放射能の同等の増加は伴わず、乗組員が放射性降下物の影響を受けたことを否定した。水爆の核分裂の最終段階が、広島原子爆弾と長崎原子爆弾に対して、放射能量が約1,000倍にも膨大した脅威が示唆された。日本政府のアメリカ軍の抗議で、外交関係が緊張して、「第二の広島」と呼称された。日米両政府はすぐに収束して、犠牲者に被爆者の地位が与えないことも合意した。金銭的補償としてアメリカ政府から日本政府に15,300,000ドルを転嫁して政治的和解に達した。生存した各被爆者には、1954年には5,550ドル、2020年までに約52,800ドルを補償で終結した。



2020年5月2日土曜日

長崎原子爆弾の被爆者が大村海軍病院にて8月末に死亡して、多数のガラス破片が、上半身の皮膚に刺入して膿瘍を伴った潰瘍を生じ、その周囲には紫斑を伴った。

長崎爆弾の被爆者が、大村海軍病院に救護された。しかし明細は不明であるが、大村海軍病院において被爆者は8月末に死亡した。長崎原子爆弾が炸裂した爆心地からの距離も不詳である。多数のガラス破片が、上半身の皮膚に刺入した。その刺入傷の周囲に膿瘍を伴った潰瘍を生じた。その周囲には紫斑を伴っていた。
 原子爆弾による紫斑病は、または皮膚の下の出血は、急性放射線病による原爆症の1つである。原爆投下後の数日から数週間、原子爆弾に被爆した被爆者は、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、血性下痢、脱毛、紫斑または点状疱疹、喉や口の痛み(鼻咽頭潰瘍)、腐敗と潰瘍、歯の周りの歯茎(壊死性歯肉炎)などの合併症を伴った。これらの原爆症の発症時期はさまざまであるが、重度の被爆者がより早く原爆症を発症した。
 急性放射線の主症状は、脱毛、紫斑及び下痢などがある。放射性物質による被曝の影響は、爆心地からの距離とともに増大して、約1.5kmで急性放射線症状の影響が最も出現した。爆心地から約6kmも遠位でも少なくとも残存した。最大の急性放射線症状には、ガンマ線(γ線)に影響された。原子爆弾の炸裂後の6週間後に測定された残留放射能は、広島では約6〜25レントゲン、長崎は30〜110レントゲンであった。
 初期放射線は、原子爆弾の炸裂後の約1分以内にγ線と中性子線による瞬間的な外部被曝した。約1分後からは、放射性降下物と誘導放射化物質により被曝した。放射性降下物は、原爆の核分裂による火球から原子雲そして黒い雨と黒い煤などの放射性微粒子を被曝して、広範囲の原子雲により遠距離まで被曝した。誘導性放射化物質は、主に中性子により、爆心地周辺に集中して、直爆被爆者にも入市被爆者にも内部被曝した。



2020年4月25日土曜日

長崎原子爆弾に被曝した2人の少女と1人の男子の頭部が脱毛状態を九州大学調査団が視察した。

長崎原子爆弾に被曝した2人の少女と1人の男子の頭部が脱毛状態を九州大学調査団が視察した。原子爆弾の被曝による脱毛は、被爆後の約2週間頃から突発した。原子爆弾から放出された放射線は、細胞分裂が活発なほど大きく損傷する。大量の放射線を被曝して、毛を作る細胞が損傷を受けて、新しく毛を作れず、毛が抜ぬけて脱毛になった。髪毛けが抜け、吐血をした。脱毛部では毛髪の母細胞である毛母基、内毛根鞘、外毛根鞘が強く細胞障害された。脱毛の発症頻度は爆心地から1km内では広島約69%と長崎約32%,3km以上では広島約2%と長崎約2%であった。脱毛発現は、広島の原子爆弾では1km以内は平均17.2日、1.5km〜2.0kmは平均28.1日であった。脱毛部分は、頭部が最も多く、まず前頭部から後頭部と側頭部に及んだ。その他の眉毛、腋毛、陰毛は影響は少なかった。脱毛は、平均1〜2週間に進行して、生存者の多くは約12〜14週間で再生始めた。  
 原子爆弾を作るために慎重に濃縮されたウラン元素に、中性子との衝突により2つの副産物であるセシウムとルビジウムが生成される。セシウムとルビジウムから分離したさらに2つの中性子がウラン元素と衝突し、プロセスが繰り返されて、強力なエネルギーを発生する。光の2倍の速度で発生する原子核の分裂に由来する。連鎖反応からガンマ(γ)線の放射線を放出する。放射線は人体に侵入し、X線への曝露で細胞損傷を引き起こす。原子爆弾の火傷以上に、ガンマ線は被爆者の人体を損傷した。広島と長崎の人々は、放射線に暴露された。炸裂後の最初の2〜3日では放射線の影響はなかった。その後まもなく、爆心地から被曝距離に相関して原爆症を発症した。原子爆弾の被曝により、血性下痢・軽度の吐き気と嘔吐・食欲減少・歯茎、口、咽頭の炎症・12〜48時間以内の発熱・脱毛・小さな鮮やかな斑点・歯茎、鼻、皮膚からの大出血・白血球数の減少などの原爆症を発症した。