2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。































2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。








2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。





2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

広島原子爆弾の爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。 







2021年9月25日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着ていた女性が被爆して、衣服とストラップや縫い目が、火傷に影響を及ぼした。

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着た女性が被爆した。タイトな衣服とストラップや縫い目が、火傷を保護する効果があった。火傷は衣服が最もきつかった部位である右肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。下着の紐と着物の縫い目が右肩を保護した。暗色の着物により熱線が影響を受けた。被爆者が炸裂時に着用していた外衣である。着物の焦げた部分が落下している。柄の薄いロゼンジ部分は比較的焦げにくい火傷が軽傷であった。火傷は衣服が最も密着していた部位で発症した。袖が緩んでいた上腕部の中央部分に焦げが発生しても、その部位には火傷はなかった。

  爆心地から約1km以内を除き、衣服は火傷を防ぐのに有効である。日本の都市では、服を着ていない人が服を着ている人の6から7倍もの人が火傷をしている。体の部位の割合は服を着ていない場合の数倍である。衣服による保護効果が高いことがわかる。頭や手足の火傷の発生率は、覆われている可能性の高い体幹の火傷の発生率よりもはるかに高かった。

 原子爆弾の爆心地から約800m以内では、衣服による保護は不可能であった。それ以上の、距離に応じて防護効果が高まった。しかし、夏期で日中の気温が高かったために、被爆者の衣服は一般に薄手のものが多く、野外ではほとんど衣服を身につけていない人々も多かった。これらの要因が、原子爆弾による火傷の発生率を高めた。

 衣服の上から受けた火傷は、素肌の場合よりも程度が低い。多くの場合、衣服を身に着けない素肌は炭化するほどの重度の火傷を負っていても、同じ人の衣服を着た肌は、わずかな色素脱失や単なる色素沈着を示すだけである。これは、同じ距離で火傷した人でも同じように変化する。

  熱の吸収の法則に従えば、白い服を着ることが一番の防御となる。白い服を着ていた広島原子爆弾の被爆者約169人のうち半分以上が白い服の下で火傷した。色付きの服を着ていた被爆者約785人では75%近くが火傷を被った。この結果は、素材の色のついた衣服よりも、白い衣服の方がはるかに防御力が高い証拠を裏付けた。黒い服はよく焦げて、時には火事にもなったが、同じ距離で着ていた白い服は燃えなかった。模様のある衣服を着ていた場合に、衣服の下の火傷には、色合いの違いに応じた模様が見られることが多い。白地に暗色の斑点やストライプがあると、焼けたり焦げたりするが、。白い布はそのままで、その下の皮膚は火傷しなかった。

  厚手の服は薄手の服よりも防御力が高く、皮膚が焼けた部分には縫い目や折り目に焼けていない線が多い。着物の重い襟や、靴やサンダルの紐も同様の効果がある。ゆったりとした衣服の方が窮屈な衣服よりも保護効果が高く、窮屈な衣服の下はそのままでも火傷する。窮屈な衣服による影響が示された。


暗色の着物により熱線が影響を受けて火傷が重傷化した。



火傷は衣服が最もきつい肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。

2021年9月18日土曜日

新興善救護所に入所した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫び、口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。

 新興善救護所に入所した長崎原子爆弾に被爆した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫んだ。顔面から口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。傷口もわずかに湿らす程度であった。周囲の被爆者は次々に死亡して救護所外で死後処理されて、被爆者は常に死の恐怖を伴った。

 新興善救護所は爆心地から、南南東に約3kmの地点であった。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着した。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。近隣から数百人規模の救護隊が駆けつけた。3階建ての救護所には、連日に被爆者で溢れ、瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、不眠不休の救護をした。8月末までの約2週間に約8,000人が手当を受けた。被爆者は原爆症により泣きわめいた。医薬品が不足する中で、火傷もわずかな手当でそのままとなる。外傷もぶらぶらの状態となり、夏場で蛆虫が集った。

 長崎原子爆弾で壊滅した長崎市は、崩壊した長崎医科大学の代賛として市内最大の救護所となった。1936年に新興善国民学校が建てられた鉄筋コンクリートの建物は、原爆の爆風で窓ガラスが粉々になるも、倒壊を免れて救護所になった。それ以後6年間は長崎医科大学の臨時の特設救護病院となった。長崎市立新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。





2021年9月11日土曜日

アメリカ週刊誌Lifeは、防空壕に入り長崎原子爆弾から無傷で不似合いな笑顔を浮かべ幸運の少女を美化してアメリカ国内に公表した。

アメリカ週刊誌「Life」(1952年9月29日号、26頁)は、「警報後に防空壕に入り、すべて異常なくなるまで出所しないで、無傷で不似合いな笑顔を浮かべながら幸運の少女が防空壕から這い出てきた。」と長崎原子爆弾に被爆しなかった幸運な少女と美化した。日本軍報道部員であったは山端庸介は、被爆を免れて瓦礫にいた少女に向かって、塹壕に入ってカメラに向かって微笑むように依頼して撮影した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日の早朝に、爆心地から南南東2.5kmの中町天主堂付近で少女を撮影した。原子爆弾の二次火災による焼失した地域であった。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、その後に自然発火して大火災に発展したと推定された。
 山端庸介ら報道部員は、8月10日午前3時ごろから、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で、8月12日までに爆心地周辺など約100コマを越える写真を撮影した。8月12日にフィルムを現像するも、写真の撮影を戦時中に守秘した。
 1945年7月に山端庸介は、福岡県福岡市の陸軍西部軍管区司令部に報道部員として徴用された。新型爆弾(原子爆弾)が広島に投下された8月6日に赴任した。8月9日に長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受けた。軍艦司令部から、対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を記録する指令されて、作家の東潤、画家の山田栄二、写真家の山端庸介ら5人の報道部員が長崎県長崎市に探索に向った。8月10日午前3時頃に、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着した。その地点で列車は不通になって、焦土と化した長崎市内の被災地を徒歩にて縦断して、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いていた。
 傷つき、ほこりをかぶった写真のコレクションが、遅延信管爆弾のような衝撃を日本に与えた。日本は初めて、広島と長崎に原爆が投下された人々に何が起こったのかを示す視覚的な証拠を目撃して、衝撃を受けた。アメリカで初めて出版されたこの写真集は、自らが原爆に巻き込まれるという非論理的な恐怖の中で、あるいは原爆に巻き込まれた被爆者の世話をする恐ろしい仕事の中で生きている全ての人々にとって、今日のニュース写真のような即時性を持っている。
 世界中の人々と同様に、日本人も原子爆弾による破壊の物理的事実、死亡者数の統計、きのこ雲の下で起こった物語しか知らなかった。しかし、例外を除いて、5人の日本人写真家らが、原爆投下後の恐怖の数時間に撮影した写真は、約7年間の占領期間中、厳格なアメリカ軍の検閲によって極秘にされた。その間に多くの写真ネガが破損・紛失し、戦時中の粗悪な薬品で処理されたネガは使用不可なほど劣化した。しかし、1952年の初め、アメリカ軍の日本占領が正式に終了する前に、日本の新進気鋭に富んだ出版社が、まだ残存している写真の収集を始めた。1951年9月8日の講和条約が1952年4月28日発効されて、アメリカ軍の検閲が廃止された。出版社は急いで写真集3冊及び26ページの原爆記録写真が「アサヒグラフ」週刊誌に掲載された。一夜にして完売し、出版社から新版の注文が入った。
 対日講和条約が1952年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。日本では、悲惨なの原爆写真が新たな反米主義の波を引き起こすと懸念された。しかし、原爆写真の教訓は、広島と長崎を引き起こした戦争を始めた人々に対する嫌悪よりも、はるかに深い衝撃であった。長い間封印された原爆写真を見た人々は、平和主義、中立、いかなる代償を払っても平和を求める心から新たな叫びを引き起こした。ほとんど一声に近い形で、朝鮮戦争とロシアとの侵略の脅威により忘れられていた。長崎の原爆死没者慰霊碑では、10代の被爆者が「あの日、焼け焦げた死体の中を這いずり回りながら、喉の渇きから水を求めて叫んだように、私は今、『平和、平和』と叫びたいのです」と、世界共通の平和を訴えた。
 原爆被害の世界初公開と誇った「アサヒグラフ8月6日号」から、岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』『原爆第1号ヒロシマの記録写真』。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)。1952年はアメリカ軍の検閲の解放により原爆報道が明けた年となった。(国際平和拠点ひろしま)

  


2021年8月28日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した約2ケ月後の10月9日に、子供らの被爆者が広島日赤病院の外来治療室にて加療された。

 広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。

 1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。

 太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。

 広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。



2021年8月21日土曜日

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の多数の被爆者らが手当を受けた。

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の被爆者らが手当を受けた。爆心地から南西に約1.6Km離れた千田町1丁目の広島赤十字病院は1945年8月6日の原爆投下で大きな被害を受けた。広島赤十字病院は鉄筋コンクリートの一号館,二号館は大破して、木造の南病棟・隔離病棟・寄宿舎などはその後の火災によって焼失した。必死の救護活動が展開されるも、軍関係の入院患者のうち約5人が死亡,約105人が負傷,院長の竹内釼をはじめ職員・生徒のうち,約51人が死亡,約250人が負傷した。広島原子爆弾の救護所は,広島県が把握したものが約53か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動が判明した約102か所に及んで、約31万5,910人の被爆者が手当を受けた。

 原子爆弾の放射能が放射するガンマ線は、非常に透過性が高く、広島赤十字病院のコンクリート室の鉛容器内に保管されたX線の写真乾板も完全に透過する放射能の光線にさらされた。東京帝国大学を卒業した竹内釼は、1939年に広島赤十字病院の初代院長に赴任した。竹内釼は被爆して重症でも被爆者を加療した。

 広島原子爆弾によるX線フィルムの分析も、1946年8月号の原爆記念版の月間中国新聞のコラムに投稿していた。広島赤十字病院の廊下から庭の隅まで、無数の患者が病院の敷地を埋め尽くした。まるで満員電車のように、人々の列がぶら下がった。ガンマ線(放射線の一種)は透磁率が非常に高く、コンクリート室の鉛容器に収められたX線写真乾板も完全に光にさらされた。つまり、コンクリートの空気中でも放射線を遮断できず透過した。壁に十分な厚さがない限り、シェルターを襲撃した。原爆病の場合、主な死因となる特異な症状は、造血器官の障害、血液の変化、粘膜上皮の変化による吐血、血便、内外の出血である。日本国民の中には、敗北の現実に直面することに耐えられない人がたくさんいると確信している。しかし、連合国による日本の占領は事実であり、夢ではない。人々はこの現実に目を覚まし、できるだけ早くそのような洞察を得る必要がある。広島でも、適切な手段で原爆遺跡の一部を後世に引き継ぐことができれば、確かにさまざまな平和に有益である。最後に、「夏の草 廃墟の中に入る 立ち去るのが難しい」と竹内釼は俳句を残した。

 被爆者は、自分の子供が 『第二世代被爆者』として不当な差別の対象となることを恐れて、黙って子供たちを守ろうとして、被爆証言の公表を躊躇した。2021年4月17日から全国の劇場で上映された(https://www.hiroshimaenochikai.com/)のドキュメンタリー映画「ヒロシマへの誓い-サーロー節子とともにー」に、竹内の孫娘の竹内道が製作者として参画した。






2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容されて仰向けの被爆者の診察検査をした。

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を調査するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

 広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。






 


2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月24日土曜日

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で顔面の広範囲の火傷と傷痕から発生したケロイドの加療を受けた。

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で加療を受けた。彼女は原子爆弾による熱線により、顔面を広範囲に火傷した。原子爆弾による火傷の痕から顔面に多大のケロイドが発生した。顔面のケロイドは、まばたき、話し方、嚥下などを困難にした。火傷の傷跡は、被爆者の皮膚が、原子爆弾の炸裂の最初の閃光の熱線に直接にさらされた部位に形成された。

 ケロイドは、火傷の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、ギリシャ語でケロイドはカニを意味して、不規則なケロイドの隆起を生じた。被爆後に約4ケ月頃までに発症して、約6ケ月から約1年2ケ月後にケロイドが最も顕著に隆起した。約2年後には部分的に改善され、隆起も縮小していた。原子爆弾の爆心地から約2km前後で熱線にさらされた被爆者には約50から60%に発症した。原子爆弾の熱線で大火傷を受傷して、特に女性の顔面にケロイドが残存すると心的外傷後ストレイ障害(PTSD)などの社会的後遺症に苦悩した。

 深い第2度または第3度の重症と思われる閃光熱傷の治癒後に、重度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕の形成が比較的高い頻度で発生した。ケロイドの病因は、皮膚病変の治癒にて発症する生物学的および生化学的過程における修復過程に起因する。被爆者によっては、火傷の治癒時に過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向がある。瘢痕ケロイドは、治癒過程で生成される線維性結合組織に影響される。瘢痕ケロイドや肥厚性瘢痕の原因となる過剰なコラーゲン産生は、病変が真皮の網状層の深部にまで及んでいた。深部まで及んだ火傷や、感染や追加の外傷による壊死によりケロイドが合併した。




2021年7月17日土曜日

広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。

 原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。
(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。
 その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。
 それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。
(2)長期疾病の原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。
  原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。