2023年9月30日土曜日

32歳の農業に従事していた女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。8月9日に被爆して3日後の9月11日に四病舎に、全身が衰弱して入院した。

大村海軍病院に収容せる原子爆弾の被爆した患者の惨状として、32歳の農業に従事した女性は、全身を爆傷して、大村海軍病院に救護された。被爆して3日後の9月11日に四病舎に収容され入院した。右臀部肛門を距る約2cmの部位に、長さ約4cm、幅約2cmの創面があり、全身が衰弱した。25%のブドウ糖約400ccに、ビタミンBCを加えて注射することにした。9月21日に、赤血球沈降速度が一時間約100mmに昇っていた。それ以外は示してなく、記録された記事がなかった。

 長崎原子爆弾の投下されて炸裂した直後に、長崎市の医療機関の活動は、長崎市医師会などの救援隊は爆心地周辺から医療救護活動を開始した。長崎市旧市街地の主な救護所は新光善小学校救護所と勝山小学校救護所であった。対岸地区の救護所は、稲佐小学校、三菱病院(本院)、御真寺であった。長崎北部では、平宗(現在の滑石一丁目)の民家が救護所に利用された。周辺では、ベテラン軍医の家族の救護が目立った。

 長崎原子爆弾の炸裂からわずか1〜2時間後には、長崎医科大学の職員が長崎医科大学病院の裏山で、被爆した負傷者の手当てを始めた。浦上第一病院(神学校跡地)の職員は焼け残った一室で、三菱病院浦上分院の職員は銭座町の防空壕で救護した。4〜5時間後には、諫早海軍病院救護班が第一陣として伊良林小学校で被爆した負傷者の手当てを始めた。大村海軍病院の救護班、国立小浜診療所の救護班(小浜町救護班)も長崎市の爆心地に入り、救護活動を執行した。

 長崎市は被爆直後から爆心地とその周辺で献身的な救援活動が行われた。しかし、その活動範囲は一部に限定された。空襲警報が頻発し、アメリカ軍の戦闘機が飛来するという最悪の状況下で、救援部隊の到着が遅れた。本格的な医療救援活動の開始も、長崎原子爆弾の投下翌日の8月10日にずれ込んだ。8月10日から、多くの海兵隊や陸軍の救援隊、各大学の救援隊を含む長崎県内外の救援隊が被災地に到着して、積極的な救援活動を行うことができた。日本海軍や日本陸軍の救援部隊の組織は、長崎県出身者が将校や衛生官として優先的に抜擢された。その指揮下で働く長崎出身者の兵士も入隊していたようである。壊滅的な被爆を受けた長崎市で活動するために動員された日本海軍と日本陸軍の救援部隊、大学の救援チーム、長崎県内外の救援チームが救護活動を展開した。




2023年9月23日土曜日

長崎原子爆弾で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。1945年9月29日に少女の頭部には包帯が巻かれて歩き回った。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に、アメリカ空軍により長崎市に落下して炸裂した爆発で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。9月29日に少女の頭には包帯が巻かれていた。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷して、頭部に包帯を巻いて歩き回った。日本人の少女は崩壊した長崎真意の廃墟で遊んでいた(米国国立公文書館、写真番号290036_ボックス570_RG111SC、https://www.nichimyus.jp/)。アメリカ陸軍の空軍部隊が、原子爆弾に被爆した長崎市を視察して撮影して記録した。





 








   

   原子爆弾の炸裂により、巨大な火球が現れ、火球は太陽の約100倍もの明るさで、中心部分は数百万度であった。強烈な熱線、猛烈な爆風、膨大な放射線を放出して、爆心地を中心として広範囲を一瞬のうちに火襲した。熱線は、爆心地では地表の表面温度が約3,000~4,000度に達した。強烈な熱線によって被爆者は重度の火傷を負って、多くの人が死傷した。その直後からに発生した火災も被害を大きくて壊滅した。

 長崎原子爆弾の被害状況(1945年12月末までの推定)※当時の長崎市内の推定人口約24万人(1945年5月31日時点の配給人口)であり、そのうちに死者は73,884人、負傷者は74,909人に達した。(原爆資料保存委員会報告(1945年7月発表)) 長崎原子爆弾により、頭部に火傷を被爆した少女は、廃墟になった長崎市内の瓦礫の地面中で探索して周囲を物色していた。




2023年9月16日土曜日

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した。爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した(菊池俊吉)。広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。1937年に増築されて、校舎は広島原子爆弾で完全に破壊された。新築の西校舎の鉄筋コンクリートの建物は外殻が崩れずに残存した。疎開していなかった袋町小学校に残存した児童の約160人のうち157人が原爆死して、教職員の16人も犠牲になり原爆死した。3人の児童は、西校舎内で被爆して、その後地下室に避難して生存した。

   広島原子爆弾が8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から、臨時救護所に転換された。約2ケ月を経過した1945年10月5日から救護組織がかわり、日本医療団病院として、 袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も計7ヵ所に整理された。このころには広島市内の居住者も減少して、外来被爆患者の数も峠をこした。救急臨時救護所は戦時災害保護法にもとづくもので その期限は2ヵ月であった。10月5日現在で、広島市内の臨時救護所は11ヵ所、入院被爆患者は約500名、外来被爆患者は1,200名であった。

 菊池俊吉は、被爆直後の広島の惨状を鮮明に写真の撮影をした。撮影のネガフィルムが、良好な状態で現存して、東京都練馬区に住む妻の徳子が保管していた。一人の撮影者による原爆記録写真では、最多の783点に上った。旧文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から10月20日までスチル写真を撮影に当した。広島赤十字病院や広島逓信病院で治療を受けるやけどや放射線障害の患者、救護病院となった大芝国民学校や袋町国民学校で死にゆく親子ら、被爆直後の生々しい光景を克明にとらえた。




2023年9月9日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mの横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋のバラックが現れ始めた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に炸裂して被爆してから2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mに位置した横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋であるバラックが現れ始め、横川駅前など人が集まりやすい場所には闇市が出現した。仮設小屋や闇市は治安や衛生の問題を伴っていたが、復興の始まりを象徴するものでもあった。横川駅周辺の光景の中に、広島市の被爆した街とそこに住む市民が復興しつつある兆しを撮影した。

 戦時災害保護法が打ち切られた後、被爆者への特別な援護はなく、生活保護法など一般的福祉制度しか頼るものはなかった。焼け残った資材を集めて造ったバラックに住み、物資不足に悩まされながら、その生活は困難を極めた。バラックは、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物を呼称した。困窮した被爆者が空き地などに建てた小屋程度の住居をバラックと呼んだ。 

 横川駅は、原子爆弾の熱線により駅構内の一画から火の手があがり、数時間後には駅舎も焼失した。待合室では約10人が生き埋めとなり4人だけが救出されたといわれた。8月6日当日には線路の枕木がくすぶる中、被災者を運ぶ列車が運転された。被爆して2日後の8月8日に、国鉄の山陽本線は、広島駅と横川駅間の運転を再開した。広島市民は原子爆弾の炸裂の直後に、爆心地から遠い方向に避難した。横川駅付近の市民は北へ、広島駅付近の市民は東や北へ、比治山周辺の市民は南や東に、家族や職場の事情などで、違う方向に向かった市民もいた。

 原爆投下後75年間は、広島市内には何も育たないと噂されていた。しかし、広島は死ななかった。交通、通信、電力のライフラインはすぐに回復した。人も物資も輸送された。情報とエネルギーの供給も確保された。被爆者の実態が十分に伝わらず、被爆者に対する差別や偏見が生まれた。被爆者は、厳しい生活環境に耐たえながら、懸命に生きていこうとしていた。




2023年9月2日土曜日

広島原子爆弾に被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mの広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長から、両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。

広島原子爆弾が投下して炸裂により被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mに位置した広島市千田町の広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長により、火傷した両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。男子中学生は、両目の火傷により、視覚障害により失明の恐れがあった。医薬品も乏しく、消毒液を塗る程度の処置に留まった。焼け残った広島赤十字病院には被爆直後から多くの被爆者が運び込まれた。

  広島赤十字病院は、当時は陸軍病院であったが、外来では一般市民の治療も行なっていた。医薬品の備蓄があるも、あまりの多くの被爆者が殺到してたちまちに使い果たした。中学生の少年は、広島赤十字病院本館の正面玄関前で外来治療を受た。少年の両手は重度の火傷により、皮膚が剥けて、水疱が生じていた。火傷の治療も、消毒薬やマーキュロ、オリーブ油などを塗り、包帯で拭く塗り巻く手当に留まった。少年は顔面の正面から広島原子爆弾の熱線を浴びていた。額から頬、手の甲に火傷を追った少年が、広島赤十字病院で外来処置を受けた。近くで近親の男性にに右腕を支えてもらった。

 少年は、爆心地から約1,790mに位置した県立広島第二中学校の生徒であった。2年生ならば、8月6日に爆心地から約2.5kmの東練兵場に集合して、学校の芋畑の草取りをせよと指示があり、東練兵場に集合した全員は生存して、直後の原爆死没者は無かった。

 広島県立広島第二中学校の6学級からなる1年生は8月6日朝、爆心地から約500mの旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員された。整列し、引率教師の訓示が終わる直前に、広島原子爆弾が投下されて炸裂した。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。水際に至る迄重なるように重傷の子供充ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあった。7日朝に父親は、屍は既に膨張し、同じ様な容貌となった。全身の火傷で自宅にたどり着き、救護所に搬送された少年たちは、瀕死状態から全員が原爆死没者に陥った。中島の動員現場にいた生徒約344人、教職員8人が、本川左岸にある広島県立広島第ニ中学校の原爆死没者の慰霊碑に刻まれた。