広島原子爆弾の炸裂後の実態を、広島商工会議所から展望した(写真上は北方面)、写真下は北東方面)。北方面では、手前が崩壊した旧護国神社、奥には輜重補充隊と歩兵補充隊が残骸となった。北東方面では陸軍第一病院が壊滅して救護不可となった。爆心地は、広島商工会議所の北方の旧護国神社の前の電車通りの南方約125mの島病院の上空であった。
広島商工会議所の屋上から、広島市内の南西部を見た(上南、下西部)。相良橋から北東端の太田川本流端に広島商工会議所があった。通称が本川は、太田川が形成する広島デルタの6河川のうちの1つで中央部を流れる太田川の支流である。本川橋の落ち川向こうの土橋付近から観音寺の一帯はほとんどが焼け野原となり消失した。
長崎原子爆弾が長崎市内で1945年8月9日に炸裂した。長崎の市街地はほとんど全焼し壊滅した。米国の進駐した陸軍のカメラマンが、その荒野に呆然として一本杖で立ち止まる一人の老人を捉えた。
長崎原子爆弾の炸裂した翌日1945年8月10日午後2時に、浦上刑務所の丘より南南東方の爆心地である被災実態を展望した。爆心地の松山町70番地まで北西100mの地点で薄い白の地点であった。コンクリート様の路は、松山町の交差点から登る石段であった。爆心地の松山町70番地から上空500 ±10m で炸裂した。
広島原子爆弾は1945年8月6日午前8時15分に爆心地で炸裂して南方に約1kmの至近距離の水主町(現・加古町)は、一瞬のうちに倒壊と炎上して壊滅した。広島県庁(800余名)、広島市長公舎、広島県立病院などが壊滅したために広島市内の都市行政機能が麻痺した。石碑が散乱して原爆ドームが左上に展望された。広島県庁は同日17時に比治山の多聞院に避難した。
広島原子爆弾による被災状況を、爆心地より北西部からの航空写真(上: 北東面、下南西面)で撮影した。コンクリートのビル以外は焼滅して全滅した(原爆ドームは写真上の中央上に残存した)。わずかに残存している白い路は旧町並みを通過していた。
広島原子爆弾が直下に炸裂した爆心地の付近の惨状である。爆心直下の広島郵便局の本局は、一部のレンガ造りの一部のみが残存した(写真上)。広島産業奨励会館が崩壊するも原爆ドームとして残存した(写真下)。その付近の西蓮寺には一部の墓石も残存した。
長崎原子爆弾の爆心地から南東約700mの長崎医科大学附属病院から爆心地付近の全壊と全滅した被爆地を展望した。手前は山里町(現・平野町)の高台であり、左遠方は城山国民学校が展望された。アメリカ軍略爆撃調査団は1945年10月にカラー写真で撮影した。
長崎原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月10日の爆心地付近の被爆実態であった。爆心地の一帯である松山町の一帯から展望すると(写真上)南西に長崎電鉄の焼け跡ならびに南方には長崎製鉄所の煙突があった。学生救護勇隊らが担架で被爆者等を運搬していた。爆心地から南500mから南方を展望すると(写真下)三菱球場のスタンドは鉄骨が曲がり倒壊した。
核兵器禁止条約は、核兵器の開発や保有、使用などを禁止する初めての国際条約である。国連本部交渉会議は2017年7月7日に採決した。NATOでオランダが反対し、122の国の圧倒的多数の賛成で条約は採択された。条約は9月から署名され50か国の批准から90日後に発効する。一方で、アメリカやロシアなどの核兵器の保有国や、核の傘の日本などは条約に参加しない。
広島原子爆弾により広島市内は一瞬で焼け野原となり、ほとんどが倒壊して全焼した。広島市内の爆心地から約1.5Kmの山口町(現・銀山町)のビル屋上から南方を展望した写真(上は南西、下は南東)であった。目をさえぎるものもなく、広島湾から南方約5kmの多数の被爆者の救護所であった似島が遠望できた。
広島原子爆弾の爆心地付近の上空から被爆地の一帯を米軍はカラー撮影をした。爆心地と予定された相良橋から南側(写真上)と北側(写真下、1973年6月復興付)の広島市内の被爆実態であった。相良橋から東南端の元安川沿いに原爆ドーム、相良橋から北東端の太田川本流端に広島商工会議所、相良橋から太田川支流側の南西端の本川国民学校の建築物は残存した。
長崎原子爆弾の爆心地付近を米軍が被爆後51日目の1945年9月29日に調査した。長崎原爆が8月9日に炸裂して多くの被爆者は水を求めて浦上川の河川敷に飛び込んだ。米軍はその息絶えた遺体の多くの白骨を棒で探索した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、翌日8月10日午前11時頃に長崎市内の爆心地付近から南西110mの浜口町から南方に完全に消滅した岩川町を展望した。上空はうす暗く煙が立ち上り、黒焦げの焼死体が散乱していた。被災者を乗せた担架を長崎駅に向かった。
長崎原子爆弾が1945年8月9日に爆心地に炸裂して周囲の近隣は完全に全滅して廃墟となる。10月頃において長崎市内では炸裂した爆心地の周囲は焦土化したままであった。手前の下の川から長崎市内の東方面にて北部(上)と南部(下)である。
広島原爆が炸裂した1945年8月6日の午後から被災を免れた宇品の陸軍船舶司令部の若年兵士の暁部隊が真っ先に広島市内の救護隊活動を始動した。8月8日に中央左よりの黒ずんだ2階建のNHKの建物に、暁部隊の約100名が集合した。NHK放送の復旧を最優先され、酷暑のビル内と被爆物の障害を克服して懸命な復旧をした。しかし、多くの若年兵である暁部隊は、放射能被爆の影響で厳しい原爆症の犠牲者となった。