2019年7月6日土曜日

袋町国民学校に救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、肉親を探し求めた多くの伝言が残っていた。(広島)

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。 
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。炸裂後にほとんど教職員と疎開しなかった2年生以下の生徒らの約160人は広島原爆で即死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。



2019年6月29日土曜日

長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、少女はほとんど毛髪が抜けた。(長崎)

長崎原子爆弾にによる被爆によって、少女は長崎市興禅寺町の新興善国民学校の救護病院に救護された。長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、収容された少女には1945年8月下旬には、ほとんど毛髪が抜けた。放射能の影響は、初期の放射能被爆だけでなく、燃え残りの死の灰や混ざった雨となった黒い雨などの残留放射能でも被爆して、急性放射能症状を伴った。放射能は、物体を通過して、人体を透過して、細胞や遺伝子に障害を伴った。
 脱毛は、早期には原爆の被爆後んら1週間後から始まり、第3週頃に発症した。そのほかに、皮下出血もしばしば合併して、生存者の多くでは、12~14週で元に戻った。特に脱毛部は、毛髪の毛母基が重度に障害された。脱毛の重症度は、爆心地からの被爆距離にも強い相関があった。至近距離ほど高頻度に被爆直後から2週間の急性期から発症した。被爆して3から4月以上に生存した頃から、脱毛部からの発毛が出現した。



2019年6月16日日曜日

アメリカ軍の水爆実験に被爆した乗組員の頭部には、急性放射能症で、黒ずみ、眼球の疼痛とかゆみを伴って、耳孔が腫れた。

アメリカ軍の1954年3月1日の水爆実験により被爆した乗組員の頭部には、急性放射能症により、黒ずみ、眼球の疼痛とかゆみを伴って、耳孔が腫れた。全身が水膨れ、ただれて、皮下出血した。頭部は脱毛して、吐き気、めまい、疼痛を伴って、脱力で虚弱になり、歯茎や鼻から出血、吐血と下血した。帰港した3月14日から協立焼津病院で診察後に、重篤な2人とその後に5人は東京大学病院に搬送された。全員が、骨髄の造血障害により、顕著な血液中の血球成分が極度に減少した。
 太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から約160km東に停泊していた第五福竜丸(乗組員23人、140トン)は、1954年3月1日午前6時4分にアメリカ軍のブラボー水爆実験により被爆した。突如に、強烈な閃光が射し込み、紅赤から白黄から黒色に変色しながら巨大な火の玉のキノコ雲が急上昇した。約8分が経過して、猛烈な爆音が響き渡り、船体が動転した。約2時間して、五里霧中となり、細雨と白灰が激しく降り注いだ。降り注ぐ白灰が、顔や頭部から全身にかけて、白灰が堆積して覆われた。乗組員たちは、周囲に堆積していた白灰を振り払った。白灰の成分は、サンゴ礁のカルシウムの粉末に、ウラン237とプルトニウム239などの放射性物質が付着した。
 1954年3月14日午前5時30分頃に日本の焼津港に帰港した。3月16日付の朝刊により「邦人魚夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」が公表された。全世界に向けて、水爆実験により、人類と地球の破滅の危機感が拡散した。水爆に被爆した第五福竜丸と乗務員は、人類が水爆に汚染された象徴となった。1954年9月23日に、第五福竜丸の無線長の久保山愛吉(40歳、男性)が、人類初の水爆の被爆による肝臓障害で死亡した。アメリカ軍は、死亡の原因は輸血であり、水爆実験を依然として否定している。第五福竜丸は、地球水爆遺産として夢の島に保管された。



2019年6月9日日曜日

袋町国民学校にはわらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、被爆者は応急手当を受けた。(広島)。

広島原子爆弾よる被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で応急手当を受けた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡した。生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。
 袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。




2019年6月1日土曜日

広島原子爆弾による死没者の名前が過去帳に毎年記入され、1952年に肉親に見守られて慰霊碑の石棺内に過去帳は奉納された。(広島)

広島原子爆弾の1945年8月6日午前8時15分の投下から炸裂によって、死亡した被爆者のお名前が、毎年に過去帳に記入された。1952年に建立(設計:丹下健三)された慰霊碑の石棺内に過去帳は奉納された。過去帳の奉納時に肉親らが見守り悲嘆した。まず57,902人が死亡した原爆死没者の名前が記載された。それ以後から、毎年に新たに死亡と判明した原爆死没者のお名前が8月6日が過去帳に追加記入されて、広島平和公園内の慰霊碑に奉納された。1952年8月6日から広島平和記念公園内に建立された慰霊碑前で式典が挙行された。開催された式典は、8月6日の午前8時から開催されて、午前8時15分に広島原子爆弾の遺族関係者から一般市民や海外からの参加者が黙祷を捧げた。毎年に広島平和祈記念式典が挙行されて、1952年の第6回平和記念式典の時は、その参加者は約1,000人で少数の参加に留まった。
 広島に投下された原子爆弾により死没者やその後に死没者の氏名・死没年月日・死没時年齢を、1952年から過去帳である原爆死没者名簿に登載し、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納する。2018年8月6日に奉納時は、総合の名簿登録は314,118で、名簿は115冊に達した。正面の碑文には「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから(雑賀忠義)」と刻印された。広島原子爆弾の平和記念碑(原爆ドーム)は、1996年にユネスコの世界遺産に登録された。



2019年5月18日土曜日

長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが挙行された。(長崎)

長崎市内に1945年8月9日に原子爆弾が投下して炸裂した。第2次世界大戦後では初めて、長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが1945年3月に挙行された。西坂町は長崎原子爆弾の爆心地から約2.1kmで、一面が壊滅して廃墟となった。被爆後に、西坂町の高台は、被爆者の遺骨の集積と埋葬の丘となった。
 キリスト教を京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が、1597年2月5日に豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、十字架の磔で処刑された丘であった。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似て、キリスト教信者達がこの地を処刑の場に願い出た。26聖人の殉教以降も多くの人々が、火あぶり、水責め、穴吊りなどでこの地で虐待と虐殺の処刑がされた。第2次世界大戦後に、原子爆弾の被爆から復興して、殉教地であった小高い丘を公園にかえて、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定した。26人の殉教者は、1862年に列聖となり、100年目の1962年に26聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑と記念館が西坂公園に建立された。1950年には、ローマ教皇・ピオ12世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めた。



2019年5月11日土曜日

23歳の日本軍衛生兵が、後方からの原爆の熱線により頭部に熱傷を被爆して、右の耳たぶは酷い火傷から耳翼は欠損した。(広島)

広島市に1945年8月6日午前8時15分に投下された広島原子爆弾の炸裂により、23歳の日本軍衛生兵が教育隊前の朝礼の集合中に、後方より被爆して赤十字病院に入院した。熱線により頭部に熱傷を被爆して、右の耳たぶは酷い火傷を合併して耳翼は欠損した。右耳は不聴で、左耳は難聴となった。広島原爆による重度の放射線障害を伴って、1945年10月上旬には、頭皮はほとんど脱毛して、下痢、発熱、斑点を伴った。熱傷と放射能障害を合併したが、奇跡的に生還した。
 原爆症とは、1つの病名ではなく、原子爆弾の被爆者に頻発する病態を総称している。疫学的に統計学的な有意差がある原爆症の発生の度合いが、顕著に高い。原子爆弾の炸裂による熱射や輻射熱による障害、破壊された家屋等の下敷きなどによる火傷や外傷が、治癒しないで残る場合がある。被爆した時には認められなかった原爆症が、原子爆弾の放射能を多量に浴びて、経時的に発病する場合がある。火傷では、瘢痕やケロイド、拘縮などを引き起こす。放射能による障害は、白血病 甲状腺がんなどが合併する。
 原子爆弾の被爆者に認められる白血病は 爆心地から約1,000m以内の至近距離の被爆では、発生頻度も死亡率も、一般市民と比較して、十数倍も高い。原子爆弾の放射能が血液を製造する骨髄に蓄積して、骨髄機能を侵害する。慢性の骨髄性の白血病が著しく頻発する。その他に動物実験、放射能の治療により、発生頻度が高くなるなど、証明された原爆症の根拠から、原爆症の代表的疾患として、白血病、原爆白内障、高度小頭症、肺・甲状腺・皮膚・卵巣がん、ケロイドなどが認知されている。






2019年4月30日火曜日

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけた原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けて原爆症で絶命した。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけて、終末期になるまで原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けた。1974年4月2日に52歳で、ついに絶命した。
 福田須磨子は、1922年3月23日に長崎市浜口町43番地に生誕した。1945年8月9日に、長崎男子師範学校会計課に勤務中に、長崎原爆に被爆した。1955年に、原爆被爆の後遺症状による紅斑症(SLE)を発病して、病院に入院と退院をくり返した。原子爆弾の非人道性、被爆の怨念と平和の探求、反原爆の闘いに生涯をこめた「われなお生きてあり」を刊行した。
 1955年8月8日に、長崎市の平和公園に平和祈念像が完成した。その3日後の11日に、「ひとりごと」と題された投稿が朝日新聞夕刊ひととき欄に掲載された。反響は大きく盛り上がり、詩人として反戦運動に活動と参加する起点となった。1959年に『長崎の証言』創刊号にエッセイを執筆した。1969年に第8回田村俊子賞を受賞して、怨の女、愛の女となり、福田須磨子は火玉或いは阿修羅となり、原爆の危機と核兵器に対する文筆で抵抗をして訴え続けた。

福田須磨子詩集 『原子野』(現代社)より
「生命を愛しむ」
新しき年の始めに
しみじみとわが生命愛しむ
原爆の傷痕胸にみちしまま
絶望と貧苦の中で
たえだえに十年
げにも生きて来しかな
悲しみと苦痛の十字架をおい
ほそぼそと生命かたむけ
生きて来しこの現実を
奇蹟の思いでかえりみる
“吾尚生きてあり”
ここに座し 一切を観ず
ふきちぎれた魂は
未完の生を夢み
一片のわが生命を愛しむ


福田須磨子の詩碑
「1945年8月9日
 午前11時2分、第二次世界大戦末期、世界第2の原子爆弾が広島についでこの地、長崎の上空に炸裂した。
 一瞬に死傷者は十数万人に達し生存者はその後30年にわたって原爆後遺症と生活苦に呻吟しつづけた。福田須磨子もその一人である。
 しかし彼女は黙することなく生涯かけて原爆の非人道性を訴えつづけた。この碑は福田須磨子の不屈の生涯をしのびあわせて世界の恒久平和を祈念するために全国の有志920名の御芳志をもって建立するものである。
1975年8月2日詩碑建立委員会(長崎市の爆心地公園に詩碑)」



2019年4月20日土曜日

長崎原子爆弾により多数の腐敗していた被爆死体を野火で火葬した遺骨が地面に散乱していた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂した。長崎市内は、強烈で甚大な防風、熱射、放射線により、壊滅した。爆心地の周辺では、身元も特定できない膨大な被爆死した死体が散乱していた。長崎市内は壊滅して火葬場も破壊されて火葬できなかった。致し方なく焼け跡から、燃え残りの木材を集めて至るところで火葬した。放置されたままの死体を約3週間すぎた8月26日頃になってから、多数の腐敗していた被爆死を野火で火葬した。火葬したままで遺骨は後片付けも十分にできずに地面に散乱していた。



2019年4月10日水曜日

世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁で強行された。

 世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁の無人環礁で強行された。中部太平洋のマーシャル諸島にあるエニウェトク環礁では、アメリカにより約44回もの核実験が実施された。水素爆発の爆発規模のTNT火薬の総量では約3万3千キロトン、広島原子爆弾の約16キロトンの約2,000発分を上回った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日の水素爆弾から被曝したビキニ環礁の約23回より多かった。エニウェトク環礁は無人環礁となり、地球原爆化から地球水爆化による地球撲滅にむけた実験地点となった。


 
 太平洋戦争にて、アメリカ軍の膨大で圧倒的な武力で、エニウェトク環礁の日本軍兵士は刀折れ矢もつきて、全員が死亡する玉砕をした。バンザイ突撃して戦死するだけでなく、日本刀で切腹、狙撃銃をのどに当て、足趾で引き金を引いて自決した。
 1944年2月20日にエニウェトク環礁にアメリカ軍歩兵が上陸を開始した。上陸から3時間後に日本軍からの反撃で一時的に進撃が頓挫した。後援の海兵連隊が派遣されて、再び侵攻を盛り返した。2月21日から23日午後まで、散発的な抵抗を受け続けた。日本軍兵士による2月21日早朝と午後に突撃するバンザイ突撃が、エニウェトク環礁の最後の軍事的抵抗となった。日本軍約3,560人の犠牲者は、捕虜以外は全員が死亡した。アメリカ軍約10,376人の犠牲者は、戦死と行方不明は約195名、戦傷者は約521名に達した。エニウェトク環礁は核実験となる完全な無人環礁となった。


2019年4月6日土曜日

原子爆弾の熱線による重度の背中の火傷に伴う疼痛により、救護所で背中を下にできず苦悶してうつ伏せに寝込むんだ。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力が複合して押し寄せた。男性は、熱線を悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷は、ひどいびらんにより、一面に表皮が破れ落ちた。その火傷とそれに伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れて、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線熱傷は、広島で爆心地から約3.5kmまで、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3kmまで、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体かに致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後からわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服が十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離により火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷の表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放して露出した。



2019年3月31日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に悲しみ、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。



2019年3月23日土曜日

似島検疫所に救護された被爆者は、広範囲に火傷面が化膿して膿瘍を形成した。(広島)

広島原子爆弾より、広範囲に重度の火傷を顔面から両方の上肢に被爆して、似島検疫所に救護された。その後に放射能被爆による免疫機能の低下も伴って、広範囲にわたり火傷面が化膿して膿瘍を形成した。
 原子爆弾の火傷は、光線や熱線による高熱により、屋外にて爆撃に暴露した。特に裸体になるほど高度の火傷を受けて。火傷の特徴は爆心方向面のみ被爆した。原子爆弾の炸裂によりできる火の玉の温度は、中心部では100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mにもなった。放出された非常に強い熱線によって、爆心地では地表の温度が3,000~4,000℃にも達した(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃)。


2019年2月17日日曜日

真夏の炎天下で、救援トラックに長崎原子爆弾で瀕死の被爆者が避難して集合していた。(長崎)

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。翌日の午前中には、爆心地から南方の約1.1kmの三菱製鋼所第一工場鍛錬工場の付近に、救援トラックは立ち往生した。救援の炎天下で、救援トラックに瀕死の被爆者が避難して集合していた。1人はトラックの荷台に横たり寝たきりで重篤になっていた。トラックの下にも数名の重症の被爆者が横たわっていた。運転台にも、座ったままで前方にうつ伏せていた。救援トラックは、行く手を阻まれて立ち往生して、被爆者は新たな救援を待ち続けた。灼熱の炎天下で被爆者は、倒れて寝たきり、放心状態で座り込んだ。


2019年2月8日金曜日

被爆した少女は16歳になって、広島原爆病院で、顔面から頸部のケロイドの形成術を9回以上もの植皮手術を受けた。(広島)

広島原子爆弾により、4歳の少女が爆心地から約2kmの福島町の自宅の外で被爆した。被爆して気がついた時は、家の下敷きになっていた少女は、ご近所に助けられた。家内にいた家族は無傷であった。
 16歳の思春期になって、広島原爆病院に1957年5月12日に入院して10月21日までに顔面から頸部にかけたケロイドの形成術に9回もの植皮手術を受けた。手術して麻酔から覚める夜中になると、痛がって悲鳴を上げて暴れた。手術から帰ると、絶対安静させるために、帯紐で彼女はベッドに縛られた。8回目の手術の時に、彼女は「今夜はあばれないから、しばらないでね」と懇願した。我慢できずにあばれ始めて、植皮した左頬に出血したあざとなった。植皮のために、両大腿から皮膚を剥ぎ取り、傷だらけとなった。再々の手術を受けて12月14日に退院した。被爆しなかったら美しい少女が、原子爆弾により見るも無残な姿になり、被爆を人知れずに一生悩み恨み続けることになりましょう。