2017年12月31日日曜日

爆心地の近隣の防空壕のなかでは、被爆者が爆風と熱射にて蒸し焼きになった死体が地中で腐敗して白骨化した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂から、5年後の1950年にも、爆死地から北西約元広島球場があった広島市基町付近の地下2mくらいから白骨死体が発掘された。おそらく爆心地から数百メートルの防空壕のなかでは、被爆者が爆風と熱射にて蒸し焼きになった死体が地中で腐敗して白骨化したと想定された。広島市内の各地の土中にも、多数の被爆者の遺体の白骨が発掘されていた。



2017年12月29日金曜日

大村海軍病院の三病舎の中室には悲惨な被爆者が収容されるも、3つの病院で生命を奪われた。(長崎)

長崎原子爆弾の被爆者が、次から次へと大村海軍病院に護送された。鉄道沿線上に仮収容中の重症の被爆者も護送された。原子爆弾による死傷者の発生する3つの病因がっあった。第1は直後の爆風による倒壊や破片創による死傷者があった。第2は瞬間の高度閃光による直接の火災や熱傷による死傷者があった。第3にはガンマー等の放射能による不詳な原爆症の発症による死傷者があった。大村海軍病院の三病舎の中室には悲惨な重度の被爆者が収容されるも、3つ病因で生命を奪われた。


2017年12月28日木曜日

広島原子爆弾の炸裂して3日後の8月9日から被爆者の捜索や救護の大勢の救援者らが駆けつけた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、3日後の8月9日から被爆者の捜索や救護のために、大勢の救援者らが周辺地域や関西地区などからも駆けつけた。がれきの除去や被爆者の救護から護送、死体の収容から火葬なども担当した。爆心地から260mと近隣の集合地でり、残存したビルである芸備(現広島)銀行本店とその隣の住友(現三井住友)銀行広島支店には救援者らが集合していた。


2017年12月23日土曜日

婦人は全身の重度熱傷だけでなく、放射能による原爆症が急変して瀕死状態となった。(長崎)

長崎原子爆弾による被爆者は、長崎市内の新興善国民学校特設救護所に護送された。爆心地から南約3kmの国民学校で、窓は吹っ飛び、焼け残った散乱した教室を活用した。婦人は全身に被爆した重度の熱傷で救護されていた。8月下旬にて熱傷だけでなく、放射能による原爆症により急変する症状に苦悩しながら瀕死状態となった。


2017年12月20日水曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.3kmで被爆した少年が、赤痢と類似の細菌による感染症の診断で、隔離されてその後に病死した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂した直後には、各救護所において熱傷から外傷の手当が優先された。その後には放射能による原爆症により多量の被爆市民の生命が失われた。熱傷や外傷等もない無傷者には、全く未知で異様な原爆症が主体となった。爆心地から約1.3kmで被爆した少年が、脱力感や食欲不振から悪心嘔吐の主症状から、大芝救護病院の外来で、赤痢と類似の細菌による感染症と診断して、隔離した後に病死した。


2017年12月14日木曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1.6kmで46歳の女性が重度の熱傷を顔面から上半身などに被爆して約2ヶ月後に原爆症で死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が炸裂した爆心地から約1.6kmで46歳の女性が重度の熱傷に被爆した。その直後の1945年8月9日に大村海軍病院に護送された。特に顔面の全体から頚部には卵大の組織の破壊から壊死が重度であり、黒色となり悪臭のある分泌液を伴った。さらに左前胸部から左側上肢の前面も熱傷を伴った。両方の前腕部と左膝にはガーゼ様の布で包帯された。しかし、白血球数が約1,600個/m3以下となり、全身状態はとても不良となり、被爆して約2ヶ月後の1945年10月15日には原爆症で死亡した。



2017年12月12日火曜日

広島原子爆弾に被爆した妊婦が、その直後に胎内で被爆した男子の赤子を出産した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、広島市内において膨大な犠牲者と被爆者が出た。広島市内において妊婦が、胎内で被爆した男子の赤子を出産した。被爆者から生まれた赤ん坊は痩せこけながら苦しみ泣き上げた。


2017年12月11日月曜日

ノーベル平和賞授賞式で2017年12月10日核兵器の廃絶運動を展開してきた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞した。

ノーベル平和賞授賞式が2017年12月10日、ノルウェーの首都オスロで開かれた。核兵器の廃絶運動を展開してきた非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN: Internationa Campaign of Abolish Nuclear Weapons)」が受賞し、メダルと賞状が送られた。広島原子爆弾の爆心地から北東約1.8kmの陸軍第2軍総軍司令部で被爆した日系カナダ人のサーロー節子さんも登壇した。ICANのベアトリス・フィン事務局長は改めて核兵器の脅威と廃絶を強調した。ICANは世界各地の反核団体や広島や長崎の被爆者と連携して、核兵器の非人道性を訴えてきた。2017年2017年7月に国連が採択した核兵器禁止条約の成立に向け、主導的な役割を果などが評価された。

ICANは約100か国のNGO連合による核兵器廃絶に向けた活動もあり、核兵器禁止条約が国連で2017年7月7日に122か国の賛成で採択された。一方でアメリカやロシア、イギリス、フランスなどの核兵器の保有国や核の傘の日本などは条約に参加していない。


2017年12月10日日曜日

新興善国民学校は市内最大の救護病院となり、住民らは膨大な長崎原子爆弾の被爆者を護送して収容した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から南約3kmにある長崎市興善町に特設された新興善国民学校は市内最大の救護病院となった。長崎市の住民らは市内から膨大な被爆者を護送して収容した。2本の竹で担架を作り、頸部からの紐で支えて市内に向けて救護した。校門には、赤十字の旗を掲げた。10月6日には長崎大学附属病院に転換された。



2017年12月9日土曜日

当初は救護隊員を収容した草津国民学校は県立病院に転換して、軍により治療され床のマットに寝た。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から西約4.5kmの草津国民学校(現在の本川小学校)の校舎は全壊と全焼を免れた。県立病院は爆心地から南方約1kmの広島市水主町(現在の加古町)に所在し、県庁と本川に挟まれた場所で全焼と全壊して壊滅した。9月から草津国民学校が臨時県立病院となった。当初は、救護隊の暁部隊員を収容した。軍の医薬品により治療して床のマットに寝かされた。


2017年12月7日木曜日

長崎原子爆弾爆で崩壊した長崎医科大学附属病院は直後から新興前国民学校に移転して仮収容所として早急に診療した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂して、爆心地から約600mの近隣であった長崎医科大学附属病院は崩壊した。その直後から新興前国民学校に移転して仮収容所として早急に診療して、9月初旬の収容された被爆者たちがいた。10月6日には興善特設救護病院を長崎大学附属病院に転換して被爆者を診療した。長崎大学本部は、長崎商工会議、長崎経済専門学校から、11月上旬には新興善国民学校に移転した。現在は長崎市立図書館に学校は転換している。


2017年12月4日月曜日

広島原子爆弾の原爆症で被爆した陸軍船舶司令部の暁部隊の青年兵士は宇品の兵舎に収容された。(広島)

広島原子爆弾の炸裂した直後から宇品の陸軍船舶司令部の暁部隊の青年兵士が教護活動した。広島市宇品に駐屯していた暁部隊は、直後からの救護活動で放射能による原爆症となった。きのこ雲の影響より8月6日の午後に北西部に放射能を含んだ黒い雨のどしゃぶりとなり被爆者は真っ黒となった。原爆症で被爆した暁部隊の青年兵士は8月8日には宇品の兵舎に収容されていた。




2017年11月30日木曜日

長崎原子爆弾に被爆した大村海軍病院の19歳の少女は爆弾片創と熱傷から原爆症で10日目に被爆死した。(長崎)

長崎原子爆弾の被爆により19歳の少女は大村海軍病院に8月10日に護送された。右前頭額と頸部と右前腕と指の爆弾片創があり、その傷口の一部には柔らかい小枝が突き刺さっていた。背部と右膝、左足等には第2度の熱傷とびらんから中等度に出血した。口角の黒い斑点は、原爆症により口腔粘膜が壊死状態になった。在院して10日目の8月20日に原爆症が重度に陥り死亡した。


2017年11月29日水曜日

広島原子爆弾で、二人の被爆者は全身を重度の火傷に被爆して、似島臨時救護所に護送された。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から南約9kmの瀬戸内海の似島に、海外から帰還する陸軍の検疫所であった。被爆直後から似島臨時救護所が設置された。二人の被爆者は全身を重度の火傷に被爆して似島に護送された。その多くの被爆者は原爆症で死亡した。



2017年11月27日月曜日

長崎原子爆弾で、全身火傷の19歳の少女は大村海軍病院に護送され、19日間後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂して、翌日の8月10日に19歳の少女は大村海軍病院に護送された。熱線により、全身が火傷になり肝油を塗り包帯をした。そこから悪臭を放ち中等度の出血をした。頭髪も後ろ半分は焼け焦げていた。8月11日夕方から高体温と重症になり、8月25日には更なる発熱が継続して、8月29日に19日間の入所で死亡した。


2017年11月26日日曜日

大芝国民学校の教室の片隅にに母と娘が広島原子爆弾の原爆症により布団の下で寝込んでいた。(広島)

広島原子爆弾による被爆者が、爆心地から北2.4kmに大芝臨時救護所となった国民学校の教室の片隅に1945年10月11日に母(31歳)と娘(12歳)が布団の下で寝込んでいた。その両親が周囲で見守っていた。医薬品は絶対的な不足で治放射線による原爆症に対して無力であった。


2017年11月25日土曜日

長崎原子爆弾の炸裂後に、48歳の女性が重度の火傷を被爆して大村海軍病院に護送された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂後に、48歳の女性が農業をして重度の火傷を被爆した。長崎市から北東約20kmも離れた大村海軍病院の8病舎に護送された。彼女は胸部や腹部を除いて顔面だけでなく、火傷で全身が腫脹した。頭髪も焼けて果て、瀕死の状態となる。


2017年11月24日金曜日

草津国民学校の残存した校舎は臨時県立病院として広島原子爆弾の被爆者が移送された。(広島)

広島原子爆弾により西に約4.5kmの草津国民学校(現在の広島市立本川小学校)の校舎は全壊と全焼を免れて残存した。県立病院が全焼し焼失したため9月から草津国民学校が臨時県立病院となった。10月頃には西方の廿日市方面の被爆者も移送された。草津国民学校の校舎は約3,000人もの収容所にもなった。



2017年11月22日水曜日

長崎原子爆弾に被爆した重傷の少年は、前上方からの熱線の火傷と爆風の破片創から放射能を浴びていた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂した当日の夕方頃から、応急修理された列車で道ノ駅からまず約600名の被爆者が大村駅まで護送された。直ちに大村海軍病院にトラックで午後8時から午後12時頃まで運送された。燈管のランプ下で寝たきりの少年被爆者は、前上方からの熱線による火傷と爆風による破片創さらに放射能を浴びていた。


2017年11月20日月曜日

福屋百貨店には広島市の中地区と周辺における広島原子爆弾の被爆者が収容されていた。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から東約700mの福屋百貨店はビル内部は焼け落ち外形だけとなった。広島市の中地区と周辺における被爆者が8月8日頃には収容されていた。江田島の暁部隊の若年兵士の救護班が8月7日から福屋百貨店にて被災者の救護をした。


2017年11月19日日曜日

長崎原子爆弾の熱射線を受けた少年の下肢の皮膚は黒化し、受けない両膝は白色化し分離された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂後に、重度の火傷の被爆少年が長崎市から約20kmも離れた大村海軍病院に護送された。特に少年の両下肢にて、熱射線を受けた皮膚は黒化した。熱射を受けていない両膝は、白色化して明瞭に分離された。


2017年11月18日土曜日

暁部隊の臨時救護所であった草津病院は、広島原子爆弾後には最も病院に類似した医療がされた。(広島)

広島原子爆弾の炸裂した直後から江田島から派遣された陸軍船舶司令部の暁部隊は西に約4.5kmの広島市草津に駐屯していた。救護活動した暁部隊の青年兵士は放射能による原爆症になると草津病院に入院した。臨時救護所として最も病院に類似した医療組織と医療材料があり、その他の多数の重傷な被爆者は床のマット上で収容された。



2017年11月16日木曜日

長崎原子爆弾による重度のガラス破片創の被爆者が大村海軍病院に護送されるも放置された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂後に、重度のガラス破片創の被爆者が長崎市から約20kmも離れた大村海軍病院に護送された。ガラス破片が飛散して、背部の全体に突き刺さっていた。当時は、ほとんど麻酔も薬剤もなく、ガラス創部の摘出には対処できず、放置されていた。被爆者は、苦しみながら瀕死の状態であった。


2017年11月15日水曜日

広島原子爆弾による重傷の兵士は、腰巻きの皮膚は免れるも全身の熱傷を似島で救護された。(広島)

広島原子爆弾が炸裂した直後から、爆心地から南約4kmの瀬戸内海に似島に臨時の救護所が設置された。以前には海外から帰還する軍隊の検疫所に被爆者が殺到した。重傷の熱傷を帯びた兵士は、腰巻きの皮膚は免れた全身の熱傷を被爆して救護された。




2017年11月14日火曜日

長崎原子爆弾の炸裂により、婦人は背中から下腿の後面を重度に熱傷して瀕死状態で救護された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂により、婦人は背中から下腿の後面を重度に熱傷した。長崎医科大学と附属病院は、爆心地から南約3kmにある長崎市興善町に特設された新興善国民学校を市内最大の救護病院として救援した。そこに護送された婦人は8月下旬には仰臥位のまま瀕死状態となった。


2017年11月13日月曜日

広島原子爆弾の炸裂3日後には、第1陸軍病院宇品分院の講堂内にも被爆者が満杯に収容された。(広島)

広島原子爆弾の炸裂後から、第1陸軍病院宇品分院には次々と多数の被爆者が護送された。他の救護所からも多くの被爆者らが移送された。炸裂して3日後8月9日には宇品分院の講堂内にも被爆者が満杯に収容された。宇品分院は、当面は原子爆弾の専門病院として機能した。



2017年11月9日木曜日

長崎原子爆弾で48歳の女性は全身の熱傷から破片創、内蔵出血で吐血して間もなく原爆症死した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から北東約17kmも離れた大村海軍病院に膨大な被爆者が救護された。48歳の女性は全身の熱傷から破片創さらに原爆症による内蔵出血により吐血した。原爆が炸裂後に救護されるも翌日1945年8月10日に間もなく原爆症死した。



2017年11月7日火曜日

広島原子爆弾の炸裂直後から陸軍船舶司令部所属で江田島の暁部隊の若年兵士が派遣されて救護活動した。(広島)

広島原子爆弾が炸裂して、被爆者の救護や治療は、微力ながら被爆直後から始動した。軍関係者では、陸軍船舶司令部所属であり江田島で在駐し無被災のマルレ特攻船舶の暁部隊の若年兵士が炸裂直後から派遣された。その救護班がまず中心になって、翌日の8月7日には爆心地から約700mでビルの崩壊を免れた福屋百貨店にて被災者を救護していた。




2017年11月3日金曜日

竹を棒にした担架を数名で担いで、長崎原子爆弾の犠牲者を救護所まで運んだ。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から南約1kmの浦上駅付近では、炸裂した翌日の1945年8月30日の昼頃には、救護活動が開始されいた。竹を棒にした担架により、市民らも含めて数名で担いで、犠牲者を救護所まで運んだ。


2017年11月1日水曜日

広島原子爆誕の炸裂から生き残った被爆者を収容した救護所内で、家族が寄り添って被爆者を見守った。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から約2.6kmにある第一国民学校(現・広島市立段原中学校)が救護所となった。原爆の炸裂から生き残った被爆者は、治療を求めて救護所に詰めかけた。膨大な被爆者を収容した救護所内で、家族が寄り添って被爆者を見守った。充分な治療もなく1945年末までに約14万人が原爆で死亡した。


2017年10月31日火曜日

長崎原子爆弾により、少年は縁側で被爆して、死体となりうつぶせで倒れていた。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から道ノ尾への間の人家の縁側で、翌日の8月10日に少年が被爆死してうつぶせで倒れていた。そこの家具や建具は爆風で全部が片方に寄せられて、火事はなかったかが、家中は空き家のようになった。


2017年10月29日日曜日

重度の火傷の兵士は直ちに広島原子爆弾の爆心地から東約700mの臨時救護所となった福屋百貨店に搬入された。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆熱により重度の火傷を被爆した兵士は救護された。爆心地から東約700mの臨時救護所となった福屋百貨店に直ちに搬入された。






2017年10月26日木曜日

長崎原子爆弾による火傷だけでなく放射能障害により、原爆症が急変し重篤で瀕死の状態となった。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂による重度被爆者は、爆心地から南約3Kmにある長崎市興善町の新興善国民学校内の特別救護所に入所した。収容されるも、灯火もなく、消え入るような細い悲痛な泣き声が、夜毎に続いた。火傷だけでなく放射能障害により、急変して重篤で瀕死の状態となった。




2017年10月25日水曜日

挺身隊の女子学生は上半身にから正面にかけて広島原子爆弾からの熱線を浴びて瀕死の病状となった。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、挺身隊に出勤中に女子学生は上半身にから正面にかけて熱線を浴びて瀕死の病状となった。陸軍船舶司令部の写真部が救護所にて死に至る直前を撮影した。




2017年10月24日火曜日

長崎原子爆弾より被爆死した犠牲者が膨大なために、各地の野外で火葬された遺骨が散在した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂した威力によりと膨大な犠牲となった。被爆死した犠牲者があまりにも膨大なために、遺体はあちこちで野外で火葬された。遺族からの引き取り手もないままに、長崎市内の各地の空き地に遺骨は散在して8月下旬では放置されていた。


2017年10月23日月曜日

広島原子爆弾の炸裂により、女子中学生の挺身隊員が出勤して作業中に重度の火傷を被爆した。(広島)

広島原子爆弾の1945年8月6日の炸裂により、女子中学生の挺身隊員が出勤して作業中に重度の火傷を被爆した。救護所に収容されてから8月末に全身火傷にて瀕死状態で苦悶していた。陸軍船舶司令部の写真部が収容所内で撮影した。


2017年10月17日火曜日

長崎原子爆弾に被爆した乳児は、母の乳を吸う体力も失われていた。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地より北方約3.6kmの長崎本線の道ノ駅前に、多くの被爆者が集結した。そこで翌日の午後3時過ぎに被爆した母と乳児は治療のために放心状態で順番を待っていた。しかし、乳児には乳を吸う体力も失われていた。



2017年10月15日日曜日

広島原子爆弾により、宇品警察署警官が御幸橋にて食料油で応急手当ての救護活動をした。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。その約3時間後の11時頃に、爆心地から南南東約2.3kmの御幸橋西詰にて、宇品警察署の警官が食料油で応急手当ての救護活動をした。中学生や広島女子商業や広島一中の学校の生徒が周囲を囲んだ。原爆の被爆当日の写真は、同地の被爆者写真の2枚しかない。


2017年10月14日土曜日

長崎原子爆弾で兄は被爆して負傷した弟を背負いながら縁者や知り合いを探した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から南に約2.2kmの長崎駅の周辺にて、両親をうしなって、弟が被爆して火傷を受け頭部は血まみれで凝固した。兄は翌日の朝7時頃に負傷した弟を背負ながら縁者や知り合いらを探した。


2017年10月12日木曜日

広島原子爆弾から3週間の受傷後に顔面から前腕まで重度の火傷の原爆症となった。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から約1.0kmの戸外で被爆した。原子爆弾から3週間の受傷後の熱傷であった。顔面から前腕まで重度の火傷の原爆症となった。


2017年10月11日水曜日

長崎原子爆弾に被爆して爆圧で電車が大破して乗客は線路まで吹き飛ばされた。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から約200mの下ノ川鉄橋の北詰で電車が被爆して大破した。上空からの爆圧を受け地面からの反射圧で、電車の屋根を残して大破した。電車内の乗客は、線路側まで吹き飛ばされ被爆死した。翌日でも全焼の影響は少なく被爆状況が残存していた。


2017年10月9日月曜日

広島原子爆弾の救護隊は被爆死した膨大な遺体を広場に集めては火葬した。(広島)

広島原子爆弾が炸裂してから直ちに救護隊は被爆死した膨大な遺体を広場に集めては火葬した。翌日には爆心地からは東約700mの臨時救護所となった福屋百貨店の西側に死体を運搬して集結した。被爆死者を火葬する煙は広島市内を何日間も立ち込めた。



2017年10月8日日曜日

長崎原子爆弾の爆心地一帯には焼死して黒化し硬化した数多くの被爆遺体が散在した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から約110mと間近な長崎市松山町付近は全焼と全壊した。翌日にはその一帯には焼死して黒化して硬化した数多くの被爆遺体が散在した。逃避したり、つかみ、捻るような姿勢で硬化して周りには瓦が一面に飛び散った。中央は長崎製鋼所であり、稲佐山に連なる丘陵の手前では、長崎電鉄の架線支柱は残存していた。


2017年10月6日金曜日

2017年のノーベル平和賞は核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の受賞が決定した。

2017年のノーベル平和賞は、International Campaign to Abolish Nuclear Weapons  (ICAN: 核兵器廃絶国際キャンペーン)が10月6日に受賞が発表された。授賞理由は核兵器の使用がもたらす壊滅的な人道上の結果に注意を向けさせた働きおよび、条約による核兵器禁止の実現に向けた多大なる尽力した。 ICANは世界およそ100か国のNGOによる連合であり、核兵器廃絶に向けた「人道の誓い」に賛同するよう世界の国々を動かす力になった。さらに2017年7月7日に122か国の賛成で採択された核兵器禁止条約については、ICANが市民社会での主導的な役割を担った。条約の発効には50か国以上の批准が必要となるが、既に 50か国以上が署名している。署名した各国は批准に向けて国内手続きを進めることになる。 ノルウェーノーベル委員会では、条約が核兵器を1つでも減らすことのできるものではなく、核兵器保有国やその同盟国が条約に賛成していないことを指摘したうえで、核兵器廃絶の取り組みは保有国も含めて進めていくべきだ。

一方で、アメリカやロシアなどの核兵器の保有国や、核の傘の日本などは条約に参加しない。

2017年10月4日水曜日

広島原子爆弾の炸裂により青年兵士は猛烈な熱線と爆風圧を受けた死体となった。(広島)

広島原子爆弾の爆心地から北東約700mにある西練兵場は壊滅的な被爆を受けた。広島原子爆弾の炸裂により青年兵士は猛烈な熱線と爆風圧を受けた死体となった。日本軍の中国軍管区司令部など諸隊員が集結していたが、全滅して死体の広場と様変わりした。

 

2017年10月2日月曜日

長崎原子爆弾の周辺は、全壊して散在した破片上に炭化した焼死体が散在していた。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地より、南方に約500m付近の浜口町にて、全壊して散在した破片上に焼死体が散在していた。被爆した焼死体は、翌日の午前中には爆風で吹き飛ばされて、爆熱で焼死して真っ黒に焦げて炭化していた。


2017年10月1日日曜日

広島原子爆弾の子のメモと千羽鶴の象徴 (広島)

広島原爆症により入院した佐々木禎子が1955年7月29日まで血液検査のメモ書きで7月18日には白血数が10万を越えて10月25日に白血病で死去する。名古屋の女高生から折り鶴をもらい千羽鶴を折り始めるも原爆の子の像が建立される象徴となる。




2017年9月30日土曜日

長崎原子爆弾の 爆心地の付近でオートバイと運転手が吹き飛ばされ黒焦げになった。(長崎)


長崎原子爆弾の炸裂のために、爆心地の付近でオートバイとその運転手が強烈に被爆した。爆風により吹き飛ばされ、爆熱で黒焦げになった遺体が散在した。



2017年9月29日金曜日

広島原子爆弾による被爆死体の白骨遺体を発掘して冥福をした。(広島)

広島原爆が1945年8月6日に投下されて壊滅した広島市内には半世紀以上が経過しても白骨の被爆死体が続々と発掘され続けている。被爆から7年も経過した1952年7月に坂町で発見された野ざらしの60体の遺骨に冥福を祈った。

2017年9月28日木曜日

長崎原子爆弾の爆心地付近で、爆風で吹き飛ばされて爆熱により黒焦げの焼死体となった。(長崎)


長崎原子爆弾の爆心地付近で、爆風で吹き飛ばされて爆熱により黒焦げの焼死体となった。電線の下敷きなったままの遺体が、1945810日午後1時から2時頃に地面に散在していた。