2018年12月29日土曜日

長崎原子爆弾により市電と乗客は猛烈な被爆をして、猛烈な爆風と火玉で完全に市電と乗客は粉々に粉砕して即死した。(長崎)

長崎原子爆弾の爆心地から南南東の方向に約200mの地点で、長崎市電と乗客が猛烈な被爆をした。右上方から炸裂した猛烈な爆風と火玉で、完全に市電と乗客は粉々に粉砕して即死した。長崎市内の大橋行きの市電と乗客は、鉄橋の付近で被爆した。電車の台車だけは線路内に脱線して、それ以外の市電と乗客は、手前の側溝に叩きつけられた。全員の乗客は熱戦で焼死して黒化して即死した。
 1945年8月9日午前11時2分にB-29(ボックス・カー)から長崎市に原子爆弾が投下され炸裂した直後に、路面電車から投げ出された原爆の被害と犠牲を示した。 "ファット・マン(Fat Man)"と呼称された長崎原子爆弾は、地上約500mで炸裂して、長崎市の推定人口約200,000人のうち約13.5%に相当する約27,000人(約13.5%)が即死した。広島原子爆弾では、約78,000人が即死した。


2018年12月22日土曜日

広島原子爆弾で顔面の周囲を火傷して、眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼の開閉が制限された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下された。直後に炸裂して、爆心地より爆風・熱線・放射能が無差別に市民らに突き刺さった。原子爆弾に被爆して受傷した膨大な被爆者が、原爆症で苦悶しながら原爆死した。熱戦による火傷だけでなく、その後に醜いケロイドの瘢痕が残存した。特に顔面の周囲を火傷して、その後に眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼によるまぶたの開閉の可動域が制限されて診療を受けた。右目は、眼球が乾燥してまぶたも焼ただれて失明した。
 ケロイドは、特に露出部の皮膚への熱傷の後、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生して、不規則な隆起を生じた。爆心地から約3km以内の被爆者に、被爆後4ヵ月頃より発生し、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。原爆白内障が被爆後の約3か月から約10年ほど潜伏した後に発症する放射線により発症した。
 原子爆弾投下に際し、被爆者の中にケロイドを発症する人が多発した。爆発時の強力な輻射熱によって深部に達する火傷を負った部分が肥厚性瘢痕した。手術により切除しても再発して難治性で、顔面部から四肢の可動部のケロイドは、日常生活や社会生活にも大きな障害伴った。


2018年12月16日日曜日

長崎原子爆弾の被害を免れた新興善国民学校の救護所は、被爆者を4列に寝かせ1教室に約60人で1階から3階までで数100人を収容した。(長崎)

長崎原子爆弾により1945年8月9日に炸裂した直後に大きな被害を受けた長崎医科大学附属病院が、8月10日から新興善国民学校を救護所として被爆者の診療を開始した。4列に寝かせ1教室あたり60人を収容して、1階から3階まで数100人を収容した。収容患者は次々に死亡して、入院患者は増大する状況となった。
 爆心地から東に約600m離れた長崎医科大学は爆風で壊滅的な打撃を受け全滅全焼した。爆心地から南3kmの新興善国民小学校は窓ガラスが飛び散り、付近一帯火災がはまぬがれた。8月10日に長崎市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。午後に新興善国民小学校に針尾海兵団派遣の救護隊249人の宿舎なり、衛生材料が届いた。長崎市民が治療を受けに続々と集まった。後日に世保海軍病院武雄分院や各地医科大学から救護隊も集まり、8月16日に長崎市内で最大の特設救護病院になった。その後約2週間だけで約8,000人も治療した。



2018年12月9日日曜日

未亡人の母親は日雇い人夫として、広島原爆の被爆によるケロイド状の顔面をタオルで隠しながら、幼児に休息時に母乳を飲ませた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下され炸裂して、夫は被爆死した。母親は被爆による顔面に強度の熱傷により顔面はケロイド状となった。毎日の生活を支えるために日雇い人夫として重労働をした。その休憩時間に路上に横たわり休息取りながら、顔面をタオルで隠しながら。幼児に母乳を飲ませていた。


2018年12月2日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂で、トンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯となった。(長崎)。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された炸裂により、長崎市内はほとんど完全に崩壊した。崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯であった。防空壕の奥からは叫び声が聞こえ、土砂や抗木で埋まり生き埋めになった。庭の防空壕に避難して小さな防空壕ではさらに危険となり壊滅した。地上で熱線を浴びた被爆者は露出した部分が重度の熱傷、爆風による飛来物、ガラス片などと強烈な放射線が身体に刺って苦しみながら泣いて被爆死した。


2018年11月17日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日に爆心地から約1kmで、母と娘はあまりにも悲惨な被爆状況に涙を流して慟哭した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分頃に、ボックスカーと呼称されたB-29爆撃機投下されて炸裂した。その爆心地から南に約700mにおいて、翌日の1945年8月10日お昼頃に、人影はまばらでも、母親と娘は肉親を探しに来ていた。爆心地から1km足らずで、近距離の周辺である長崎市岩川町の県道付近にて、一面が焼け野原となり全ての木造の家は焼失した。あまりにも悲惨な被爆状況に、母と娘は言いようのない失望で胸が一杯に成り、涙を流して慟哭した。岩川町から長崎市中心部は、家が倒壊して道路が通れなくなった。道沿いには、被爆者や馬が生きてるままの格好で真白の白骨の灰になった。



2018年11月10日土曜日

宇品港から似島の第2検疫所に救護された被爆者は、重度の熱傷と激しい疼痛のために身動きもできない寝たきり状態となった。(広島)

広島原子爆弾の炸裂による重態の被爆者は、陸軍船舶司令部により宇品港から似島の第2検疫所に緊急的に救護された。被爆は熱傷が圧倒的に多く、特に顔面から四肢などの露出部に受傷した。激しい疼痛のために、身動きもできない寝たきり状態となった。第2日目から放射能の被爆により、多くの被爆者は急激な発熱や嘔吐を訴えながら死亡に至った。死体は、約1.5km離れた馬匹検疫所の空き地に埋葬した。8月12日に野戦病院に転換した。救護人員だけでなく医療材料が枯渇した。終戦直前の8月14日にから、収容された長期化料が必要な生存者は、大河国民学校などの救護病院にも転送された。最終的に残存者は8月25日には、広島市外の周辺の救護病院に転送されて、似島救護所は閉鎖された。数多くの身元不明の遺体のための墓の代わりに、千人塚を建立した。1995年に千人塚を発掘して約2,000体の遺骨は、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨され、千人塚は撤去された。





2018年11月3日土曜日

生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到して手当を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後3時頃に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者の背中に、薬液であるチンクオイルを医師と日赤看護婦が塗布した。海軍の甲板上の熱傷で使用していた。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。


2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。



2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月6日土曜日

広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



2018年9月24日月曜日

長崎原子爆弾により重度の火傷を3歳女児が被爆して大村海軍病院の入院直後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。



2018年9月16日日曜日

似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に被爆者の遺骨が千人塚に埋葬された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。






広島原子爆弾の臨時救護所に、爆心地から南方に約7kmの孤島にある似島陸軍検疫所が当てられた。似島陸軍検疫所の付近に埋葬所が設けられた。



2018年9月10日月曜日

学徒男動員された15歳の男子は、長崎三菱養成所で長崎原子爆弾に被爆して、重度で激痛の熱傷と重篤な破傷風を発症した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



2018年8月25日土曜日

広島原子爆弾の熱線で、女性の右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。(広島)

広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。二次熱傷となり、熱線で焦げた衣服で、その下の皮膚が色調により異なる熱傷を被爆した。衣服は色の濃い部分が強く熱線を吸収して焼け焦げた。被爆当日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
 広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。


2018年9月4日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 60,000回

2018年8月15日水曜日

広島へ新型爆弾、B29少数機で来襲攻撃、相当の被害 (大本営発表 1945年8月7日15時30分)

大本営発表(1945年8月7日15時30分)
広島へ敵新型爆弾 
B29少数機で来襲攻撃 
相当の被害、詳細は目下調査中

1. 8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細は目下調査中なり

落下傘つき 空中で破裂
人道を無視する悲虐な新爆弾

6日午前8時過ぎ敵B29少数機が広島に突入、少数の爆弾を投下した。これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に火災が発生した。敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したもののごとく、この爆弾は落下傘によって降下せられ空中で破裂したもののごとく。その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある。
敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には戦争遂行上の憔悴を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残虐性を敢えてした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である。

朝日新聞(昭和20(1945)年8月8日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

2018年8月12日日曜日

広島原子爆弾による焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車で、広島日赤病院に通わせた。(広島)

広島原子爆弾によって広島市内は壊滅した。その焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車にて、広島日赤病院に通っていた。 娘は1945年8月15日に広島市革屋町に出勤する途上で被爆した。爆心地から約2kmの羽衣町の南大橋で被爆した。母は救護所を転々として娘を探索した。23日目に大竹市玖波小学校で母と火傷した娘は再会できた 。母は吉島の家から娘を大八車で日赤に通わせた。



原子爆弾に被爆した被爆女性が、顔面から左上肢から左半身の熱傷を1945年10月初旬に広島日赤病院で手当を受けた。広島日赤病院の皮膚科医長と救護看護生が治療をした。被爆女性は母親に荷車に乗ってもらっていた娘であった。先生は 継続した治療を諦めていた。母親が玖波町から娘を連れて帰り、毎日病院に大八車で送り迎えした。両人ともに戦後も原爆症が抑えられ健在であった。


2018年8月12日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 50,000回


2018年8月9日木曜日

長崎原子爆弾が炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍がは16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。



2018年8月6日月曜日

広島原子爆弾の無差別な広島市民に対する無差別なきのこ雲と除外された海軍の江田島町や呉市が撮影された。(広島)

広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。





2018年8月6日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 40,000回


2018年8月5日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂によって後頭部と前腕部の熱傷に被爆した17歳の女子学生が、大村海軍病院に護送された。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂によって被爆した17歳の女子学生が、長崎市かせ北東約20kmの大村海軍病院に護送された。炸裂した当日の8月9日に8病舎に収容された。後頭部に小鳩卵大の裂創があり、創面は挫滅して、中等度に出血していた。顔面は発赤して腫脹して、疼痛を伴った。左前腕手背は水疱を形成して、各所がびらんしていた。意識は明瞭で、一般状態は特記はなかった。8月25日になって、顔面熱傷は軽快して、左上腕は外側全面にびらがあり、手背は瘢痕化して、手指の可動が少し制限された。後頭部は化膿はなかったが、母指頭大の肉芽となり、頭髪が軽度に脱毛した。体温は8月15日まで39度程度まで上昇した。9月17日に37.9度、9月19日に36.8度に降りた。原爆症により、8月28日に白血球数は1,800に低下して、赤血球は3,880,000、血色素53%、色素係数は0.69も減少した。一般状態が落ち着き10月1日に退所となった。



2018年8月4日土曜日

広島原子爆弾の原爆症で脱毛となり、その後に再発して、弟は1949年に、姉は1965年に死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1kmの舟入町で姉弟が被爆した。自宅で11歳の姉と9歳の弟が夏休みの宿題をしている時に被爆した。その後に2ケ月経過した1945年10月頃には、原爆症による著明な脱毛症状を伴っていた。広島日赤病院で急性原爆症は診療されて、小康状態となった。しかし原爆症が再発して、弟は1949年に死亡した。姉は、結婚して1児の母となった後の1965年に死亡した。




2018年8月3日金曜日

長崎原子爆弾に被爆した翌日に、避難して座り込んだ少女が、水筒から少量の最後の水をゆっくり飲んだ。(長崎)

長崎原子爆弾による熱射と放射線に浴びながら三菱製鋼所の付近まで避難した。爆心地から南約1.5kmに、翌日の1945年8月10日午前10時頃に井樋ノ町のトラックの荷台の上と横で既に数名が被爆死していた。1台のトラックの周辺では、一面が焦土化した地域を避難して、約10人が日陰に倒れ伏した。長崎市の連絡員が自分の水筒を被爆者らに渡した。トラックの手前の布団の上に座り込み被爆した少女が、その水筒から少量の最後の水をゆっくりゆっくりと回して飲んだ。



2018年8月1日水曜日

重症の原爆症により、口唇と口腔内の出血から口内炎症と脱毛した兵士は翌日に死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から南西1.0kmの屋外で被爆した日本軍兵士が、第1陸軍病院の宇品分院に護送された。重症の原爆症により、口腔内を診察すると、口唇から出血して、さらに歯茎からも出血が継続していた。口内炎も併発して、さらに脱毛も伴った。1945年8月下旬に病状を撮影した翌日に、日本軍兵士は死亡した。



2018年6月3日日曜日

18歳の女性学徒が、長崎原子爆弾で顔面、両方前腕から右膝関節周辺に熱傷を被爆して、大村海軍病院に収容された。(長崎)

長崎市から北東約20kmも離れている大村海軍病院は、大村海軍航空隊のために1942年10月から開設された。1945年8月9日午前11時2分に炸裂した長崎原爆から午後3時になって電話連絡で救護隊が被爆者の護送を始めた。18歳の女性学徒が、8月9日に長崎海軍病院の第6病舎に護送されて収容された。顔面および両方前腕から右膝関節周辺に第2度の熱傷を被爆して、水疱を伴っていた。8月25日には、顔面の熱傷は黄褐色の痂皮で覆われてほとんど落ち着いた。しかし、8月28日の血液検査で白血球数は約800個 /m3( 基準値3,500から9,500)まで著明に減少した。赤血球は437万個(350から500万)、ヘマトクリット48%(35から45%)、色素係数は0.55であった。創部はリバノール肝油で湿布やマクロライドを塗り、火傷は軽快した。リンゲル液は静脈注射して、トリアノンを服用して感染を予防して、ナルビンを注射して造血した。8月31日に第3病舎に転舎した。




2018年5月29日火曜日

広島原子爆弾が炸裂して孤児になった男子は、火傷した子供を背負って、全滅して1月後の広島市内の荒野に呆然と起立した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、多大な犠牲者が被爆した。膨大な死者数のために、両親が共々が被爆死して、約6,500名以上もの被爆孤児のみが生存して残された。炸裂してから1ケ月後に男子は、火傷した子供を背負って、全滅した広島市内の荒野に呆然と立たずでいた。子供の頭部には、多数の火傷の瘢痕が残っていた。男子は軍帽をかぶり、小袋を抱えて草履で起立して、子供と一緒に悲しそうにカメラを覗いた。アメリカ軍の周りを取り囲んでは、おねだりして飢えをしのいでいた。アメリカ軍の海兵隊の従軍カメラマンであったジョ オドーネル(Joe O'Donnel)が、1945年9月2日に佐世保に着港してから、佐世保・福岡・広島・長崎を巡視して、空襲と被爆状況を撮影した。



2018年5月26日土曜日

17歳の男子工員が、長崎原子爆弾で上半身に2度の熱傷を被爆して2日後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、17歳の男子行員が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、8月10日に六病舎に収容された。重度に被爆して、熱線により顔面から頚部、左前胸部、左上肢にかけて第2度の熱傷を受傷した。火傷は深さによりI度熱傷からIII度熱傷に分類され、深達性II度の熱傷は、治癒期間は長く瘢痕や瘢痕拘縮を残す。収容された当初から全身状態が悪化して寝たきり状態となる。翌日の8月11日午後6時には急激に重態となり死亡に至った。



2018年5月20日日曜日

広島原子爆弾の閃光を両手で両眼を防ぎ、両手の手背部以外の顔面は重度の熱傷を受けた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、日本軍将校であったO大尉は、一瞬の閃光を見上げた。その瞬間に両手で両眼をふさいだ。両眼をふさいだ両手の手背部は、閃光からの直射で重度の熱傷を受けた。次日の8月7日に、広島江波分院に護送された。両眼の周囲から顔面は軽度の火傷で収まったが、両手で防げなかったその他の顔面周囲は重度の火傷を受傷した。江波分院は、広島第1陸軍病院江波分院として、東練兵場の江波兵器学校を救護所として8月6日に設置されて、約10,500名を収容した。救護所は8月7日時点では約11ケ所のみと広島県は記録した。周辺地域からの緊急救援は、三原市医師会(広島市から72km)は「8月6日午前9時、三原警察署より広島市戦災につき救援すべき通報に接し、既に組織してある救護班員を非常招集して、午前11時トラック2 台にて出発」と記録された。



2018年5月4日金曜日

長崎原子爆弾に被爆した14歳の女子学徒が19日目に大村海軍病院で原爆症で死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、14歳の女子学徒が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、六病舎に入院した。顔面から頚部、左前腕、左膝蓋部に重度の熱傷を被爆した。応急的に消毒液を湿したガーゼを火傷に貼付けた。全身状態が重篤となり、8月12日から毎日リンゲルを600ccを輸液した。入院して19日目の8月28日から脈拍が微弱で不整となり、胸部痛で苦悶した。体温が38.2から39.4度を上下して、午後1時30分危篤に陥り、午後2時30分に死亡した。皮膚には大小のうっ血斑をがあり、死斑は身体の下垂部にも広がった。毛髪は脱毛しかけ、無数に脱落していた。その後に詳細な病理解剖をされた。



2018年5月14日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 20,000回

2018年4月30日月曜日

広島原子爆弾の放射能による原爆症で、青年兵士は舌から滲み出る出血や腸からの下血により、次第に全身状態が衰弱した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後にも、陸軍船舶練習部の暁部隊の青年兵士は、直後から引き続いて居残り、被爆地の残骸の整理の作業を継続していた。8月10日から体調が悪化して重篤となって、自ら船舶練習部の収容所に入所した。8月12日には放射能による原爆症により、舌から滲み出る出血や腸からの出血による下血が止血できずに、次第に全身状態が衰弱していた。重篤な急性期の原爆症により、広島原子爆弾が炸裂してから約2週間後の8月20日に死亡した。



2018年4月22日日曜日

青年医学生は、長崎原爆の放射能を大量に浴びて、髪の毛が抜け、ぐったりと横たわる少女の耳から血液検査のために採血した。(長崎)

長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂による重度の被爆者が、爆心地から南約3kmの新興善特設救護病院に護送された。被爆者から1945年12月末までに急性期(2週間まで)、亜急性期(2月間まで)、維持期(3月以後)の急性障害が発症した。

   長崎原子爆弾が1945年8月9日11時2分に、アメリカ軍の爆撃機B-29「グレート・アーティスト」から投下されて炸裂から、間もなく長崎市の新興善国民学校の特設救護所に、被爆した少女は救護された。九州帝国大学の医学生だった青年は9月上旬に、少女は放射能を大量に浴びて、髪の毛が抜け、ぐったりと横たわる少女の耳から血液検査のために採血した。血液中の白血球の減少を検査した。朝日新聞西部本社のカメラマンだった故・富重安雄氏が撮影した。青年だった浜清さんは、できる限りの事をするも、次々と亡くなる被爆者を前に無力を感じた。全身が焼けただれ、身体にガラス片が刺さった被爆者などが次々と運び込まれた。長崎原爆の投下から3日後の1945年8月12日頃は、爆心地に近い山里国民学校の救護所で、青年は傷口を消毒したり強心剤を打ったりするだけで一杯だった。被爆者らは次々に息絶えで被爆死して、広場に積み重ねられる死体は高く積み重ねた。

 急性期の即死は崩壊下での圧死や焼死と全身熱傷による。大量放射線の被爆者は全身の脱力感、吐気、嘔吐等の症状が現れ、数日間に発熱、下痢、吐血等による全身衰弱で10日前後までに死亡した。造血組織や腸の上皮細胞の病理的障害が認められた。

 亜急性症状は、吐き気、嘔吐、下痢、脱力感、各種出血、白血球減少、赤血球減少等であった。骨髄、リンパ節、脾臓などの組織が破壊され、顆粒球や血小板が減少し、感染の抵抗力の低下と出血症状が現れた。この時期の死因の多くは重度感染症と敗血症であった。 床に横たわる被爆者から9月24日 の回診で耳たぶから血液を採取して検査するしかなかった。

 放射線被爆の急性障害症状は、脱毛、出血、口腔咽頭部病変及び白血球減少であった。発生率は被爆線量の増大と、50rad(0.5Gy)で5〜10%から、300rad(3Gy)で50〜80%と強相関的に増加した。脱毛は被爆後8〜10週に起こった。

 放射線障害の維持期なら、被爆の3〜4か月後から始まり、内臓諸器官の機能回復、脱毛から発毛、各種血球の増殖、正常化が起こり始めた。



2018年3月24日土曜日

広島原子爆弾の被爆により、少年の背中には広範囲にわたる火傷から瘢痕組織のケロイドが発生した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂による強烈な熱線と放射線により重度の熱傷を受傷した。重態となった被爆者は、爆心地から南約9kmの広島湾沖の瀬戸内海上の似島救護所に護送された。少年の背中には広範囲にわたる火傷から瘢痕組織であるケロイドが発生した。加療を受けた後にも、火傷には放射能の影響により、瘢痕組織が過剰に増殖したケロイドが、不規則に隆起した。特に爆心地から2km以内での被爆により多くは発症した。その経過後にも醜い瘢痕となる後遺症として残存した。




2018年3月18日日曜日

3歳の女児が長崎原子爆弾から約12日後に護送されて、大村海軍病院で間もなく死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日から約12日間も経過した後に、3歳の女児が長崎市内から北東20kmの大村海軍病院に護送された。入院した直後には、前頭部と両方の下腿部の火傷などの外傷にガーゼと包帯処置された。重篤な病状になった原爆症で重病であると診断されるも、為す術もなく記録も途絶えて、間もなく死亡した。




2018年3月10日土曜日

広島原子爆弾による胎内被爆で、妊娠6ケ月で流産して死亡した無脳児がホルマリンで保存された。(広島)

広島原子爆弾による放射能を被爆した妊婦が無脳児を流産した。妊娠6ケ月における流産して死亡した無脳児がホルマリンで保存された。妊娠時被爆の母体からは死産児の頻度が高く、体内被曝には無脳症から小頭症や小児悪性腫瘍が多発した。放射能の影響が代々と遺伝子まで達して、特に妊婦の胎児には悲惨な影響を及ぼした。女性の場合は、卵巣から原始卵胞、グラーフ卵胞、黄体までも損傷していた。男性では、精巣から原始精細胞まで消失していた。原子爆弾には、遺伝子にわたる被爆症の障害が残存した。


2018年3月3日土曜日

16歳の女子学生が重度に長崎原子爆弾に被爆して、大村海軍病院に12日間の収容で全身状態が悪化して死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂によって、16歳の女子学生が重度に被爆した。炸裂日と同一の8月9日中に大村海軍病院に護送された。顔面および前腕の熱傷にわたり、著明なる水疱を伴った。8月12日に重篤になった原爆症に手当をされた。8月21日にはさらに全身状態が悪化して、呼吸困難で苦悶した。8月22日には、呼吸不全から、さにに顔貌が憔悴して、意識低下となり、肺野にも異常音が出現した。12時52分に死亡して、入院院期間は12日間であった。

2018年3月4日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 10,000回

2018年2月24日土曜日

広島原子爆弾で被爆した子供たちを、救護隊員が救護所に送迎するためにトラックの上に乗せた。 (広島)

広島原子爆弾の炸裂によって被爆した多数の子供たちを、救護隊員がトラックの荷台に乗せて救護所に送迎した。子供たちは、顔面から全身の各所を火傷して、応急な簡素な綿布で手当をされた。子供たちは、痛みや苦しさで苦悶しながらも寝たきりで耐えていた。救護隊員は被爆した子供たちを安全な広島市郊外の救護所に急送した。


2018年2月18日日曜日

長崎原子爆弾の放射能の大量被爆により、 熱傷や外傷等ではなく、全身の出血傾向による広範囲の出血斑が出現して重篤になり死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂にて重度に被爆した女性が、大村海軍病院に護送された。長崎原子爆弾の放射能の大量被爆により、 熱傷や外傷等は少なくても、全身における出血傾向により出血斑が広範囲に多数出現して重篤になり死亡した。爆心地から近距離になるほど、 早期に出血傾向を起こし、急性期に重篤になり被爆死した。病院に収容されるも数日後に、原爆症により病院内で死亡した。


2018年2月12日月曜日

広島原子爆弾で身体全身を黒焦げしてトタン屋根の下で焼死した死体を救護隊が検死した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した。熱線で丸焦げの死体が、住吉橋付近の臨時火葬場に収容された。強烈な熱線によって被爆者は重度の火傷を負い、多くの市民が焼死した。熱線に直面して火傷して、爆心地から3.5km離れても、身体部分に火傷を負った。爆心地から600m以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になった。約3キロメートル以内では、電柱、樹木、木材などが黒焦げになった。身体全身を黒焦げでトタン屋根の下で焼死した死体を救護隊が検死した。



2018年2月11日日曜日

長崎原子爆弾のよる被爆死の遺体を、親族が火葬するための野火が長崎市内の各地で立ち上った。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂した1945年8月9日に、膨大な被爆した親族らは行方不明のままとなった。やっと約20日間過ぎた8月下旬に、親族の被爆死の遺体を火葬するための野火が長崎市内の各地で立ち上った。親族らは呆然として火葬の火が立ち上りを見守りながら、長崎原子爆弾の悲惨さに悲嘆した。親族に火葬された被爆者は一部であり、ほとんどは行方不明のままとなった。


2018年2月4日日曜日

婦人は背中の全面に重度の火傷を広島原子爆弾で被爆した翌日の8月7日の病態であった。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により被爆して、婦人は背中の全面に重度の火傷を被爆した翌日の8月7日の病態であった。ウラン235により残酷にも全身が焼きただれて、近日中に死亡する。似島の陸軍検疫所に救護された。陸軍船舶司令部の写真班が撮影した。火傷で後面の背部が腫れ上がり、衣服は焼けちぎれた。司令部に殺到した多くの被爆者は似島に救護された。


2018年2月2日金曜日

1歳の男児が、長崎原子爆弾により重度の全身爆傷を被爆して、全身状態が悪化し9月5日に大村海軍病院に救護された。(長崎)

1歳の男児が、長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により重度の全身爆傷を被爆した。9月5日に全身状態が悪化して、長崎市内から北東20kmの大村海軍病院に救護された。爆傷した数日後にて多数の水疱が生じて、8月30日より発熱して、常に泣き続け全身の機嫌が極度に低下した。9月5日には膿疱疹が出現して、体温38度となった。下肢には亜鉛華油を塗り、ビタミCを注射したのみであった。9月21日から左眼から少量の目脂を分泌し始めた。その予後は不詳である。

トランプ米政権は2018年2月2日に、米国の核戦略の核態勢見直し(NPR: Nuclear Posture Review)を公表した。ロシアや中国、北朝鮮などが核兵器増強を進める現状に対応して、爆発力を小さく、機動性を高めた新型核兵器の導入を明記した。非核兵器による攻撃に対する核兵器による報復の可能性も含めた。冷戦後の歴代米国政権が目指した核兵器削減や使用回避を優先させる方針から、核兵器をより使用を容易にする方向の転換をした。






2018年1月28日日曜日

広島原子爆弾による火傷や原爆症を伴った母と娘を父親がリヤカーに乗せて移動した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂による火傷や原爆症を伴った母と娘を父親がリヤカーに乗せて移動した。1945年8月12日に爆心地から南に約4.2kmある宇品の陸軍船部の臨時救護所にて手当を受けて戻った。街路には、多数の被爆者らが重度の火傷から原爆症を伴って、衣服は爆風と爆熱で引ちぎられていた。



2018年1月27日土曜日

イラク紛争では劣化ウラン弾から残留放射能による多数の無脳症の新生児が出産された。

イラク紛争により首都のバグダッドのアルウイア病院では、劣化ウラン爆弾からの残留放射能による多数個の無脳症の新生児が出産された。出産には最悪の障害を伴う無脳児となり、近日中に死亡に至った。アメリカ軍は、原子力発電所の廃棄物でもある劣化ウラン弾をイラク紛争で使用した。イラク紛争後も、放射能による遺伝子の影響で、先天性障害だけでなく白血病など悪性腫瘍も増加した。アメリカ軍は1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦から、ボスニア・コソボ紛争からアフガニスタン紛争に、さらに2015年にはイスラム国にも劣化ウラン弾が使用された。しかし、アメリカ政府から世界保健機関(WHO)までもが、劣化ウラン弾の後遺症を否定している。

2018年1月21日日曜日

長崎原子爆弾の被爆者は医師と看護婦は十分な治療もできず、観察の回診の側で、母親が心配そうに家族を見守った。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、新興善国民学校に特設された救護病院に護送された。爆心地から南約3kmの新興善国民学校で、窓は吹っ飛び、焼け残った散乱した教室を活用した。長崎市内では、最も多数の被爆者が収容された。病棟となった教室にて、横たわっている被爆者には、その人数に対応するには医薬品や人材などが欠乏していた。医師と看護婦は十分な治療もできずに、回診で観察するしかなかった。その回診の側で、母親が心配そうに家族を見守った。

 

2018年1月20日土曜日

広島原子爆弾の熱線に直射された重症の火傷の幼児が比治山小学校に収容された。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、幼児が被爆して、爆心地から東約1.8kmにあった比治山小学校に収容された。熱線の直射されて、特に胸部ならびに顔面、右下肢から右上肢に及ぶ重度の火傷となった。かなり衰弱して泣きながら苦悶していた。その後に比治山には、アメリカ合衆国が被爆実態の研究のため1946年に原爆障害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)が設立された。



2018年1月14日日曜日

7歳の男子は長崎市内から約20kmの大村海軍病院に護送され収容して間もなく死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂後に、7歳の男子は長崎市内から北東20kmの大村海軍病院に護送された。収容してから間もなく死亡した。その経過の記録の詳細は不明ままで死亡した。むしろの上で目をうつろに開けたままで死後硬直を起こした。左胸部から上肢にかけて熱傷も合併した。



2018年1月7日日曜日

第一国民学校に殺到した被爆者は、隙間もなくむしろに横たわり、家族は側で見守った。(広島)

広島原子爆弾が炸裂して爆心地から東南約2.6kmの広島市立第一国民学校は、残存した東校舎と講堂が臨時救護所となった。その生徒は、約150名中の約50名が被爆死して、広島市街地から東側に避難した被爆者が殺到した。1945年8月8日頃には、ゆかや壁などにむしろを引いて、隙間もなく被爆者を収容した。家族は身内の被爆者の側で心配しながら見守るしかなかった。