2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日に写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月20日土曜日

1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約4kmの宇品に位置した陸軍船舶練習部の負傷者の収容所に、日本陸軍兵士の被爆者が収容された。1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。人体への急性障害の第3〜5週の主要な症状は、脱毛、紫斑を含む出血、下血等を引き起こして、全身衰弱を伴って死亡した。

 広島市宇品は港湾地帯で爆心地から3km以上へだたって、原子爆弾による被害は比較的少なかった。火災をまぬがれたこの地区へ、広島市内で被爆した人びとが殺到した。宇品の負傷者の救護にあたった施設の一つは、陸軍船舶練習部であった。陸軍船舶練習部は、陸軍の部隊に船舶操作の教育・訓練をほどこす組織であり、大和紡績広島工場を接収して駐屯していた。教育をうける部隊がつぎつぎ入れ替わるので、兵舎は常時満員でなかった。食糧の備蓄もあり、約1,000人程度の給食には事欠かなかった。診療所もあり、救護施設としての条件を備えていた。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂による被爆とともに建物は軽い損傷を受けたが、大破はなかった。その約1時間後ころから負傷者がしだいに集まった。広島市内へ救援に出動した部隊からトラックや舟で送られて来る負傷者がしだいに増えた。8月6日の午後3時頃には数百名の被爆患者を収容した。8月6日中に処置して、あるいは収容した負傷者は、約6,000人を超えたと推定された。陸軍船舶練習部は、野戦収容所というべき状態になった。収容者の多くは重症の原爆病で8月10日から9月中旬までに約3,000人の死亡者が出た。

 野戦収容所となった陸軍船舶練習部は、船舶司令部の命令によって体制をととのえて、8月12日に陸軍船舶練習部臨時野戦病院 となった。8月15日の日本の敗戦とともに、軍部の戦時体制が解放された。船舶衛生機関の名称で救護と医療が継続された。8月25日に、広島第一陸軍病院宇品分院の表札が掲げられた。この期間に8月8日には陸軍省調査班、8月14日には同第2次調査班が入った。船舶練習部を基地として被爆の調査に従事した。





2024年1月13日土曜日

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。佐々木トシ子は、広島原子爆弾の被爆により、広島市天満町105の東洋製鉄で受傷した。椅子にかけ執務中に、広島原子爆弾の光芒を見て座せんとして、中腰になりたる時に受傷した。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。日本赤十字社広島病院に入院した。神経損傷はなく左拇趾自動運動は可能なるも、膝関節に高度の拘縮を認めた。運動時疼痛のために左下肢受働位を取った。日赤病院の血液検査は、白血球6200であった。

 日本赤十字社広島病院は、戦時下は広島陸軍病院赤十字病院となり、爆心地から南1.6kmの広島市中区千田町1丁目に位置した。敷地内にあった木造建築は全部倒壊して、間もなく火を発して焼失した。主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであり、焼失は免れた。鉄の窓枠は破壊してガラスはこっぱみじんに飛散した。建物の内部も天井は落ち、壁は崩れ、椅子や机は倒れ、足を踏み入れるのが困難なほど破壊された。

 菊池俊吉が被爆者の写真撮影をした。オリエンタル写真学校を1938年に卒業して東京工藝社に、1941年に東方社写真部に入社した。被爆して約2カ月後の1945年10月に、写真家の菊池俊吉さんは専門家による被害調査に伴う原爆記録映画の撮影に同行して、広島市内の被爆者を何人も写真に収めた。1945年9月に、文部省学術研究会議が編成した原爆被害の調査団に同行して、被爆地の広島を撮影した。旧文部省が編成した原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から20日までスチル写真の撮影に当たった。




2024年1月6日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して、男性の背中にはケロイドが発生してきた。1947年には、広島原子爆弾の火傷で男性の背中にケロイド状の傷跡が残存していた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して、男性の背中にはケロイドが発生してきた。1947年には、広島原子爆弾の火傷で男性の背中にケロイド状の傷跡が残存していた。生き残った被爆者には、ケロイド状の恐ろしい火傷を負った。極度の熱射でひどく焼かれて、特徴的なケロイド状の傷跡ができた。そのケロイドの瘢痕は最初の火傷よりも大きくなる。ケロイドは、原爆の被爆による火傷した皮膚が治癒する過程で形成された。不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えてケロイドと呼称された・爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆約4ヵ月後に形成され、その後に6~14ヵ月後に最も膨隆した。瘢痕は、被害者の皮膚が炸裂の初期閃光の熱に直接さらされた部位に形成された。ケロイドは被災者の心と体に永久的な傷跡を残した。顔にケロイドができた人は精神的な苦痛が大きく、背中や肩にケロイドができた人は肌を見せるのをためらった。夏でも長袖のシャツを着ている人が多かった。

 1945年8月6日、アメリカが広島に原爆を投下し、78,000人が即死した。生き残った人々は放射線病と重度の火傷を負い、街は完全に破壊された。広島に原子爆弾が投下された約1秒後に、直径約280メートルの巨大な火球が噴出した。その中心部の温度は摂氏約100万度を超えた。原子爆弾の爆発による熱線は、通過するすべてのものの表面温度を最悪で摂氏3,000度以上にも上昇させる。突然の急激な温度上昇は、周囲の空気を急速に膨張させ、音速を超える爆風を発生させた。爆風の背後の空間の気圧の低下により、進路にいる被爆者の眼球や内臓を破裂させるほど強力な逆流が発生した。爆心地から約1km以内のほとんどの被爆者は即死した。それよりも遠方の被爆者は、街の建物の破片を浴びせられた。

 爆発によって発生した放射線のほとんどはガンマ線で、その他10%は中性子線であった。どちらもDNAに変化をもたらす電離放射線の一種である。中性子の方がはるかに危険であった。広島原子爆弾の呼称であるリトルボーイの約64kgのウランの約10%は最初の核分裂反応によって食べ尽くされた。残りの約90%の放射性物質は爆風によって広島市内に撒き散らされた。その放射線被曝の結果、被爆者の多くは、嘔吐、発熱、疲労、歯ぐきからの出血、薄毛、下痢などの放射線症のは原爆病に襲われた。原爆病の苦しみ、最悪の場合は原爆病死に至った。生き延びた被爆者は、その後にがんのリスクが高まった。その子孫に異常が見られたという証拠は不明である。