2019年10月20日日曜日

広島原爆で頭部に受傷して、母親と看護師からケアを受けて、不安に怯えながら見つめた。(広島)

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。



2019年10月20日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 160,000回

2019年10月2日水曜日

長崎原爆が大炸裂した瞬間を上空から捉えて、きのこ雲をカラーフィルムで約3分50秒の撮影された。(長崎)

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。