2023年6月24日土曜日

広島原子爆弾の爆心地より約400mの本川町(旧左官町)より十日市町方面を望む街の焼け跡の中央には、1945年秋に広島電鉄の路面電車の残骸が遺残した。

 広島原子爆弾の爆心地より約400mの本川町(旧左官町)より十日市町方面を望む景色である。街の焼け跡の中央には、1945年に広島電鉄の路面電車の残骸が遺残した。爆心地から約500m以内は、路面電車の胴体下部の台車のみが残存した。全焼した被爆電車は、道路脇へ寄よせられた。車体は完全に焼け落ち、車底部分のみが残った。支柱の倒壊によって架線が甚大な被害を受けた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日に, 広島市内には推定約116台の広島電鉄の路面電車が走行していた。被害のうち全焼22両,半焼3両,大中小破83両に及んだ。ほとんどが出勤時の乗客で満員だった。広島原子爆弾の炸裂の際の閃光と爆風で全滅して壊滅した。わずかに広島市郊外を走行した約8台の路面電車だけが破損を免れた。原子爆弾の炸裂で被爆した電車を被爆電車と呼称した。被爆3日後の8月9日には己斐から天満町間で、9月7日には八丁堀まで路面電車が復旧した。

  広島原子爆弾の爆心地近くは胴体の下部がわずかに残る程度であった。爆心地から約700mほど離れると窓枠が残存した。爆心地から約900m離れると、路面電車の屋根も残っていた。いずれの場合も、路面電子の内部は丸焼けとなり、一様に軌道から大きく吹きとばされて脱線した。路面電車を遠くから眺めると、車内にずらりと乗客が並んでいた。変ったところで休憩していると思って近づいてみると、 それらはすべて焼死体であった。座席に腰かけた被爆者は、そのままの姿で焼死した。吊革にぶら下がった被爆者は、吊革をにぎった格好のままで焼死して、路面電車の床の上に、折重って焼け死んでいた。社内は死臭の悪臭で酸鼻の極となった。



2023年6月10日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日に、爆心地から南南東約2.5kmのカトリック教会の中町天主堂付近の被爆地周辺の瓦礫上を、生存した長崎市民らが歩いた。

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日に、爆心地から南南東約2.5kmの中町天主堂付近の被爆地を山端庸介が撮影した。周辺の瓦礫上を、生存した長崎市民らが歩いた。中町天主堂は1945年8月9日の長崎原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。長崎市に現存する数少ない長崎原子爆弾の被爆建造物の一つであった。この地域は長崎原子爆弾の炸裂後に発生した二次火災による焼失地域である。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、それが後に自然発火して大火災に発展した。残った塔や外壁を利用して1951年10月に復元され現在に至った。貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けて、教会の門の側に銘版が設置された。

 長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風により、中町天主堂は天井の崩落などで損壊した。その後に発生した火災により側壁と尖塔以外は焼失した。教会に港側から昇った火の手が包み込み、たちまち火だるまとなった。尖塔と側壁だけが残存した。中町教会は、長崎県長崎市にあるキリスト教のカトリック教会およびその聖堂である。長崎市に現存する数少ない長崎原子爆弾の被爆建造物の一つである。残った塔や外壁を利用して1951年10月に復元された。

 中町天主堂はフランス人の寄付により、1897年9月8日に建立が完成した教会である。長崎原子爆弾の被爆で崩壊したが、戦後に修復して、1951年10月に復元された。外観は白を強調し、尖塔を持つ、鉄筋コンクリート造りである。カトリック中町教会天主堂は、1897年建立されて、1951年再建に再建された。島内要助神父が、殉教の歴史をもつこ中町に、日本人のための教会を建てようと決意した。苦労の末に1889年の暮に、キリシタン大名であった大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地を求めて教会を設立した。教会はフランスのパピノー神父の設計で1891年8月より建設に着手した。1897年9月8日聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行された。教会建設にあたっては、フランスのある婦人の当時の金額で約8万フランにものぼる寄付や、多数の恩人の協力があった。1945年8月9日の長崎原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、外壁と尖塔をそのまま生かして再建され現在に至る。貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けて、教会の門の側に銘版が設置された。




2023年6月3日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約400mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直した。

広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約490mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直していた。写真は広島市本土通りから東方を望んだ。左側の建物は、大林組広島支店であり、右側の建物は安田銀行があった。中央には、下村時計店とその後方に比治山の北端部が写っていた。



 8月6日に本通りに入った岸田貢宜(29歳)は、「この世の地獄。うめき、苦しみ、助けを求める人達」を8月7日から爆心地から約500mの自宅兼写真館の跡付近から、日本軍の広島師団司令部の報道班員として写真を撮った。被爆後の市中心街を最も早く収めた原爆写真とされる。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が炸裂して約4時間後に、出張先の広島県高田郡吉田町から太田川の大芝土手に戻った。市内中心部から、膨大な被災者が市内中心部から列をなして避難した。頭髪はボウボウで火傷の顔は腫れ上がり、水疱がつぶれて皮膚が垂れ下がった。

 大林組広島支店は、倒壊は免れたが、爆風で屋根が押し下げられ、アーチ窓も吹き飛ばされて、内部は全焼した。建物内の犠牲者は3人が即死して、約1ケ月後に死亡した。被爆後に修復して、引き続き大林組広島支店と稼働した。1951年から山口銀行広島支店となり、1975年から本通り支店となった。2002年に建物は解体された。原子爆弾の爆風の痕跡を留める換気窓のみが、平和記念資料館に保存された。

 広島市平田屋町の煉瓦建て3階建ての安田銀行は、8月6日の原子爆弾の炸裂で、倒壊寸前となった。一部鉄筋コンクリートで原型を留めた。営業室にいた3人の死体が検死されて、広島支店全体でぬお人が死亡した。広島市中区大手町のみずほ銀行に、日本興業銀行・安田銀行原爆殉職者鎮魂碑が設置されている。