2018年1月28日日曜日

広島原子爆弾による火傷や原爆症を伴った母と娘を父親がリヤカーに乗せて移動した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂による火傷や原爆症を伴った母と娘を父親がリヤカーに乗せて移動した。1945年8月12日に爆心地から南に約4.2kmある宇品の陸軍船部の臨時救護所にて手当を受けて戻った。街路には、多数の被爆者らが重度の火傷から原爆症を伴って、衣服は爆風と爆熱で引ちぎられていた。



2018年1月27日土曜日

イラク紛争では劣化ウラン弾から残留放射能による多数の無脳症の新生児が出産された。

イラク紛争により首都のバグダッドのアルウイア病院では、劣化ウラン爆弾からの残留放射能による多数個の無脳症の新生児が出産された。出産には最悪の障害を伴う無脳児となり、近日中に死亡に至った。アメリカ軍は、原子力発電所の廃棄物でもある劣化ウラン弾をイラク紛争で使用した。イラク紛争後も、放射能による遺伝子の影響で、先天性障害だけでなく白血病など悪性腫瘍も増加した。アメリカ軍は1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦から、ボスニア・コソボ紛争からアフガニスタン紛争に、さらに2015年にはイスラム国にも劣化ウラン弾が使用された。しかし、アメリカ政府から世界保健機関(WHO)までもが、劣化ウラン弾の後遺症を否定している。

2018年1月21日日曜日

長崎原子爆弾の被爆者は医師と看護婦は十分な治療もできず、観察の回診の側で、母親が心配そうに家族を見守った。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、新興善国民学校に特設された救護病院に護送された。爆心地から南約3kmの新興善国民学校で、窓は吹っ飛び、焼け残った散乱した教室を活用した。長崎市内では、最も多数の被爆者が収容された。病棟となった教室にて、横たわっている被爆者には、その人数に対応するには医薬品や人材などが欠乏していた。医師と看護婦は十分な治療もできずに、回診で観察するしかなかった。その回診の側で、母親が心配そうに家族を見守った。

 

2018年1月20日土曜日

広島原子爆弾の熱線に直射された重症の火傷の幼児が比治山小学校に収容された。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、幼児が被爆して、爆心地から東約1.8kmにあった比治山小学校に収容された。熱線の直射されて、特に胸部ならびに顔面、右下肢から右上肢に及ぶ重度の火傷となった。かなり衰弱して泣きながら苦悶していた。その後に比治山には、アメリカ合衆国が被爆実態の研究のため1946年に原爆障害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)が設立された。



2018年1月14日日曜日

7歳の男子は長崎市内から約20kmの大村海軍病院に護送され収容して間もなく死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂後に、7歳の男子は長崎市内から北東20kmの大村海軍病院に護送された。収容してから間もなく死亡した。その経過の記録の詳細は不明ままで死亡した。むしろの上で目をうつろに開けたままで死後硬直を起こした。左胸部から上肢にかけて熱傷も合併した。



2018年1月7日日曜日

第一国民学校に殺到した被爆者は、隙間もなくむしろに横たわり、家族は側で見守った。(広島)

広島原子爆弾が炸裂して爆心地から東南約2.6kmの広島市立第一国民学校は、残存した東校舎と講堂が臨時救護所となった。その生徒は、約150名中の約50名が被爆死して、広島市街地から東側に避難した被爆者が殺到した。1945年8月8日頃には、ゆかや壁などにむしろを引いて、隙間もなく被爆者を収容した。家族は身内の被爆者の側で心配しながら見守るしかなかった。


2018年1月6日土曜日

フランシスコ法王は、長崎原子爆弾で火葬場に立つ少年写真と「これが戦争の結末だ」と核廃絶を訴えるカードの配布を指示した。(長崎)

長崎原子爆弾の炸裂によって、犠牲となった死体は、焼き場で次々に火葬された。その焼き場の前で、2歳くらいの男児を背負った10歳くらいの少年が直立不動した。感情を伏せたままで、真夜中な死んで火葬される弟を見送った。米軍従軍カメラマンのジョー・オダネルは、戦争の影響が及んでいる幼い児童を初めて撮影した。
 2018年1月1日にローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は、長崎原子爆弾が投下直後の少年写真とともに「これが戦争の結末だ」と核廃絶を訴えるカードを配布するよう指示した。