2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。































2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。








2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。





2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

広島原子爆弾の爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。