2018年5月29日火曜日

広島原子爆弾が炸裂して孤児になった男子は、火傷した子供を背負って、全滅して1月後の広島市内の荒野に呆然と起立した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、多大な犠牲者が被爆した。膨大な死者数のために、両親が共々が被爆死して、約6,500名以上もの被爆孤児のみが生存して残された。炸裂してから1ケ月後に男子は、火傷した子供を背負って、全滅した広島市内の荒野に呆然と立たずでいた。子供の頭部には、多数の火傷の瘢痕が残っていた。男子は軍帽をかぶり、小袋を抱えて草履で起立して、子供と一緒に悲しそうにカメラを覗いた。アメリカ軍の周りを取り囲んでは、おねだりして飢えをしのいでいた。アメリカ軍の海兵隊の従軍カメラマンであったジョ オドーネル(Joe O'Donnel)が、1945年9月2日に佐世保に着港してから、佐世保・福岡・広島・長崎を巡視して、空襲と被爆状況を撮影した。



2018年5月26日土曜日

17歳の男子工員が、長崎原子爆弾で上半身に2度の熱傷を被爆して2日後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、17歳の男子行員が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、8月10日に六病舎に収容された。重度に被爆して、熱線により顔面から頚部、左前胸部、左上肢にかけて第2度の熱傷を受傷した。火傷は深さによりI度熱傷からIII度熱傷に分類され、深達性II度の熱傷は、治癒期間は長く瘢痕や瘢痕拘縮を残す。収容された当初から全身状態が悪化して寝たきり状態となる。翌日の8月11日午後6時には急激に重態となり死亡に至った。



2018年5月20日日曜日

広島原子爆弾の閃光を両手で両眼を防ぎ、両手の手背部以外の顔面は重度の熱傷を受けた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、日本軍将校であったO大尉は、一瞬の閃光を見上げた。その瞬間に両手で両眼をふさいだ。両眼をふさいだ両手の手背部は、閃光からの直射で重度の熱傷を受けた。次日の8月7日に、広島江波分院に護送された。両眼の周囲から顔面は軽度の火傷で収まったが、両手で防げなかったその他の顔面周囲は重度の火傷を受傷した。江波分院は、広島第1陸軍病院江波分院として、東練兵場の江波兵器学校を救護所として8月6日に設置されて、約10,500名を収容した。救護所は8月7日時点では約11ケ所のみと広島県は記録した。周辺地域からの緊急救援は、三原市医師会(広島市から72km)は「8月6日午前9時、三原警察署より広島市戦災につき救援すべき通報に接し、既に組織してある救護班員を非常招集して、午前11時トラック2 台にて出発」と記録された。



2018年5月4日金曜日

長崎原子爆弾に被爆した14歳の女子学徒が19日目に大村海軍病院で原爆症で死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、14歳の女子学徒が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、六病舎に入院した。顔面から頚部、左前腕、左膝蓋部に重度の熱傷を被爆した。応急的に消毒液を湿したガーゼを火傷に貼付けた。全身状態が重篤となり、8月12日から毎日リンゲルを600ccを輸液した。入院して19日目の8月28日から脈拍が微弱で不整となり、胸部痛で苦悶した。体温が38.2から39.4度を上下して、午後1時30分危篤に陥り、午後2時30分に死亡した。皮膚には大小のうっ血斑をがあり、死斑は身体の下垂部にも広がった。毛髪は脱毛しかけ、無数に脱落していた。その後に詳細な病理解剖をされた。



2018年5月14日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 20,000回