2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

 1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。


 


2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

 広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。

 広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。

 被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。

 広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年11月27日土曜日

広島原子爆弾で、建物内は燃え尽き、窓は吹き飛び、枠は曲がった袋町国民学校のコンクリート造りの西校舎は被爆者の救護所となった。

広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。

 爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。

 可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。

 2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。






























2021年11月29日 Japan No Atomic Bomb (JNAB)
日本原爆禁止の会 視聴回数 350,000回, 417投稿

2021年11月20日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に爆心地周辺で救護活動をした元日本軍兵士が5年後に、残留放射線の被爆により白血病が発症して死亡した。

広島原子爆弾が炸裂時には、元日本軍青年兵士は広島市内では被爆していなかった。広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、爆心地周辺で救護活動をしていた元日本軍兵士である。その5年後に、白血病が発症して死亡した。残留放射線に強く被爆して、白血病が発症したと推定された。白血病による結節が、全身に発生していた。被爆がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後に、月日が経過してから発病して、死亡した事例である。白血病により、皮下脂肪に炎症が起こり、皮膚に小さな卵くらいまでの大きさのやや膨らんだ赤色や紫色の斑点である結節が多数発生する。結節部には圧痛があり、発熱や倦怠感、関節痛など全身症状を伴う。皮疹は融合して大きな紅斑を形成して、赤紫色を呈するようになる。

 原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、約5%が初期放射線となり、約10%が残留放射線となった。放出される残留放射線は、爆発後24時間で約80パーセントが放出された。放射線は、人体の奥深くまで侵入して、細胞や組織を破壊して、血液を変質させ、骨髄などの造血機能が低下して、肺や肝臓等の内臓を侵すなど深刻な障害を引き起こした。爆発後に、長期間にわたって残留放射線を地上に残した。救護活動などのため市内が被爆した後に参入して、直接被爆していない人にも原爆症を発病した。原爆投下後、爆心地近くには放射性降下物や中性子による誘導放射能など残留放射能が存在し、その後に放射線を被爆した。広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86: Dosimetry System 1986)として、原爆線量再評価検討委員会が1986年3月に新しい線量評価システムを公表した。長崎原子爆弾は、プロトニウム型であり、Trinity実験と同一であり、推定精度は高かった。しかし、広島原子爆弾は、ウラニウム型であり実測値が乏しく精度が低下して大幅な誤差が出た。

 残留放射線には、核分裂によって生じた放射性物質から放出される放射線と、核分裂していないウランから放出される放射線がある。最初の放射線に核反応して発生した放射性物質が発する放射線も含まれる。核爆発による残留放射線は、そのほとんどが放射性降下物による。放射性物質は、兵器の破片、核分裂生成物、地上での爆発の放射壌から発生する。核分裂反応で発生する核分裂生成物は約300種類以上あり、多くは放射性物質で、半減期が大きく異なる。半減期が数分の1秒と非常に短いものから、数ヶ月から数年にわたり危険な物質もある。放射性物質の主な崩壊様式は、ベータ粒子とガンマ線の放出である。残留放射線は、土壌や建築物の資材が中性子線を浴びることによって放射線を放出するようになる誘導放射線と、地表から巻き上げられた放射性物質を含んだチリやススの一部が雨などと共に地上に降下する放射性降下物がある。残留放射線は外部被爆に加え、食物や空気などと一緒に取り入れる内部被爆により、人体に影響を及ぼす可能性がある。




2021年11月13日土曜日

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、仁科芳雄が作った理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。さらに大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄した。太平洋戦争中の日本では、ウランがなく、資源も乏しく原子爆弾の開発は不可能であった。1943年3日に海軍委員会は、アメリカが原子爆弾を製造できる可能性は低いと報告した。1943年5月から、陸軍が主催するNI計画が開始された。ウラン鉱石からウラン235の分離、ガス拡散法、加熱実験、フッ化エチレン結晶、サイクロトロンに中性子の放射、1945年4月13日にアメリカ軍の爆撃機が東京を空襲して、理科研の49号棟が突然炎上して破壊され、日本の原爆開発は終わりを告げた。

 広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分頃のことであった。物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で8月9日に仁科芳雄が調査のために広島に入った。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した。写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、8月10日に新型爆弾は原子爆弾であったと大本営に報告された。日本政府は8月14日に国民に知らせた。010年8月9日のことである。「広島に原爆」と埼玉県川越市の同盟通信が、新型版弾の正体を説明する放送を傍受して、通信社分室が政府に報告していた。

  全ての物質が原子からできるも、量子力学が原子が安定しているのかを解いた。ラザフォードは1911年にキュリー夫人が発見したポロニウムの放射性同位体(RI:Radio Isotope)が発するアルファ線を金ぱくにあてて金原子の原子核の存在を実証した。しかし、原子核をより詳しく観察したり、十分な量のRIを製造するには、天然のRIから得られる放射線の強度では弱すぎた。ラザフォードは標的の原子核を破壊できるエネルギーまで人工的に原子核を加速する装置ー加速器の実現を強く訴えた。1930年代初頭に、加速器となったサイクロトロン、静電圧加速器、リニアックまたは線形加速器が新設された。特にサイクロトロン(円形加速度)は大強度の陽子や重陽子ビームを発生でき、はじめて強い放射能をもつ人工RIが製造できた。湯川秀樹が、1934年に電子よりはるかに重く、核の強い力を伝える中間子を予言した。日本では1937年に、仁科芳雄が世界で第2番目のサイクロトロンを理化学研究所に建造した。理化学研究所は、第1号サイクロトロン以来、第2号は太平洋戦争中の1943年に建造さそれた。1945年8月15日に終戦して、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が締結されて1952年4月28日に発効された。その後に日本が正式に独立した後の1952年に第3号から、理研は合計で6台のサイクロトロンを建造した。




2021年11月6日土曜日

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内に、死亡した被爆者を火葬して、引き取り手のない無縁の遺骨を安置所に集積した。

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内にて多数の被爆者が原爆病で死亡した。被爆者を火葬して、その遺骨を安置所に集積した。遺骨を引き取る身内もなくて、残された遺骨が保管された。新興善国民学校に仮設された病院内には、火葬された犠牲者の遺灰骨が入った多数の骨箱が並べて一時的に保管された。学校の教室が病室として活用された。

 新興善国民学校には、仮設された救護所に、移送して運び込まれて収容された被爆者が充分な治療も受けられず次々と死亡した。救護所内には、被爆者で密集してうめき声と蒸し暑さ、悪臭がて漂った。焼けただれて、衰弱した被爆者の体を蝿が飛び回り、うじ虫がはい回り体を食いちぎった。医薬品も不足し、手当てらしい手当ても望めなかった。死体は救護所内の安置所から運び出されて、空き地で昼夜なく火葬されて、遺骨は一時的に安置所に保管された。火葬されて遺族と再会できないまま、安置されている遺骨は数多い。各地で埋葬された身元不明の遺骨が、たびたび発掘されてきた。1947年に爆心地付近に原子爆弾駒場町殉難者納骨堂を町内会が設置して、1951年5月に慰霊施設を増設した。1958年3月に平和公園の平和祈念像の西側に長崎市原爆死没者慰霊納骨堂が建立されて、各地の遺骨を長崎市が引き取って地下に安置された。

 長崎市の平和公園にある長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂には、長崎原爆で無縁仏となった遺骨約8,964柱が安置された、そのうち氏名判明した遺骨は約122柱で。その他はほとんどは誰の骨かも分からない。長崎市では、氏名が判明していながらも、引き取り手のない無縁遺骨を引き渡すために遺族調査を行っている。遺族と無縁のままに、安置される遺骨は数多い。各地で火葬して埋葬された身元不明の遺骨が発掘と収集されている。















新興善特設救護病院内の遺骨安置所












長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂

2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。































2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。








2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。





2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

広島原子爆弾の爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。