2022年2月12日土曜日

1945年9月20日頃から長崎で原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付き救護活動をした。

 長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。

 永井隆(Takashi nagai,島根県出身,1908年2月3日~1951年5月1日)は、長崎原子爆弾で被爆した放射線科医師であり、浦上の聖人と呼称された作家である。戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足でも透視を続け、1945年6月にX線被曝による白血病と診断されて余命3年の宣告を受けた。日中戦争で1937年7月から広島歩兵連隊の軍医として中国に出征して、日本に帰国した1940年2月頃に発病と推定された。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下された。原爆投下時に、長崎医科大学病院の放射線科に勤務して、右側頭動脈を切断する重傷を負った。他の医療スタッフと共に原爆被害者の治療に専念した。8月11日に永井は妻が死亡して破壊された自宅を発見した。9月20日頃に原爆病が発現して、傷が壊死して始め高熱が続き昏睡状態に陥って、一時的に危篤となった。1945年10月15日に爆心地近隣の浦上に戻り、6畳ほどの小屋を建て、家族と一緒に留まった。1947年に聖ビンセント・ド・ポール協会(SSVDP)が、2畳の茶室の建物を建て、永井は「如古堂(Nyokodo)」と名づけ晩年は祈りと思索にふけった。

 永井は教育活動も再開し、本の執筆も始めた。最初の作品「長崎の鐘」は、原爆投下1周年の1946年8月までに完成した。『長崎の鐘(The Bells of Nagasaki)』は、GHQ側の検閲から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本の条件で、1949年1月日比谷出版社から出版された。

 1946年7月に長崎駅のホームで倒れて、体が不自由になり、以後寝たきりになった。1951年5月1日午後9時40分頃、永井は意識を失った。心肺蘇生剤した後、午後9時50分に43歳で病死した。翌日、遺言により病院で検死が行われた。脾臓は3,410g(正常値は94g)、肝臓は5,035g(正常値は1,400g)に膨れ上がった。





2022年2月5日土曜日

ABCCは、広島原子爆弾のケロイドの瘢痕がある女子と男子と認識番号を撮影した。顔面にケロイドが膨隆した若い女性は、髪を結い上げられて写真を撮影された。

ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけて膨隆した若い女性の髪を結い上げて、羞恥心を伴う異様で醜いケロイドを露出させて写真を撮影した。ケロイドのある男子生徒を校庭ばせて写真を撮影した。ABCCの写真は、ニール中尉から日本側の都築正男調査団長にも提示された。アメリカ軍側は、原子爆弾に関する大量の調査記録を集積した。被爆者の火傷は皮膚が再生して瘢痕組織を形成して、さらに過剰に再生して肥大して腫瘤が突出した。引きつれて、かゆみや関節の拘縮をともなった。

 ABCCは、ケロイド状の傷を持つ少年少女の写真を多数に撮影した。すべての学校を訪問して、生徒や教師、職員は全員の調査やデータ収集をした。被爆者は、アメリカ人に助けてもらえると勘違いした。アメリカ人は日本の子供や大人の苦悩にはあまり興味がなく、研究対象として扱った。ABCC研究所では若い被爆者の性器も検査した。ABCCは被爆者の7,500体の死体を病理解剖して、その臓器をアメリカ本国に送付した。

 ABCCは、原爆投下後の広島と長崎の日本人の民間人を救済する思いやりのある救援活動として、日本とアメリカの一般市民には宣伝されていた。生存した被爆者やアメリカ連合軍の医療関係者らが残した記録や伝記、文書、インタビューなどを通して、ABCCは思いやりのある救援活動ではなかった。ABCCの第一の目的は、原子爆弾の人体への影響に関する研究を進めるための被爆者のデータを収集することであった。

 アメリカ軍はマンハッタン計画副責任者のファーレル准将を団長として、医学顧問のオーターソン大佐ら12人が、終戦直後の1945年9月9日に広島原子爆弾の調査に入った。都築正男の日本調査団が10月12日から現地で合流して、原子爆弾の影響調査のための合同委員会が構成された。アメリカ側の合同調査団は、調査結果から診療記録、病理標本、写真などを収集した資料は、1946年1月までに船でアメリカに移送された。日本側の資料の解析はアメリカ軍のみが実施して、内密に膨大な報告書が作成された。これらの接収資料は、ワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所で保管された。1973年になって、日本政府を通じて広島大学と長崎大学に返還された。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

 中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。





2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日にその後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。




2022年1月15日土曜日

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年の健二が、二次放射能による残酷な急性髄質白血病により12歳で死亡した。

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。

 健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。

 原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。

 神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken) 





























2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

 1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。


 


2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

 広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。

 広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。

 被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。

 広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年11月27日土曜日

広島原子爆弾で、建物内は燃え尽き、窓は吹き飛び、枠は曲がった袋町国民学校のコンクリート造りの西校舎は被爆者の救護所となった。

広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。

 爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。

 可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。

 2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。






























2021年11月29日 Japan No Atomic Bomb (JNAB)
日本原爆禁止の会 視聴回数 350,000回, 417投稿

2021年11月20日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に爆心地周辺で救護活動をした元日本軍兵士が5年後に、残留放射線の被爆により白血病が発症して死亡した。

広島原子爆弾が炸裂時には、元日本軍青年兵士は広島市内では被爆していなかった。広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、爆心地周辺で救護活動をしていた元日本軍兵士である。その5年後に、白血病が発症して死亡した。残留放射線に強く被爆して、白血病が発症したと推定された。白血病による結節が、全身に発生していた。被爆がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後に、月日が経過してから発病して、死亡した事例である。白血病により、皮下脂肪に炎症が起こり、皮膚に小さな卵くらいまでの大きさのやや膨らんだ赤色や紫色の斑点である結節が多数発生する。結節部には圧痛があり、発熱や倦怠感、関節痛など全身症状を伴う。皮疹は融合して大きな紅斑を形成して、赤紫色を呈するようになる。

 原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、約5%が初期放射線となり、約10%が残留放射線となった。放出される残留放射線は、爆発後24時間で約80パーセントが放出された。放射線は、人体の奥深くまで侵入して、細胞や組織を破壊して、血液を変質させ、骨髄などの造血機能が低下して、肺や肝臓等の内臓を侵すなど深刻な障害を引き起こした。爆発後に、長期間にわたって残留放射線を地上に残した。救護活動などのため市内が被爆した後に参入して、直接被爆していない人にも原爆症を発病した。原爆投下後、爆心地近くには放射性降下物や中性子による誘導放射能など残留放射能が存在し、その後に放射線を被爆した。広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86: Dosimetry System 1986)として、原爆線量再評価検討委員会が1986年3月に新しい線量評価システムを公表した。長崎原子爆弾は、プロトニウム型であり、Trinity実験と同一であり、推定精度は高かった。しかし、広島原子爆弾は、ウラニウム型であり実測値が乏しく精度が低下して大幅な誤差が出た。

 残留放射線には、核分裂によって生じた放射性物質から放出される放射線と、核分裂していないウランから放出される放射線がある。最初の放射線に核反応して発生した放射性物質が発する放射線も含まれる。核爆発による残留放射線は、そのほとんどが放射性降下物による。放射性物質は、兵器の破片、核分裂生成物、地上での爆発の放射壌から発生する。核分裂反応で発生する核分裂生成物は約300種類以上あり、多くは放射性物質で、半減期が大きく異なる。半減期が数分の1秒と非常に短いものから、数ヶ月から数年にわたり危険な物質もある。放射性物質の主な崩壊様式は、ベータ粒子とガンマ線の放出である。残留放射線は、土壌や建築物の資材が中性子線を浴びることによって放射線を放出するようになる誘導放射線と、地表から巻き上げられた放射性物質を含んだチリやススの一部が雨などと共に地上に降下する放射性降下物がある。残留放射線は外部被爆に加え、食物や空気などと一緒に取り入れる内部被爆により、人体に影響を及ぼす可能性がある。




2021年11月13日土曜日

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、仁科芳雄が作った理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。さらに大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄した。太平洋戦争中の日本では、ウランがなく、資源も乏しく原子爆弾の開発は不可能であった。1943年3日に海軍委員会は、アメリカが原子爆弾を製造できる可能性は低いと報告した。1943年5月から、陸軍が主催するNI計画が開始された。ウラン鉱石からウラン235の分離、ガス拡散法、加熱実験、フッ化エチレン結晶、サイクロトロンに中性子の放射、1945年4月13日にアメリカ軍の爆撃機が東京を空襲して、理科研の49号棟が突然炎上して破壊され、日本の原爆開発は終わりを告げた。

 広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分頃のことであった。物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で8月9日に仁科芳雄が調査のために広島に入った。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した。写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、8月10日に新型爆弾は原子爆弾であったと大本営に報告された。日本政府は8月14日に国民に知らせた。010年8月9日のことである。「広島に原爆」と埼玉県川越市の同盟通信が、新型版弾の正体を説明する放送を傍受して、通信社分室が政府に報告していた。

  全ての物質が原子からできるも、量子力学が原子が安定しているのかを解いた。ラザフォードは1911年にキュリー夫人が発見したポロニウムの放射性同位体(RI:Radio Isotope)が発するアルファ線を金ぱくにあてて金原子の原子核の存在を実証した。しかし、原子核をより詳しく観察したり、十分な量のRIを製造するには、天然のRIから得られる放射線の強度では弱すぎた。ラザフォードは標的の原子核を破壊できるエネルギーまで人工的に原子核を加速する装置ー加速器の実現を強く訴えた。1930年代初頭に、加速器となったサイクロトロン、静電圧加速器、リニアックまたは線形加速器が新設された。特にサイクロトロン(円形加速度)は大強度の陽子や重陽子ビームを発生でき、はじめて強い放射能をもつ人工RIが製造できた。湯川秀樹が、1934年に電子よりはるかに重く、核の強い力を伝える中間子を予言した。日本では1937年に、仁科芳雄が世界で第2番目のサイクロトロンを理化学研究所に建造した。理化学研究所は、第1号サイクロトロン以来、第2号は太平洋戦争中の1943年に建造さそれた。1945年8月15日に終戦して、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が締結されて1952年4月28日に発効された。その後に日本が正式に独立した後の1952年に第3号から、理研は合計で6台のサイクロトロンを建造した。




2021年11月6日土曜日

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内に、死亡した被爆者を火葬して、引き取り手のない無縁の遺骨を安置所に集積した。

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内にて多数の被爆者が原爆病で死亡した。被爆者を火葬して、その遺骨を安置所に集積した。遺骨を引き取る身内もなくて、残された遺骨が保管された。新興善国民学校に仮設された病院内には、火葬された犠牲者の遺灰骨が入った多数の骨箱が並べて一時的に保管された。学校の教室が病室として活用された。

 新興善国民学校には、仮設された救護所に、移送して運び込まれて収容された被爆者が充分な治療も受けられず次々と死亡した。救護所内には、被爆者で密集してうめき声と蒸し暑さ、悪臭がて漂った。焼けただれて、衰弱した被爆者の体を蝿が飛び回り、うじ虫がはい回り体を食いちぎった。医薬品も不足し、手当てらしい手当ても望めなかった。死体は救護所内の安置所から運び出されて、空き地で昼夜なく火葬されて、遺骨は一時的に安置所に保管された。火葬されて遺族と再会できないまま、安置されている遺骨は数多い。各地で埋葬された身元不明の遺骨が、たびたび発掘されてきた。1947年に爆心地付近に原子爆弾駒場町殉難者納骨堂を町内会が設置して、1951年5月に慰霊施設を増設した。1958年3月に平和公園の平和祈念像の西側に長崎市原爆死没者慰霊納骨堂が建立されて、各地の遺骨を長崎市が引き取って地下に安置された。

 長崎市の平和公園にある長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂には、長崎原爆で無縁仏となった遺骨約8,964柱が安置された、そのうち氏名判明した遺骨は約122柱で。その他はほとんどは誰の骨かも分からない。長崎市では、氏名が判明していながらも、引き取り手のない無縁遺骨を引き渡すために遺族調査を行っている。遺族と無縁のままに、安置される遺骨は数多い。各地で火葬して埋葬された身元不明の遺骨が発掘と収集されている。















新興善特設救護病院内の遺骨安置所












長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂