2022年4月2日土曜日

広島原子爆弾の爆心地の直下となった島病院は、玄関の柱以外全て崩壊して瓦礫の山となり、病院関係者の約80人が即死して、生死消息を尋ねる看板を立て掛けた。

広島原子爆弾の爆心地の直下となった細工町29番地2の島病院は、玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外を除いて全て崩壊した。島病院の建物は瓦礫の山となり、レンガの一部を残して、圧潰されて崩壊した。島薫院長の回想録では、病院関係者の約80人が即死した。敷地は約1,320平方メートルでレンガ造り2階建て、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者の木造の施療7室もあった。 

 原子爆弾の投下日に、世羅郡甲山町への出張手術した島薫院長と看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子は健在であった。8月6日午後7時前に、世羅から復路上で列車が矢賀駅で停止した。その後徒歩で広島市内に向かった。見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がって、焼け跡の熱気で島病院に近づけなかった。翌日の8月7日午後に、瓦礫の山の島病院に到着した。玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、死体の口の中の金歯から婦長の宮本さんだと判明した。瓦礫の底では、死体は原爆が炸裂で直後に一部は骸骨化して、大量の黒焦げの死体と白骨が散乱していた。ほかの人の死体は皆下敷きになって行方不明となった。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島薫さんは、外遊中に買ったアルミの箱の器具ケースにつまづいた。その中に入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐える器具であった。その器具が島病院の唯一の痕跡と回想した。島薫は病院の焼け跡に消息を知らせる伝言板を書き残して、関係者を探して回った。島薫らは、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら、島病院から西約460mの救護所となった袋町国民学校で被爆者の救護活動に従事した。島薫院長は、1945年10月上旬に、入院通院患者・付添者看護婦家人・病院関係者の生死消息を尋ねて記載を求める看板を立て掛けた。 


 爆心地(hypocenter)は、現在の広島市中区大手町1丁目5−25の島内科医院の第3駐車場上空である、東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600mと推定された。広島現爆弾の原爆被害を伝える象徴である原爆ドームは、爆心地から西へおよそ200メートルの地点に存在した。島病院は、原子爆弾が炸裂した直下の地表面となる「グラウンド・ゼロ(Ground zero)」であった。グラウンドゼロを爆発する爆弾、特に原子爆弾のすぐ下にある地面の部分と定義して、最も深刻な被爆を受けた地点を示した。2001年9月11日の同時多発テロ事件では、アルカイダのテロリスト10人がハイジャックした2機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーに飛び込んで、110階建ての高層ビルが倒壊した。崩壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼称された。