2022年6月4日土曜日

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。



2022年5月28日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建て木造消防署が瓦礫となり、数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下敷きになった。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



2022年5月21日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月7日から大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。

 大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。




2022年5月14日土曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。





2022年5月7日土曜日

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に猛烈な爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。

 広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。



2022年4月30日土曜日

広島原子爆弾の炸裂により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の被爆直後から押し寄せる被爆者の診療の補助と療養上の世話など多忙を極めた。広島原子爆弾により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。担架で運ばれた被爆者は入院に、外来には、被爆者が詰め寄せた。被爆者は、原子爆弾の猛烈な爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、悲惨な身体に変貌した。傷口には、チンク油やリバノール液をガーゼで塗布した。ホウ酸水で洗浄した包帯で、創部の傷口を覆った。カーテンを裂いた包帯を巻いた。爆風により、突き刺さったガラスを除去した。

 広島赤十字病院は、被爆直後から救護活動を開始した。各所に救護テントを増設して救護した。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医療関係者や職員らは約51人が死亡して、約250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院であり、め、治療を求めて被爆者が殺到した。鉄筋コンクリート3階建ての病院は、外郭だけが残存して、猛烈な爆風によって窓ガラスは吹き飛び、室内も無惨に破壊され、悲惨な被爆した建物となった。木造であった看護婦生徒寄宿舎はほぼ全壊して、火災により類焼した。看護婦には、原爆症と過労のために血便も続出して、貧血に陥った。看護婦は、身を横たえた末期の被爆者を、できるだけ楽に死に行くように見守った。水道水で、身体を清拭して、末期の水を求める被爆者には致し方なく禁忌の水を含ませた。排泄介助、感染予防などから死体の処理まで担当した。

 戦時体制に向けて、国家の全ての人的・物的資源を、日本政府が統制管理する1938年に国家総動員法が成立した。1944年8月23日には、太平洋戦争時下の労働力不足を補うために、中学以上の男子生徒と12歳以上の未婚女性を強制労働に動員できる学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が交付された。戦時体制下の看護婦も巻き込まれて、従軍看護婦など兵役勤労にも動員された。 


2022年4月23日土曜日

世界初の原子爆弾が炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。




2022年4月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂後に2〜3ケ月後に、広島駅構内には近隣の町村から広島市内に参集して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々や被爆者も集結した。

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂した。爆心地から約1.9kmの広島駅構内は、原子爆弾による火災で全焼した。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。広島原子爆弾の投下して炸裂後に、広島駅周辺は焼け野原となった。広島市には大規模な守備隊があり、原子爆弾により広島城の練兵場で演習していた約3,243人の日本軍兵士が被爆死して、日本軍兵士は広島鉄道駅で救護された。

 広島駅ホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、東練兵場(現在の光町)の方に走って逃げた。まるで阿修羅のような惨状が繰り広げられた。まさに亡霊のような姿でトボトボと歩いて鉄道寮の方に向かった。途中、東練兵場の中には足の踏み場もないほど多くの被爆者が横たわっていた。火傷をした被爆者や負傷をした被爆者、中には裸同然の人など、地獄さながらの様相であった。「助けてくれ・水をくれ」と叫び通行人にとりすがった。

 近隣の町村から広島市内に急行して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々が集結した。アメリカ軍により1945年10月か11月に広島駅構内の写真は撮影された。広島駅の待合室は倒壊して、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡から、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒約20人を含めて約78人の死体が発見され、駅職員も約11人が死亡した。  

 広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかり、全線が不通になった。入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業をした。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれたが、そのほかの詰所はほとんど焼失した。8月6日12時頃に、広島駅の裏線から避難列車第一号が発車し、夕方5時頃にも山陽本線の上りに避難列車が発車した。鉄道は、原爆投下当日の8月6日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた。復旧作業も早急に進められ、8月7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線、8月8日は幹線の山陽線、8月9日には広島県北部地域をつなぐ芸備線が開通した。そして、8月18日には広島市郊外をつなぐ可部線が全線開通した。壊滅的な被害を被った市内路面電車も8月9日には一部区間(西天満町〜己斐)で片側運転が始められた。



2022年4月9日土曜日

ひとりの広島原子爆弾の被爆者は銀行の地下1階に横たわり、火傷した左前腕と手指で、書類を眺めて、周囲には棒きれの箸と茶碗が置いた。

ござとむしろの上に、布毛布をかけて、ひとりの男性被爆者が横たわっていた。火傷した左前腕と手指で、周囲の書類をつまんで眺めていた。被爆者の周囲には、棒きれの箸と茶碗が置いていた。1945年9月中旬に、アメリカ海軍が広島市内の臨時収容所内部の地下1階で、被爆者を撮影した。広島市内上流川町(現在中区胡町)の日本勧業銀行広島支店の収容所にて、アメリカ海軍が撮影した。但し、日本勧業銀行広島支店の収容所は、宇品の陸軍船舶司令部は8月12日に引き揚げている。第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、重症の被爆者はどこかほかの救護所へ移送された。

 日本勧業銀行広島支店は、1931年4月に鉄筋コンクリート造の新しい本店が竣工して移転した。アメリカ風のRC造3階建て地下1階の建物であった。中国新聞社の東隣りで、1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約940mに位置した上流町の日本勧業銀行広島支店(3代目本店)は外郭は維持されたものの内部が全焼し、勧銀全体で32名の犠牲者を出した。

 広島原子爆弾の被爆当日の8月6日から、日本勧業銀行広島支店は、広島市の受託銀行として援護資金を融資して、戦後も長く勧銀広島支店、1971年から第一勧業銀行広島流川支店として使用された。1972年には八丁堀の広島支店に統合された。店舗は廃止されて、清水組広島支店などに利用された後に、1980年に解体された。



2022年4月2日土曜日

広島原子爆弾の爆心地の直下となった島病院は、玄関の柱以外全て崩壊して瓦礫の山となり、病院関係者の約80人が即死して、生死消息を尋ねる看板を立て掛けた。

広島原子爆弾の爆心地の直下となった細工町29番地2の島病院は、玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外を除いて全て崩壊した。島病院の建物は瓦礫の山となり、レンガの一部を残して、圧潰されて崩壊した。島薫院長の回想録では、病院関係者の約80人が即死した。敷地は約1,320平方メートルでレンガ造り2階建て、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者の木造の施療7室もあった。 

 原子爆弾の投下日に、世羅郡甲山町への出張手術した島薫院長と看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子は健在であった。8月6日午後7時前に、世羅から復路上で列車が矢賀駅で停止した。その後徒歩で広島市内に向かった。見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がって、焼け跡の熱気で島病院に近づけなかった。翌日の8月7日午後に、瓦礫の山の島病院に到着した。玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、死体の口の中の金歯から婦長の宮本さんだと判明した。瓦礫の底では、死体は原爆が炸裂で直後に一部は骸骨化して、大量の黒焦げの死体と白骨が散乱していた。ほかの人の死体は皆下敷きになって行方不明となった。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島薫さんは、外遊中に買ったアルミの箱の器具ケースにつまづいた。その中に入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐える器具であった。その器具が島病院の唯一の痕跡と回想した。島薫は病院の焼け跡に消息を知らせる伝言板を書き残して、関係者を探して回った。島薫らは、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら、島病院から西約460mの救護所となった袋町国民学校で被爆者の救護活動に従事した。島薫院長は、1945年10月上旬に、入院通院患者・付添者看護婦家人・病院関係者の生死消息を尋ねて記載を求める看板を立て掛けた。 


 爆心地(hypocenter)は、現在の広島市中区大手町1丁目5−25の島内科医院の第3駐車場上空である、東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600mと推定された。広島現爆弾の原爆被害を伝える象徴である原爆ドームは、爆心地から西へおよそ200メートルの地点に存在した。島病院は、原子爆弾が炸裂した直下の地表面となる「グラウンド・ゼロ(Ground zero)」であった。グラウンドゼロを爆発する爆弾、特に原子爆弾のすぐ下にある地面の部分と定義して、最も深刻な被爆を受けた地点を示した。2001年9月11日の同時多発テロ事件では、アルカイダのテロリスト10人がハイジャックした2機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーに飛び込んで、110階建ての高層ビルが倒壊した。崩壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼称された。

2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。




2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。  




 


約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 








  






 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。


2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。





 






 両親は離婚して、ディマは母親はチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。





 







 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2022年2月26日土曜日

25人の広島の原爆乙女が身体的顔貌の醜状で、18か月以上もニューヨークのマウントサイナイ病院で約138回も形成外科を受けた。

1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身体は忌まわしいもの、生きられないもの、住めないものとみなされた。原爆投下時に子どもであった被爆者は、孤独な存在である同情と絶望を感じ、「原爆乙女, Hiroshima Maidens」と認識された。アメリカの一般市民は、初めて被爆者と出会い、傷跡を通して、広島の隠された非人道的結果を可視化した。生と死の狭間に存在する彼女たちは、醜態を作り出したアメリカの介入によって、死の仮面を脱ぐことになった。彼女たちは、爆弾痕、原爆痕、ヒロシマ痕、とさまざまに形容された。原爆投下から10年、彼女たちは人生の大半を被爆者として過ごした。原爆乙女たちは、原爆による生理機能の停止を懸念していた。ケロイド状の傷跡を含む顔の醜さは、地元では身体的な汚染の兆候と認識された。ケロイド少女として知られ、限界的なデスマスクを感傷的に扱われた。年齢を重ねるにつれ、原爆乙女たちは、通常の同世代の女性たちから孤立した。

  ABCC(原爆障害調査委員会)は、被爆者の研究はするが診療は全く行なわなかった。サタデー・レビュー・オブ・リタラチャー誌の編集者であったノーマン・カズンズは、1955年5月5日に、谷本清牧師と共に、25人の若い女性被爆者を米国に招き、再建整形手術を受けさせた。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成外科を受けた。渡米中に18か月以上にわたって女性に対して138回の手術が行われ、中林朋子だけは、軽度の再建手術で心停止により死亡した。アメリカが医療と慈善活動の究極の先駆者であるも、その他16人の女性は大阪と東京で手術を選択した。アメリカの美学を、中流階級のクエーカー教徒のホストファミリーは、原爆乙女たちに求めた。髪型を整えられ、高価なツイードのスーツ、エレガントなシャツ、カシミアのセーターなどを贈られた。絵画や看護、秘書などの趣味を持つことも奨励された。原爆乙女たちの治療に用いられた再建外科技術は、形成外科で適応・輸出された。

 原爆乙女のうち2人は、谷本清牧師と家族とともに、アメリカのテレビ番組(This is Your Life)に招待され、スクリーンの後ろに隠れて可視化された。司会者エドワーズは観客に「彼女たちを困らせないために、顔は見せない」と言った。エノラ・ゲイの副操縦士で、ロバート・ルイス中尉は、原爆投下は命令に従って、「8時15分、原爆が投下された。放射線と爆弾の影響から逃れるために、すばやく方向転換した。まず大きな閃光があり、次に2つの衝撃波が爆撃機を襲った。その直後、私たちは何が起こったのか確認するために後ろを振り返った。すると目の前に、広島の街が消えていた。私は後で、"何てことだ、私たちは何をしたのだろう "」と書き留めた。彼は罪悪感とうつ病が重なり、1950年代後半には一時的に施設に収容された。その後に彫刻家として、「広島の神の風」と涙で流れ落ちるきのこ雲の巨大な彫刻を丹念に作り上げた。

 1956年6月12日にニューヨークから中村朋子さんの遺骨とともに出発した。原爆の乙女たちは身体的特徴を取り戻すことができたが、彼らの帰国は、彼らを歓迎する人々と西洋の操り人形と見る人々の間で分裂した。原爆乙女たちが帰国した翌1957年、日本で原爆医療法が制定された。





2022年2月19日土曜日

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者は、広島赤十字病院にてガーゼにリバノールを塗る火傷の処置を受けた。

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者の佐々木忠孝が、1945年10月5日から6日にかけて、爆心地から約1,500mの広島赤十字病院に収容されて火傷の処置を受けた。ガーゼにリバノールを塗るだけの治療だった。火傷の上でガーゼを交換するのは非常に激痛であった。広島赤十字病院は、外観だけが残り、窓は吹き飛ばされ、内部は破壊された。原爆投下の日から、病院には被爆者が殺到した。

 被爆者の佐々木忠孝は、広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属していた。8月6日に爆心地から北東約1kmの広島城の近くで被爆して、意識を失って、気がついたときには、広島城の外堀まで吹き飛ばされていた。大火傷を負いながらも、なんとか河川敷に逃げ込んで助かった。8月7日に、トラックで救護所となっていた福屋百貨店に運ばれた。その後に、担架で広島赤十字病院に移送されて入院した。その頃は毎日4から50人が死亡していた。奇跡の生存者がいると紹介されて、映画に撮られた。映画のライトの熱でやけどがピリピリして、その時はこれ以上痛いめに遭わせてくれると偲んだ。原子爆弾の火傷は、驚くほど早くケロイドの瘢痕が増殖した。

 旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班は、10月1日から医学撮影チームの映画撮影が始まった。戦時災害補償法による医療の打ち切りで、すべての救護所が閉鎖されることになった。しかし、病院や救護所では医療支援が行われており、多くの被爆者が原子爆弾による原爆症を患っていた。撮影スタッフは、過酷な状況に置かれている被爆者の様子に心を痛めながらも、抵抗を乗り越えて多くの映像を撮影した。医療班のフィルムは他のフィルムとは異なり、主に負傷した被爆者に焦点を当てている。日本映画者が製作したフィルムは、GHQに接収されてから1967年になって文部省に返還された。