2020年8月29日土曜日

住友銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、その場で死亡した人影の石と推定された。

人影の石 (Human Shadow Etched in stone)

住友銀行広島支店の入口階段を切り出して、1971年に広島平和記念資料館に移設した。銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、逃げることもできないまま、その場で死亡したと推定された。広島平和記念資料館に移設されるまでに1959年に柵を設け、1967年に強化ガラスで薄くなる影を覆っていた。風化等で人影の石は薄くなっている。原子爆弾の記憶が風化して薄れないように、人影の石の保持を継続している。

 原子爆弾の強烈な熱線により階段は白っぽく変色し、腰掛けていた部分が影のように黒くなって残存した。この人影が自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられている。 石段の人影だけでなく、壁、路面に焼き付く欄干の影、ガスタンクに残るハンドルの影などにも現れた。1人の婦人が銀行の開店を待って、右下肢を伸ばして、左下肢は立膝をして、石段にうずくまって腰掛けていたと推定される。たとえ炸裂直後に約4,000度に達しても、人体は気化することなく、骨と炭化した器官は残る。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した爆心地から約260mに階段は存在していた。原子爆弾の約4000度もの熱線が、その周りの花崗岩の石段の表面を白く焼いて人の影の部分が残った。「死の人影」とも呼称された。石段に座った被爆者は、その場で即死した。 住友銀行は、ビルの外観だけを残して内部は崩壊した。8月6日には従業員は約29人が被爆死して、負傷者は約40人であった。

   These stone steps were at the entrance to the Hiroshima Branch of the Sumitomo Bank. Exposed to the atomic explosion at close range , the person sitting on the steps waiting for the bank tp open is thought to have died on the spot with no possibility of escape. The intense heat of the A-Bomb turned the steps whitish; the stone under the sitting person remained dark, like a shadow. Several families have suggested that the person killed on the steps may have been one of their own.


広島平和記念資料館で強化ガラスで覆われた人影の石

 

アメリカ戦略爆撃調査(USSBS)が1945年11月20日に撮影した。


2020年8月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して8月下旬頃に、城山町の荒野に「故人の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市に投下されて炸裂した。爆心地からわずか約500mの城山町は、全域が壊滅して原爆死した。8月下旬頃に、城山町の荒野に「倉橋満嘉子の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。おそらく原爆死を免れたと思われる夫か父親のどちらかの身内が、妻や娘の遺体を火葬した後に、そこに目印として置いていた。その銘板の地下には、火葬した遺骨の一部は埋葬されたと思われる。その他の不詳不明の多数の多量の遺骨は、そのままに城山町の荒野にそのまま放置された。

 長崎市城山町は爆心地からわずか500mの近距離で甚大な被害を受けた。秒速約250m以上もの猛烈な爆風と熱線を受けて、一体は崩壊して炎上した。城山小学校の近くの住宅は全滅で道路だけが残存した。まっ黒に焼かれた死体が散乱した。付近の浦上川は、長崎原爆の被爆者が水を求めて集まり、折り重なり死体で一杯であった。骨だけの上に皮膚がぶら下がった死体、真っ黒い顔の死体、一面焼け野原の中に無数の真っ黒な死体が転がり、異臭が漂っていた。城山町は全焼して、生存者でも生きながらに炎に包まれ焼け死んだ。泥水に水を求めて、無数の死体で埋まった。つかむように手を上げて、目をむき出して、すごい形相していた。被爆者は家族との再会を願いあちこち探しまわった。 

 城山町の周辺では、家屋や工場が一瞬にして破壊され、人間や動物が殺害された後に、数え切れないほどの火災が発生し、翌日8月10日の午前1時まで燃え続けた。空襲警報の解除後に原子爆弾が炸裂したため、避難所に避難したのはごく少数であり、結果として比較的大きな被害が出た。夏季であり、灼熱のためにうじ虫とひどい死臭のために、死体はすぐに火葬する必要があった。1945年9月中旬に長崎市を訪れたアメリカ海軍将校は、原子爆弾の炸裂から約1か月以上経過した後も、「死と腐敗の匂いが地域に広がっていた」と報告した。 

 

 

2020年8月16日日曜日

広島原子爆弾により、女性が顔面から頸、胸部に熱傷を被爆して、発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。

広島原子爆弾の炸裂によって、広島市民の女性が顔面から頸、胸部にかけて熱傷を被爆した。熱傷部位から発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。 女性ホルモンであるエストロゲンは瘢痕化を促進すると推定された。結果として、閉経前の女性は、閉経後の女性と男性の両方よりも瘢痕が悪化することがよくある。特に、顔面など真皮が厚い皮膚部位は、真皮が薄い部位に比べて、瘢痕が大きくなる傾向があった。

  被爆者の火傷や傷が治癒したように見えた後に、傷跡は厚くなり、ケロイドとして知られる瘢痕をもたらした。ケロイドは、爆心地から約2km(約1マイル)以内で熱線に曝された生存した被爆者の約50〜60%に発生した。ケロイドは、損傷後に形成される瘢痕組織の線維性過成長である。ケロイドの語は、鳥の鉤爪を示唆するギリシア語に由来した。深刻な程度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕形成の比較的高い発生率は、被爆者が2度または3度の重症度である閃光火傷の治癒後に発生した。ケロイドは放射線の被爆で悪化して、しばしば触覚に非常に敏感で、痛み、灼熱感、かゆみを引き起した。

 ケロイドに関連する放射線は、爆弾から1分以内に原子爆弾によって放出された初期放射線と、初期放射線の後に放出された残留放射線の2種類に影響を受けた。身体の未熱傷部分から採取された皮膚移植しても、ケロイドを発達させた。ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に、顔にケロイドを持っている被爆者は、避難所を退所しても、家を離れることを拒否することが多く、背中や肩にケロイドを持っている被爆者は、肌を見えることをためらっていた。広島の多くの被爆者は、原爆攻撃後の夏期でも長袖のシャツを着ていた。他の日本人は「原爆病」を恐れて、その傷跡のために明らかである被爆者の障害者を軽蔑した。 被爆から年月が経つにつれ、精神的および肉体的な深刻な傷跡と逆境に悩まされたる女性と子どもは、一般の健常な市民の軽率な視線に直面して苦悩したいた。

 

 

2020年8月9日日曜日

長崎平和祈念式典 長崎平和宣言 2020年8月9日

長 崎 平 和 宣 言
 私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど75年。4分の3世紀がたった今も、私たちは「核兵器のある世界」に暮らしています。
 どうして私たち人間は、核兵器を未だになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか。
 75年前の8月9日、原爆によって妻子を亡くし、その悲しみと平和への思いを音楽を通じて伝え続けた作曲家・木野普見雄さんは、手記にこう綴っています。
 私の胸深く刻みつけられたあの日の原子雲の赤黒い拡がりの下に繰り展げられた惨劇、ベロベロに焼けただれた火達磨の形相や、炭素のように黒焦げとなり、丸太のようにゴロゴロと瓦礫の中に転がっていた数知れぬ屍体、髪はじりじりに焼け、うつろな瞳でさまよう女、そうした様々な幻影 は、毎年めぐりくる八月九日ともなれば生々しく脳裡に蘇ってくる。
 被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました。しかし、核兵器の本当の恐ろしさはまだ十分に世界に伝わってはいません。新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気づかなかったように、もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまいます。
 今年は、核不拡散条約(NPT)の発効から50年の節目にあたります。この条約は、「核保有国をこれ以上増やさないこと」「核軍縮に誠実に努力すること」を約束した、人類にとってとても大切な取り決めです。しかしここ数年、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄してしまうなど、核保有国の間に核軍縮のための約束を反故にする動きが強まっています。それだけでなく、新しい高性能の核兵器や、使いやすい小型核兵器の開発と配備も進められています。その結果、核兵器が使用される脅威が現実のものとなっているのです。
 “残り100秒”。地球滅亡までの時間を示す「終末時計」が今年、これまでで最短の時間を指していることが、こうした危機を象徴しています。3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は「核兵器をなくすべきだ」という人類の意思を明確にした条約です。核保有国や核の傘の下にいる国々の中には、この条約をつくるのはまだ早すぎるという声があります。そうではありません。核軍縮があまりにも遅すぎるのです。被爆から75年、国連創設から75年という節目を迎えた今こそ、核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束“国連総会決議第一号”であることを、私たちは思い出すべきです。
 昨年、長崎を訪問されたローマ教皇は、二つの“鍵”となる言葉を述べられました。一つは「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」という言葉。もう一つは「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という言葉です。世界の皆さんに呼びかけます。平和のために私たちが参加する方法は無数にあります。今年、新型コロナウイルスに挑み続ける医療関係者に、多くの人が拍手を送りました。被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者に、同じように、心からの敬意と感謝を込めて拍手を送りましょう。
 この拍手を送るという、わずか10秒ほどの行為によっても平和の輪は広がります。今日、大テントの中に掲げられている高校生たちの書にも、平和への願いが表現されています。折り鶴を折るという小さな行為で、平和への思いを伝えることもできます。確信を持って、たゆむことなく、「平和の文化」を市民社会に根づかせていきましょう。若い世代の皆さん。新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです。あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか。核兵器のない世界へと続く道を共に切り開き、そして一緒に歩んでいきましょう。
 世界各国の指導者に訴えます。
 「相互不信」の流れを壊し、対話による「信頼」の構築をめざしてください。今こそ、「分断」ではなく「連帯」に向けた行動を選択してください。来年開かれる予定のNPT再検討会議で、核超大国である米ロの核兵器削減など、実効性のある核軍縮の道筋を示すことを求めます。日本政府と国会議員に訴えます。核兵器の怖さを体験した国として、一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください。そして、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、未だ被爆者と認められていない被爆体験者に対する救済を求めます。
  東日本大震災から9年が経過しました。長崎は放射能の脅威を体験したまちとして、復興に向け奮闘されている福島の皆さんを応援します。新型コロナウイルスのために、心ならずも今日この式典に参列できなかった皆様とともに、原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、長崎は、広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや平和を求めるすべての人々と連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを、ここに宣言します。 
2020年年8月9日 
                         長崎市長 田上 富久

2020年8月8日土曜日

26歳の女性は、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆して、新興善国民学校の救護所に入所した。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日の午前11時2分に投下して炸裂した。26歳の女性は、爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆した。新興善国民学校の救護所に入所した。薄下着を着付けて、靴と靴下は脱いで、茶色かかた黄色のもんぺを通じて、両方の下肢が火傷した。女性は、中等度の第2度の火傷を顔面から首に被爆した。下腿と足に重度の第2度の火傷を被爆した。ガラスの破片によって、多数の小さな裂傷を被爆した。女性は、中等度の原爆放射能も被爆をして、頭皮とまゆげが脱毛した。さらに被爆した皮膚に色素沈着とケロイドの瘢痕を左膝と足背に被爆した。被爆写真は、長崎原子爆弾が炸裂してから約1ケ月目の1945年10月11日に撮影された。

原子爆弾の火傷は身体の片側が特に火傷した。被爆者が火傷しない側で休んでいる状態で治療を可能にする。火傷の部位は、生存者の3591人の火傷症例では、頭や手足が98%に、手足に火傷が87%、わずか9%で顔と首に火傷が約9%に限定された。閃光熱傷からの直接の症状は、爆心地から同じ距離でも、被爆者によって異なった。小胞は、0.6マイル以内にいた生存者の方が、遠方よりも頻繁に出現する傾向があった。この距離の被爆者は、水疱がすぐに出現したが、翌日まで痛みはなかった。0.6マイルと0.9マイルの間の2人の患者では、痛みと水疱の両方が5分以内に発生した。0.9マイルの被爆者は2時間以内に痛みがあったが、水疱は翌日まで現れなかった。他の患者では、1.2マイルであっても、10分以内に小水疱がみられた。ほとんどの火傷と同様に、最初の数時間は痛みが激しく、その後は治まった。第1度のやけどを負った患者の症状と経過は、通常は紅斑がより早く現れたことを除いて、日焼けの症状と似ていた。
  皮膚が露出した屋外の被爆者に、炭化と壊死を伴う重度の第3度のやけどが発生した。この火傷は0.6マイル以内でよく見られた。 一方、軽い衣服でもかなり保護して、重い衣服はさらにより多くの保護を果たした。火傷の程度と関連する身体領域の両方が減少した。この被爆者は、露出部分に第3度のやけど、衣類の下に第2度または第1度のやけどを負う可能性があった。 第3度の火傷は、火傷の組み合わせがあった部位でも発生した。感染、栄養失調、または放射線障害による全身への影響によって遅延した場合を除き、治癒は通常の経過をたどった。生存者の大部分の火傷は第1度または第2度であったため、治癒は通常迅速でした。しかし、重度の2度以下の火傷のほぼすべてが感染し、真皮のより深い部分が破壊され、特に放射線障害のある患者では治癒が遅れました。傷のいくつかは、原子爆弾の4か月後には治癒できず、この時までに患者は白血球減少症から長い間かけて回復した

2020年8月6日木曜日

広島平和祈念式典 平和宣言 2020年8月6日

1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、踠(もが)いていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました。その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。
  原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」という当時13歳であった男性の訴え。昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」して立ち向かうべきであることを示唆しています。
 今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった成果です。実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして悲劇について学んだ。」、「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。
 ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。
 そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。
 本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。

2020年8月6日  広島市長 松井 一實

2020年8月1日土曜日

広島原子爆弾による爆風により飛び散ったガラスなどで、少女(10歳、女性、藤井幸子)は左顔面を怪我して、熱線により右前腕と手指は熱傷を受けた。

広島原子爆弾は、1945年8月6日午前15分に投下されて広島市内の中心部で炸裂した。広島原子爆弾による爆風により飛び散ったガラスなどで、少女(10歳、女性、藤井幸子)は左顔面を怪我して、熱線により右前腕と手指は熱傷を受けた。原子爆弾が投下された直後から、陸軍の検閲と関門で広島市内には入れなかった。3日後の8月9日に、広島市中区流川通りの救護所の付近で、少女は写真を撮影された(毎日新聞社、国平由紀夫)。記者がおにぎりを少女にあげると笑顔を見せた。爆心地からわずか約1.2kmは全ての建物が破壊されて、市民の約4割が即死していた地位であった。少女の写真は、2019年4月25日に約5年をかけてリニューアルされた広島市の広島平和記念資料館の本館入り口に「焼け跡に立つ少女」として掲げられ、年間150万人以上の来館者が最初に見る壁面に展示された。掲示される写真のサイズは、縦が約1.6m、横は約1.2mとなった。広島平和記念資料館にて、被爆者と関係者から寄贈された約2万点の被爆資料が収蔵されている。
    当時10歳であった少女は、爆心地から東約1.2kmの洋食店の自宅で、右手をついていたら爆風が吹き込んでて被爆した。自宅は2階建ての木造の家屋であった。縁側に続く部屋で座っていた体の右側から強烈な熱線を浴び、爆風で飛び散ったガラス片で負傷した。火災の直前に倒壊した家から脱出した。直接に熱線が当たった右手に重い火傷を負い、くっついた指を離す手術を受けた。やがて少女は成長し、結婚後に2人の子どもを育てながら幸せに暮らしていた。30代になり、がんに侵された。広島原爆病院で手術を受け、持ち直した。がんの転移により体調不全が続くようになり再入院した。1977年に42歳で原爆病死した。
 少女は、定期的にアメリカ原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所)で検査を受けていた。広島原子爆弾による被爆の影響で、悪性骨髄腫により30代から入院と退院を繰り返して、1977年に原爆症により若くして42歳で亡くなった。リニューアル前は、被爆した兵士の写真を展示する予定であったが、兵士の遺族から父親が苦しむ姿を見るのは耐え難いと要望があり、被爆した少女の写真に差し替えられた。兵士は、熱線で頚や腕が焼けただれ、救護所で横たわった写真であった。その他に、やけど治療を受ける少年の写真は身元不明のために見送られた。


2020年7月28日火曜日

朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑と長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いが込めらた。

世界遺産である原爆ドーム(左)から元安川を挟んで対岸の広島平和記念公園内に朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(中)がある。強制労働等により広島原子爆弾で被爆した朝鮮人の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願って建立された。朝鮮王家の李鍝公が原爆被災後に救出された場所の近隣の“ゆかり”から、本川橋を渡って西詰めに1970年4月10日に建立された。それは旧太田川の本流を挟んで対岸の広島平和記念公園と区別された。その後に広島平和記念公園内への移設を各方面から強い要望が出され、広島市等と協議により、1999年5月22日に広島平和記念公園内に移設された。広島平和記念公園内の北端にあり、付近には平和の鐘や原爆の像がある。移設後は、双竜を刻んだ冠の中に納めた死没者名簿は、韓国の銘石で韓国で制作された亀座部分前方地面の箱の中に納められた。死者の霊は亀の背に乗って昇天する故事から、亀の台座の上に碑柱が建ち、双竜を刻んだ冠を載せた。朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いを込めた。
 長崎県全体に在住した朝鮮人は約7万人など多数に上がった(内務省警保局発表)。長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられた。1945年8月9日にアメリカ軍による長崎原子爆弾の投下と粗炸裂で、朝鮮人は約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。ささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた約1万余の朝鮮人のために、長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑(右)を1979年8月9日に、原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会が建設した(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)。長崎市の平和公園とは約500mも南方に隔てた爆心地公園内に設置された。過去に日本は朝鮮を武力で威かくし、植民化し、朝鮮人を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた。戦争責任を、朝鮮人におわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾で被爆した朝鮮人は、戦後に原爆症を伴って帰国して実数は明確ではない。広島原子爆弾と長崎原子爆弾によって被爆した朝鮮人は約7万人と推定される。そのうち韓国に帰国した被爆した朝鮮人は約2万人以上とも示唆される。被爆した朝鮮人は、徴用による強制連行から原爆症から苦難している。慰霊碑はスクリーンともなり、隠蔽するための遮蔽物ともなる。戦争と平和の記念碑には、戦争犠牲者を代賛する象徴となる機能も、戦争における強烈な記憶を隠す機能もある。朝鮮半島の非核化やアメリカと中国・北朝鮮の冷戦の緩和、南北関係の融和を願い、その実現は核を廃絶する道でもある。
  明治維新以後に、朝鮮支配を強めた日本は、1910年の日韓併合により朝鮮を植民地とした。生活基盤を失った多くの朝鮮人は職業と生活を求めて日本に渡たり移民となった。第二次世界大戦中には、日本は労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって多くの朝鮮人が日本で強制労働させた。敗戦時には、日本には約300万人の朝鮮人がいたと推測された。1910年8月22日、日本政府は日韓併合条約を公布し、朝鮮は完全に日本の植民地下に置かれた。朝鮮人は自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失って、日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本終戦時には約2,365,263人に上った。





2020年7月25日土曜日

17歳の少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立位で背部の全体は炸裂方向に、着衣は炸裂直後に燃え上がり、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。

17歳の少年は長崎原子爆弾に被爆して、新興善救護所に搬送されて収容された。少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立ち上がり立位の時に被爆した。特に、背部の全体は長崎原子爆弾の炸裂方向に向けていた。頭部は左側に回していた。少年は、夏シャツと夏ズボンを装着していた。シャツやズボンなどの着衣は炸裂直後に、炎を出して発火して燃え上がった。そのために、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。おそらく頭部を回してしわが寄っていたために、頸部の周囲には不規則な火傷を被爆していた。写真は1945年10月頃に撮影された。少年は、長崎原子爆弾の炸裂後の爆風によって、殴り倒されたが、意識は消失しなかった。その後に、少年は脱毛を合併したが、その他の放射能による原爆症は発症しなかった。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
 爆撃当日の火傷による死亡率は不明であり、非常に多くの人々が熱と電離放射線の両方に曝されたため、最初の週の死亡率も不明である。しかし、閃光火傷による死亡率は、広島原子爆弾では、比治山高校の51人の少女が爆心地から約762mの校庭にいた。全員が重度の火傷を負い、1週間以内の死亡率は100%であった。約956mで完全にばく露された193人の労働者の死亡率は95%であった。死亡の一部は電離放射線もあるが、数日以内に発生した死亡のほとんどは火傷が原因であった。


2020年7月18日土曜日

広島原子爆弾により婦人は爆心地から約1.6kmの路上で被爆して、特に露出していた顔面と両上肢に重度の熱傷とケロイドを合併した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。婦人は、爆心地から約1.6kmの路上で被爆した。特に露出していた顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。広島逓信病院に救護されて熱傷の加療を受けた。広島原子爆弾の炸裂後から約1年半経過して、広島逓信病院に1947年2月10日の通院した。被爆者である婦人の顔面と両上肢の熱傷の痕からは異様なケロイドが上皮から厚く膨隆した。ケロイドは、熱傷の修復段階における創傷表面の瘢痕組織の異常増殖である。単純な瘢痕組織の肥大である肥厚性瘢痕とは対照的に、カニの殻や脚に似た不規則な形状の突起を形成する。したがって、「ケロイド」という用語はギリシャ語ではカニを示唆する。瘢痕は通常は二次熱傷によって引き起こされ、ケロイドは一次熱傷から生じる。ケロイドの瘢痕の再発は珍しいことではない。ケロイド瘢痕を除去するために多くの整形手術が行われた。被爆者の火傷や傷口が治ったように見えた後に、傷が厚くなり、ケロイドと呼ばれる腫物ができた。ケロイドは、爆心地から約2 km以内で熱線に曝された人々の約50〜60%に発症した。ケロイドは放射線被爆で悪化し、多くの場合に、触覚が非常に敏感となった。身体の未燃部分から採取されて移植した皮膚も同様にケロイドを発症した。
 ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドを持っている女性は、避難所を対処しても、外出して家を離れることを拒否することが多っかった。さらに背中や肩にケロイドを持っている女性は、その肌を見せることをためらった。原爆投下後された夏でも、広島の被爆者は長袖のシャツを着ていた。他からは「原爆病」として恐れられて、その傷跡のために明白に被爆者は軽蔑された。ケロイド瘢痕は肉体的にも感情的にも障害を伴う。若い女性は、顔や足のケロイドが愛と結婚の障害になって、特に脆弱となった。傷ついた女性の多くは、周りの人たちが受ける外見や軽蔑に絶望していた。感情的な苦痛を抱えながら、多くの女性は勇気を持って、自分の状態を共有している他の被爆者との接触を通じて、自立生活を模索した。ケロイドの被爆者は、原子爆弾の公の好奇心と悪意の対象となり、多くの社会的影響を伴った。雇用主はケロイドの傷のある人を雇うことを望まない。放射線病の症状を持っている人と結婚することを望まない。ケロイド被爆者は、人々から攻撃の生存者として監視されて、炸裂の悪夢を思い出させた。


2020年7月11日土曜日

広島陸軍病院宇品分院にて、アメリカ陸軍の調査団員が、原爆症による被爆者の角膜を通じる光度で、水晶体の白内障を検査した。

広島陸軍病院宇品分院にて、1945年9月11日にアメリカ陸軍の調査団員が、救護されて収書した被爆者を訪問診療をした。原爆症による被爆者の角膜を通じる光度により、水晶体の白内障を検査した。1945年8月6日に投下されて炸裂した広島原子爆弾による原爆症に関して、約1月後にアメリカ陸軍が被爆者を調査した。
   原爆放射能は、眼球の水晶体が最も放射能の感受性が高く、放射能障害を引き起こした。放射線により、水晶体上皮細胞が傷害されて、水晶体単位が変性して、後嚢下白内障が生じる。原爆被爆者における術後白内障の有病率は、原爆放射線量とともに著しく増加した。原子爆弾が放射した放射能が誘発した白内障は、特有のドーナツ型の不透明度は、水晶体の後極で著明となる。一面にわたる水晶体の不透明度は、周辺部にも散在した。白内障は、水晶体の老化、糖尿病、放射線、外傷などの原因とで水晶体の混濁が発症した。原爆白内障は、被爆後の約3ヶ月から10年の間に出現して、加齢により視覚障害が進行した。爆心地からの距離が短いほど発生率は高くなった。広島原子爆弾では1948年6秋、長崎原子爆弾では1949年に認定された。
 1928年に設立した国際X線ラジウム防護委員会は、1950年に国際放射線防護委員会(ICRP)に改組され、放射線防護の基本的な枠組みと防護基準を勧告する国際学術機関となった。 放射線防護委員会(ICRP)は、検出可能な水晶体混濁を引き起こすには少なくとも0.5〜2Svの短時間の曝露が必要であり、視覚障害の白内障には5Svが必要であると推定している。眼球被爆ガイドラインは、放射線白内障は、一般に2Gyを超える閾値線量を必要とされた。近年では、眼球被爆ガイドラインの最近の再評価により、放射線白内障の閾値を0.5 Gy /年に、眼球被爆限度を20 mSv /年に下げることが提唱されている。ICRPは2007年に線量限度を勧告した。職業人の線量限度を100mDv/5年かつ50mSv/年、一般公衆の限度を1mSv/年とした。
 原子爆弾の炸裂により被爆して、その後にも影響が残るのは、放射能傷害であった。たとえ、熱傷や外傷が軽微であっても、固縛者は数日から数週間にわたり、放射能による身体障害に罹患する。体温が40度近くにも達して、口や鼻から大量に出血して、下痢、全身の倦怠感を伴いながら、原爆症により被爆死した。大量の放射能をあびた被爆者の身体の細胞や血液が傷害されて、多臓器の傷害、免疫機能の低下して重篤な原爆症が発症して、多数の被爆者が死亡した。


2020年7月4日土曜日

長崎原子爆弾に18歳の女性が、爆心地から約1.1kmで被爆し、約19日目から脱毛が発症し、3日前から紫斑も出現した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、18歳の女性が、爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆者は、長崎市内の木造の建物の中にいた。原子爆弾が炸裂して、約19日目から脱毛が発症した。その3日前から紫斑も出現した。脱毛は、残存した頭髪が分散して伸びた。白血球減少症は2ケ月間は持続したが、その後に被爆者は回復した。DNAに放射線が当たると、当たった量に相関してDNAの一部が壊れる場合がある。X線1mGy当たり、1細胞で平均1箇所の1本鎖の切断が起こる場合があり、1mSVに相当する。もし2本鎖のDNAの切断は、頻度がなく約0.04箇所となり、約100細胞が均一に1mGy浴びたら、2本鎖の切断が4細胞に起こる場合がある。
 原子爆弾からの強力な放射線の被爆で、細胞の遺伝子(DNA)を切断されて、細胞分裂が困難となる。分裂が不可ならば、細胞は生まれ変われない。身体の外から放射線を照射された場合には、放射線は皮膚を通過する。正常な細胞であった毛母細胞も分裂が困難となり、多くの場合に脱毛が起こる。ただし、細胞に修復能力があれば、毛は再び生えてくる。放射線への曝露は体内のすべての細胞を損傷する可能性がある。毛髪は通常健康な正常組織よりも速く成長するため、頻繁に分裂する細胞ほど損傷を与える傾向がある。そのために、脱毛は最も著明で明白な発現の1つの症状となる。脱毛した被爆者の外見は典型的であった。頭頂部は側面よりも脱毛が多く含まれて、多くの場合、僧侶の剃髪との類似性が印象的であった。極端な場合には、髪は完全に失われた。場合によっては、爆撃の50日後までに被爆者に脱毛が認められたときまでに髪の再成長が始まっていた。頭皮以外の脱毛は非常に稀であった。
  原爆症の脱毛は、脱毛部では、毛髪の母細胞である毛母基、そしてそれに続く内毛鞘、外毛根精が強く傷害されていた。脱毛は早い人で1週間後から始まり、第3週間ころ発症した人が多かった。皮下出血もしばしば合併した。生存者の多くは、約12週間から約14週間で基に戻った。脱毛の発症頻度は、被爆距離に密接に送還した。生存者でみると近距離で被爆した人ほど高頻度であった。毛髪は、毛包または毛球中にある細胞群により作られている蛋白質からできる。放射線または有毒化学物質、例えば、がんの化学療法に使う薬剤などに被曝するとこれらの細胞は壊死する。その結果個々の毛髪は徐々に細くなり、くしを通したとき簡単に折れる。毛髪の喪失すなわち脱毛が発症する。原爆被爆後の数日から数週間の間、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲減退、血便を伴う下痢、脱毛、紫班 または点状出血、のどまたは口内の痛み、鼻咽頭潰瘍、および歯ぐきの衰退および潰瘍、壊死性歯肉炎を合併した。症状の発生時期は異なるが、一般に重度被爆者ほどより早い時期に発現した。

2020年6月27日土曜日

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆して、大村海軍病院にて1945年8月11日頃に撮影された。

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆した。上半身の表皮は、広範囲に浅く剥離した。大村海軍病院に8月9日に護送されて四病舎に収容されて、少年の受傷から2日目の1945年8月11日頃に撮影された。表皮が剥離してびらんした第2度の熱傷を患い、中等度の出血を伴った。リパノール肝油を塗布して、ビタカンフルや高張ブドウ糖駅を注射した。体温が8月26日に約36.4度であったが、27日から約39.0度の高熱になった。朝は約27度で夕方は約39度の弛緩性の熱型となった。9月4日に、白血球数は約4,000で、9月11日の午後4時20分に重症となった。その後の診療記録は不詳である。
 長崎原子爆弾が炸裂した放射性の熱戦により、長崎の少年の全身が火傷に被爆した。長崎県大村市の大村海軍病院に護送されて全身が3度の火傷の写真を撮影された。第二次世界大戦中に日本で起こった長崎原子爆弾の被爆者であり、少年の身体は、放射性の熱戦により、細胞は変性した第2度の火傷で覆われた。少年は放射線被性曝も伴った。長崎原子爆弾によっても、少なくとも約74,000人が死亡し、約75,000人が負傷した。別の原子爆弾はそれ以前の1945年8月6日午前8時15分に、日本の広島市で爆発した。 これら二つの原子爆弾の炸裂した後に、日本はアメリカ軍に降伏して、第二次世界大戦は終結した。
  原子爆弾の炸裂の瞬間の火球は数万度に達する。約0.2秒後には約7,700度から約3秒で熱戦は減衰する。原子爆弾の炸裂で約0.5秒まで火傷は最高度に達する。主に人体に熱傷を起こすのは赤外線であった。原子爆弾の熱線の照射を受けて、表皮組織が一様に浅く侵食されて、下層の健常部と境界が明瞭となる凝固壊死を伴った。表皮の傷害は2度以上で、組織が侵食されて凝固する凝固壊死、5度以上では黒焦げの炭化して、浮腫や浸出液の浸潤は乏しい。直接に人体に達した熱線により、第一次原子爆弾熱傷を被爆する。熱線等により、火災熱傷、焦熱傷、触熱傷、焔熱傷などにより間接的に、第二次原子爆弾熱傷を被爆する。特に第一次熱傷は、原子爆弾に特有の熱傷である。広島では爆心的から約1.0km以内、長崎で約1.5km以内では5度以上の熱傷を被爆した。それ5度以下は、広島で約3.5km、長崎では約4.0kmまで及んだ。  


2020年6月21日日曜日

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日に、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
 御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。


2020年6月13日土曜日

長崎原爆に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送され、入院中に早期から全身皮膚に紫斑が出現した。

1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
 1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
 爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
 その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
 これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
 被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。