2023年5月27日土曜日

1945年8月7日に、広島城の本丸付近の中国軍管区司令部は、机と椅子を集めて携帯用テントで屋根を設置して、広島原子爆弾被爆後の中国軍管区の仮事務所を地下作戦室の前に急造した。

1945年8月6日午前8時15分に一発の広島原子爆弾がアメリカ軍が投下して炸裂させた。太平洋戦争の遂行中のために、広島の軍隊は壊滅した中枢機能の再建に全力をあげた。8月7日に、広島城の本丸近くにあった中国軍管区司令部は、松村参謀長ら重症者約15人らが、古ぼけた机2つ、椅子3つを集めて、携帯用テントをつなぎ合わせて屋根を設置した。中国軍管区の仮設司令部を地下作戦室の前に急造した。同日8月7日に、同じ焼け跡に広島連隊区司令部の広島地区司令部の仮設事務所も設置された。

 広島城・第一補充隊正門よりも東側にあった広島連隊区司令部の焼け跡に作られた仮事務所のテントを南から北に向かって写真撮影した。門柱には「広島連隊区司令部 広島地区司令部 仮事務所」と垂れ幕がかかっている。テントの奥にうっすら、広島逓信局と広島逓信病院の建物が見える。写真右端には、負傷したのか、座り込んでいるような姿の男性が見える。

 広島師団司令部の報道班員の岸田貢宜が8月7日から写真撮影した。広島城の天守閣も消えてなくなっていた。傍の溝の中には、白衣や褌のままの日本軍兵士が、頭を突っこんで死んでいた。溝の黒い水を求めて、腹ばいでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄ってきた。まともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めにくるのであった。29歳の岸田貢宜は、8月13日頃から高熱に襲われて、数カ月にわたり療養した。




2023年5月20日土曜日

広島平和記念公園でG7サミット首脳は2023年5月19日に、広島平和記念資料館を見学して、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。

2023年5月19日に日本国内閣総理大臣の岸田文雄は、広島県を訪問中のG7サミット首脳らと広島平和記念公園で開催されたG7行事を主催した。岸田首相は、広島平和記念公園でG7(Group of Seven)首脳とその配偶者に挨拶した後、G7首脳らと広島平和記念資料館を見学した。その後、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。G7とは、フランス、米国、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダ(議長国順)の7か国及び欧州連合(EU)が参加する枠組でである。2023年に日本は7回目の議長国となり、広島サミットを開催した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、G7サミットと広島平和記念公園に参加するため、5月20日午後3時半ごろ広島空港に到着した。

 2023年5月19日、岸田首相と岸田裕子夫人は、G7首脳とその配偶者を広島平和記念公園で歓迎した。フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国大統領ジョセフ・R・バイデンJr、アメリカ合衆国大統領およびファーストレディ、カナダ首相ジャスティン・トルドー閣下、ドイツ連邦共和国首相オラフ・ショルツ閣下およびその配偶者、イタリア共和国閣僚理事会議長ジョルジア・メローニ閣下、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国首相リシ・スナック閣下およびその配偶者、フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国首相シャルル・ミシェル閣下、カナダ首相オラフ・ショルツ閣下、イタリア共和国閣僚理事会議長シャル・ミシェル閣下、イタリア共和国閣僚理事長シャ・ミシェル閣下が、G7首脳およびその配偶者を歓迎した。G7広島サミットに出席するため広島を訪れたシャルル・ミッシェル欧州理事会議長、ウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長およびその配偶者は、広島県広島市の広島平和記念公園で会見を行った。その後、岸田総理は、広島平和記念資料館を見学した。広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑での献花式、G7首脳との植樹式に参加した。

 G7首脳は一緒に平和記念資料館を訪れ、首相自らが展示物を説明したほか、被爆者の小倉桂子さんとも言葉を交わした。訪問後、岸田総理をはじめとするG7首脳は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長の案内で原爆慰霊碑に向かった。原爆慰霊碑に花輪を捧げ、広島の中学生・高校生の協力のもと、黙祷を捧げた。松井市長から原爆ドームについての説明を受けた後、G7首脳は、岸田首相とともに、平和への希求と平和実現に向けたG7首脳の結束の意志の象徴として、原爆を生き延びた桜(ソメイヨシノ)を公園内に植樹しました。G7首脳は、平和記念公園への訪問を通じて、原爆投下の現実について理解を深め、失われた命の霊を慰めるために心を合わせた。G7首脳は、ロシアによる核兵器の使用はもちろんのこと、その威嚇も許されないとの立場を改めて表明した。今回の訪問は、核兵器のない世界の実現に向けたG7のコミットメントを確認する機会となったことを確信する。





2023年5月13日土曜日

1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に広島市内に落下して炸裂した。1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。広島の中心商店街であった本通商店街は一瞬にして瓦礫と化した。写真の右側にはキリンビールホールと爆風で変形して倒壊した下村宝石店、左奥には中国新聞ビルなどが見えた。広島市民が、廃墟となった焼け跡の広島市内の街路を、大八車などを引きながら移動した。 

 佐々木雄一郎は、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。日本の敗戦により、退職金の代わりのフィルムを携えて、1945年8月18日に広島市に帰省した。母や兄家族、姉、妹ら親族の約13人が死亡や行方不明となった。最初は肉親の死亡した場所だけを写真撮影する予定が、再度に撮影したい場所が見つかった。次第に広島原子爆弾による広島市の復興から変貌の写真撮影に深入りした。元宇品町(南区)に住み着くと、観光の写真撮影で生計を立てながら、被爆都市の広島市を記録し続けた。被爆者の苦痛を知り、物言わぬ墓標を一徹に撮影した。シャッターをきるうちに、約10万枚を撮影した。職業病である眼病を乗り越えて、組織に属さず市民のカメラマンを貫いて記録し続けた。『写真記録 ヒロシマ25年』(朝日新聞社)を、1970年7月30日に出版した。原爆はヒロシマの地上に存在するあらゆるものを破壊した。だが、その大地までは消し去ることはできなかった。

 佐々木雄一郎は、広島原子爆弾の爆心地からの距離をあらわす円周にむかって、8本の線と2個の点を図示した。放射状に8本の線をのばした。この8本の線が円周上に鋭く突刺さり停止した点が、彼の肉親約13人が被爆した地点である。13人は全員が爆死あるいは行方向不明となった。行方不明で未だに線の引けなにい迷える1個の点も含めた。被爆図が、一片の生の匂いもとどめぬ、完璧な原爆死を証明した。広島市の戦後は原子爆弾の被爆後からはじまった。




2023年5月6日土曜日

広島原子爆弾に被爆した似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。左の下顎、口から首に、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。

広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。




2023年4月29日土曜日

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦のジョージ実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。

 アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦(Operation Greenhouse)のジョージ(George)実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。ジョージ実験では、きのこ雲の頂上付近に完璧なベル・ウイルソン雲を形成した。熱核融合の最初の本格的な核実験となり、水爆の前身となった。熱核融合(熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験となった。ジョージ実験は、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究するための実験であった。ジョージの核実験の結果をもとに、重水素の核融合を確認して、初の多段式ウラム水爆実験の準備を進めた。

 1951年にアメリカ軍は、熱核反応による最初の核実験場での爆発実験を行った。ジョージ実験は、1946年に特許を取得した放射線照射原理で作動する二進法開始器を備えた古典的なスーパーモデルの核実験であった。地球上で初めて燃焼した小さな熱核の炎を点火した最大の核分裂爆発となった。シリンダーと呼称した実験装置は、濃縮ウラン炉心で構成され、独自の円筒爆縮システムによって爆縮された。核分裂の連鎖反応を外部から開始させた最初の装置であった。ジョージ実験は、アメリカ軍の核実験のうち、およそ40回目の核実験であった。

 グリーンハウス作戦は、1951年4月から5月にエネウェトク環礁で実施した。4つの比較的高収率の核実験であり、ドッグ、イージー、ジョージ、およびアイテムの呼び名で構成された。ドッグとイージーは、それぞれMk 6とMk 5という2つの新しい戦略爆弾の実証試験であった。ジョージとアイテムは、熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験であった。ジョージは、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究する核実験であった。



2023年4月22日土曜日

広島日赤病院に外来受診した陸田豊子は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来治療室には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島原子爆弾に被爆した陸田豊子(22歳、女性、くがた とよこ)は、荷車の大八車を隣の農家から借りて、日赤病院に通って治療を受けた。通院の姿を10月4日に旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池俊吉が撮影した。10月6日には、日本映画社の原爆記録映画班の山中真男に、広島赤十字病院の外来治療室の映像を撮影された。

 陸田豊子は、広島市中区本通の安田生命広島支店に通勤途上で、1945年8月6日午前8時15分に、広島市吉島本町3丁目の実家から歩いて南大橋を抜けた地点で広島原子爆弾が炸裂した。爆心地から南約1.7km地点の南大橋で閃光にさらされ、元安川へ吹き飛ばされた。大手町方面に渡る気力もなく橋の柱につかまっていた。岸や川に無数の無残な死体を、軍隊の船が宇品まで運んだ。陸田豊子は、宇品凱旋館を拠点の陸軍船舶司令部の軍隊に救助された。

 陸田豊子は、油を塗られてムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、海路で玖波国民学校へ移送された。旧玖波町の収容患者名簿に陸田豊子の名前が残って、重傷者を示す◯印が付けられた。約80人が収容されて、終戦前日の8月14日までに約11人が死亡した。陸田豊子の名前が広島市で張り出され、母と親類の兄とが荷車で迎えにきた。8月24日に吉島本町の実家に戻った。

 アメリカ軍は、原子爆弾の記録写真等を接収をワシントンの陸軍病理学研究所に秘蔵した。1973年に記録写真等が日本に返還されて「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開された。荷車の親子と称された。父の妹のコヒデが荷車を引いていた。母親も、吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取った。治療費を工面して、足の火傷で歩行困難な陸田豊子を日赤病院へ通院させた。

 1946年に元職場へ復帰して、その後東京に転勤した。陸田肇さんと結婚し、電機メーカー勤務地である栃木県小山市に定住した。陸田豊子は「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増えた。こういう写真でしか分からないんでしょう。原子爆弾でどうなるのかを見て分かってほしい」と祈念した。




2023年4月15日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃の正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃の正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。その建物の多くは木造だったが、広島原子爆弾の爆風被害は、ガラス窓の破損と屋根瓦が飛んだ程度でわずかだった。8月6日午前8時15分の被爆直後から被爆した負傷者たちは続々と船舶練習部に避難して殺到した。各々の被爆者に応急処置をして収容するのは困難であった。8月6日午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運搬され続けた。停電の中で、懐中電灯やロウソクで徹夜の救護活動が続いて、戦場の野戦収容所を呈していた。

 大和人絹広島工場は、太平洋戦争時下に1942年12月に操業を休止して、日本陸軍に接収された。1943年2月から日本陸軍が賃貸して工場の約3の2が陸軍船舶練習部に使用された。大和人絹工場(大和紡績工場)の中央上部の従業員寮は、東京第一陸軍病院の職員が、負傷者の治療の病院として使用した。工場敷地内には、その他に陸軍船舶練習部、陸軍砲兵教導聯隊が所在した。1945年8月9日に、臨時陸軍野戦病院が設置された。

 8月25日になって、広島第一陸軍病院宇品分院に転属となった。船舶練習部(南3.9km)の正門に、廣島第一陸軍病院宇品分院の門標がかかった。陸軍船舶練習部は、臨時野戦病院から次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり、約6,000人以上の被爆患者が収容された。宇品分院には被爆直後に収容された患者のほか、その後に他救護所から次つぎと患者たちが護送された。広島第1病院宇品分院が一般から原爆専門病院として認識された。原爆病の探求のために、東京陸軍病院、軍医学校、東大医学部などの多くの医療専門家の拠点となった。アメリカ軍の医学調査団が、10月14日は広島第一陸軍病院を接収した。陸軍船舶練習部の敷地は、現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存した。




2023年4月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。




2023年4月1日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院(Hiroshima Posts and Telecommunications Hospital)には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。8月8日から広島逓信局が疎開した1階の畳で約100枚を、被爆患者を収容するベッドに活用した。広島逓信病院の逓信局1階と焼上した2階が診察室と病室になった。広島逓信病院が収容する被爆患者数は、平均約220人に達した。終戦の日の8月15日までに約66人が被爆死した。

 広島逓信病院は、広島原子爆弾の爆心地からの距離は北西西約1.37kmで、現広島市中区東白島町19番16号に所在した。原子爆弾の爆風が窓を吹き飛ばし、鉄筋コンクリートで倒壊は免れた。近隣からの類焼などにより、特に2階は大部分は全焼した。新館は特に大きな窓が特徴で、爆風で窓枠が飴のように曲がってしまった。

 広島市内の医師や医療関係者は、何も知らない放射線被爆や従来の外傷にもほとんど手を出せなかった。病院は、ほとんどが破壊された地域にあり、約9割以上の医療関係者が被爆の瞬間に原爆死した。医療機器や医薬品など、被爆患者を治療する必要な資材は破壊された。原子爆弾の炸裂から数日たっても放射線は危険なレベルにあり、傷を負わずに済んだ被爆者が、突然に髪が抜け、鼻血が止まらず、臓器の大量出血が出現した。1945年末には、広島市内の原子爆弾の犠牲者は約90,000人から約150,000人にまで増悪した。

 アメリカ軍の空襲に備えて、入院患者を退院させ疎開して、入院患者の被害は最小限であった。病院職員は、48人中5人が死亡(うち1人が病院内で死亡)、7名重傷、25人が軽傷の被爆した。数多くの被爆患者が広島逓信病院に押し寄せ、医療関係者は懸命な救護して、広島市内に残った数少ない医療機関として重要な役割を果たした。現在は、1995年に改装された旧外来棟の一部に被爆資料室が整備された。当初は1922年に逓信関係者に向けた広島逓信診療所として開設された。1942年に広島逓信病院(入院施設12室・30床)に改装された。



2023年3月25日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した新興善国民学校の救護所には、9月中旬に外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。

長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




2023年3月11日土曜日

広島原子爆弾の炸裂して、33歳の陸軍将校は爆心地から約2kmの木造2階で被爆して、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。

広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

 体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。


















  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。







 経過

 1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)

2023年2月25日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。




2023年2月11日土曜日

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。




2023年2月4日土曜日

広島原子爆弾による広島女子専門学校の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。

広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。




2023年1月28日土曜日

1945年9月16日に、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近で、廃墟の中で仮設の建物の屋外で、即席の野外コンロで調理する母親と子どもの姿が見えた。

 1945年9月16日、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近でアメリカ軍が撮影した写真である。屋外で調理する人々の姿が見える(写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局)。長崎原子爆弾の爆心地付近の廃墟で、母親と子どもが生活していた。中央の壁がない仮設の建物の下で眠り、即席の野外コンロで調理していた。

 多くの被爆者が避難し、田舎や離島でより困窮しない生活を求めて、何日も何週間も歩き続けた。遠い親類縁者との生活に耐えかねて、同じ苦悩をする被爆者に囲まれた長崎市に戻る人もいた。ホームレスの被爆者は、薄っぺらな小屋に住み、土間や瓦礫の中の畳の上で寝た。家具もない一部屋に約15人も住むこともあった。水道は不全で、山から湧き水を汲んで、雨水を溜めて沸かして飲んだ。トイレもなく、小屋の外に穴を掘って、木の板で覆った。浴槽もなく、大きなドラム缶でお湯を沸かし、立ったまま入浴した。冬の風に、家族は衣類や毛布をたくさん重ね着し、傘をさして薪ストーブを囲み、屋根から落ちる雨やみぞれ、雪を防いだ。真っ暗な夜、廃墟を歩く被爆者は、ガラスの破片、古い釘、木片、割れた瓦などで足を切った。

 長崎市内の福祉施設はまだ稼働せず、多くの孤児が路上生活を余儀なくされた。カトリックのノートルダム修道院の修道士らが約100人以上の孤児を引き取り、秋月博士の第一浦上病院などが無料の医療を提供した。救護班が身元不明の赤ん坊を養子にした。行き場のない少女たちは売春をし、孤児となった少年たちは、数ヶ月から数年間、一人または二人で駅や橋の下に住み、物乞い、盗み、食物を探し、鉄道当局や地元の警察から厄介者扱いされながら、地域を徘徊した。妊婦は、胎内で被曝して死ぬ、奇形児が生まれるという噂におびえ、医師や助産婦の手を借りずに廃墟の中で出産した。実際に、子宮内被曝児の死亡率は高かった。爆心地から約500m以内の妊婦は約43%の確率で自然流産、死産、乳児突然死を起こした。