2023年9月30日土曜日

32歳の農業に従事していた女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。8月9日に被爆して3日後の9月11日に四病舎に、全身が衰弱して入院した。

大村海軍病院に収容せる原子爆弾の被爆した患者の惨状として、32歳の農業に従事した女性は、全身を爆傷して、大村海軍病院に救護された。被爆して3日後の9月11日に四病舎に収容され入院した。右臀部肛門を距る約2cmの部位に、長さ約4cm、幅約2cmの創面があり、全身が衰弱した。25%のブドウ糖約400ccに、ビタミンBCを加えて注射することにした。9月21日に、赤血球沈降速度が一時間約100mmに昇っていた。それ以外は示してなく、記録された記事がなかった。

 長崎原子爆弾の投下されて炸裂した直後に、長崎市の医療機関の活動は、長崎市医師会などの救援隊は爆心地周辺から医療救護活動を開始した。長崎市旧市街地の主な救護所は新光善小学校救護所と勝山小学校救護所であった。対岸地区の救護所は、稲佐小学校、三菱病院(本院)、御真寺であった。長崎北部では、平宗(現在の滑石一丁目)の民家が救護所に利用された。周辺では、ベテラン軍医の家族の救護が目立った。

 長崎原子爆弾の炸裂からわずか1〜2時間後には、長崎医科大学の職員が長崎医科大学病院の裏山で、被爆した負傷者の手当てを始めた。浦上第一病院(神学校跡地)の職員は焼け残った一室で、三菱病院浦上分院の職員は銭座町の防空壕で救護した。4〜5時間後には、諫早海軍病院救護班が第一陣として伊良林小学校で被爆した負傷者の手当てを始めた。大村海軍病院の救護班、国立小浜診療所の救護班(小浜町救護班)も長崎市の爆心地に入り、救護活動を執行した。

 長崎市は被爆直後から爆心地とその周辺で献身的な救援活動が行われた。しかし、その活動範囲は一部に限定された。空襲警報が頻発し、アメリカ軍の戦闘機が飛来するという最悪の状況下で、救援部隊の到着が遅れた。本格的な医療救援活動の開始も、長崎原子爆弾の投下翌日の8月10日にずれ込んだ。8月10日から、多くの海兵隊や陸軍の救援隊、各大学の救援隊を含む長崎県内外の救援隊が被災地に到着して、積極的な救援活動を行うことができた。日本海軍や日本陸軍の救援部隊の組織は、長崎県出身者が将校や衛生官として優先的に抜擢された。その指揮下で働く長崎出身者の兵士も入隊していたようである。壊滅的な被爆を受けた長崎市で活動するために動員された日本海軍と日本陸軍の救援部隊、大学の救援チーム、長崎県内外の救援チームが救護活動を展開した。




2023年9月23日土曜日

長崎原子爆弾で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。1945年9月29日に少女の頭部には包帯が巻かれて歩き回った。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に、アメリカ空軍により長崎市に落下して炸裂した爆発で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。9月29日に少女の頭には包帯が巻かれていた。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷して、頭部に包帯を巻いて歩き回った。日本人の少女は崩壊した長崎真意の廃墟で遊んでいた(米国国立公文書館、写真番号290036_ボックス570_RG111SC、https://www.nichimyus.jp/)。アメリカ陸軍の空軍部隊が、原子爆弾に被爆した長崎市を視察して撮影して記録した。





 








   

   原子爆弾の炸裂により、巨大な火球が現れ、火球は太陽の約100倍もの明るさで、中心部分は数百万度であった。強烈な熱線、猛烈な爆風、膨大な放射線を放出して、爆心地を中心として広範囲を一瞬のうちに火襲した。熱線は、爆心地では地表の表面温度が約3,000~4,000度に達した。強烈な熱線によって被爆者は重度の火傷を負って、多くの人が死傷した。その直後からに発生した火災も被害を大きくて壊滅した。

 長崎原子爆弾の被害状況(1945年12月末までの推定)※当時の長崎市内の推定人口約24万人(1945年5月31日時点の配給人口)であり、そのうちに死者は73,884人、負傷者は74,909人に達した。(原爆資料保存委員会報告(1945年7月発表)) 長崎原子爆弾により、頭部に火傷を被爆した少女は、廃墟になった長崎市内の瓦礫の地面中で探索して周囲を物色していた。




2023年9月16日土曜日

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した。爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した(菊池俊吉)。広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。1937年に増築されて、校舎は広島原子爆弾で完全に破壊された。新築の西校舎の鉄筋コンクリートの建物は外殻が崩れずに残存した。疎開していなかった袋町小学校に残存した児童の約160人のうち157人が原爆死して、教職員の16人も犠牲になり原爆死した。3人の児童は、西校舎内で被爆して、その後地下室に避難して生存した。

   広島原子爆弾が8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から、臨時救護所に転換された。約2ケ月を経過した1945年10月5日から救護組織がかわり、日本医療団病院として、 袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も計7ヵ所に整理された。このころには広島市内の居住者も減少して、外来被爆患者の数も峠をこした。救急臨時救護所は戦時災害保護法にもとづくもので その期限は2ヵ月であった。10月5日現在で、広島市内の臨時救護所は11ヵ所、入院被爆患者は約500名、外来被爆患者は1,200名であった。

 菊池俊吉は、被爆直後の広島の惨状を鮮明に写真の撮影をした。撮影のネガフィルムが、良好な状態で現存して、東京都練馬区に住む妻の徳子が保管していた。一人の撮影者による原爆記録写真では、最多の783点に上った。旧文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から10月20日までスチル写真を撮影に当した。広島赤十字病院や広島逓信病院で治療を受けるやけどや放射線障害の患者、救護病院となった大芝国民学校や袋町国民学校で死にゆく親子ら、被爆直後の生々しい光景を克明にとらえた。




2023年9月9日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mの横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋のバラックが現れ始めた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に炸裂して被爆してから2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mに位置した横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋であるバラックが現れ始め、横川駅前など人が集まりやすい場所には闇市が出現した。仮設小屋や闇市は治安や衛生の問題を伴っていたが、復興の始まりを象徴するものでもあった。横川駅周辺の光景の中に、広島市の被爆した街とそこに住む市民が復興しつつある兆しを撮影した。

 戦時災害保護法が打ち切られた後、被爆者への特別な援護はなく、生活保護法など一般的福祉制度しか頼るものはなかった。焼け残った資材を集めて造ったバラックに住み、物資不足に悩まされながら、その生活は困難を極めた。バラックは、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物を呼称した。困窮した被爆者が空き地などに建てた小屋程度の住居をバラックと呼んだ。 

 横川駅は、原子爆弾の熱線により駅構内の一画から火の手があがり、数時間後には駅舎も焼失した。待合室では約10人が生き埋めとなり4人だけが救出されたといわれた。8月6日当日には線路の枕木がくすぶる中、被災者を運ぶ列車が運転された。被爆して2日後の8月8日に、国鉄の山陽本線は、広島駅と横川駅間の運転を再開した。広島市民は原子爆弾の炸裂の直後に、爆心地から遠い方向に避難した。横川駅付近の市民は北へ、広島駅付近の市民は東や北へ、比治山周辺の市民は南や東に、家族や職場の事情などで、違う方向に向かった市民もいた。

 原爆投下後75年間は、広島市内には何も育たないと噂されていた。しかし、広島は死ななかった。交通、通信、電力のライフラインはすぐに回復した。人も物資も輸送された。情報とエネルギーの供給も確保された。被爆者の実態が十分に伝わらず、被爆者に対する差別や偏見が生まれた。被爆者は、厳しい生活環境に耐たえながら、懸命に生きていこうとしていた。




2023年9月2日土曜日

広島原子爆弾に被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mの広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長から、両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。

広島原子爆弾が投下して炸裂により被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mに位置した広島市千田町の広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長により、火傷した両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。男子中学生は、両目の火傷により、視覚障害により失明の恐れがあった。医薬品も乏しく、消毒液を塗る程度の処置に留まった。焼け残った広島赤十字病院には被爆直後から多くの被爆者が運び込まれた。

  広島赤十字病院は、当時は陸軍病院であったが、外来では一般市民の治療も行なっていた。医薬品の備蓄があるも、あまりの多くの被爆者が殺到してたちまちに使い果たした。中学生の少年は、広島赤十字病院本館の正面玄関前で外来治療を受た。少年の両手は重度の火傷により、皮膚が剥けて、水疱が生じていた。火傷の治療も、消毒薬やマーキュロ、オリーブ油などを塗り、包帯で拭く塗り巻く手当に留まった。少年は顔面の正面から広島原子爆弾の熱線を浴びていた。額から頬、手の甲に火傷を追った少年が、広島赤十字病院で外来処置を受けた。近くで近親の男性にに右腕を支えてもらった。

 少年は、爆心地から約1,790mに位置した県立広島第二中学校の生徒であった。2年生ならば、8月6日に爆心地から約2.5kmの東練兵場に集合して、学校の芋畑の草取りをせよと指示があり、東練兵場に集合した全員は生存して、直後の原爆死没者は無かった。

 広島県立広島第二中学校の6学級からなる1年生は8月6日朝、爆心地から約500mの旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員された。整列し、引率教師の訓示が終わる直前に、広島原子爆弾が投下されて炸裂した。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。水際に至る迄重なるように重傷の子供充ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあった。7日朝に父親は、屍は既に膨張し、同じ様な容貌となった。全身の火傷で自宅にたどり着き、救護所に搬送された少年たちは、瀕死状態から全員が原爆死没者に陥った。中島の動員現場にいた生徒約344人、教職員8人が、本川左岸にある広島県立広島第ニ中学校の原爆死没者の慰霊碑に刻まれた。




2023年8月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に1945年9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。

1945年8月9日に炸裂した長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。水疱が治癒した後には、その痂皮が多数に付着していた。男児の頭部の頭皮は脱毛して、水疱が治癒した後に瘢痕が形成された。男児の入院時記録には、原爆病に関する傷病名は未記入であり、入院後の経過も不詳となった。

 原爆症が出現するまでの潜伏期間は、被爆者の爆心地からの被爆距離と相関する傾向があった。爆心地から約750m以内は、炸裂日から被爆症状が出現した。爆心地から約1kmの被爆では約4日後に原爆病が出現した。爆心地から約1kmから約1.5kmの被爆者は、約10日目から原爆病が出現した。被爆直後には全く外傷もなく異常を認めなかった被爆者は、その後に倦怠感、食欲不振、40°Cにおよぶ発熱などが出現した。同時に、多くの被爆者に頚部リンパ節の腫脹や疼痛、咽頭痛、嗄声が出現した。その後数日して、水様、粘液様および血性の下痢が出現し、血尿も出現した。脱毛は、初期は帽針頭大の広がりから、やがて点状出血も全身に広がり、同時に口腔内や歯肉からの出血や鼻出血が始まった。

 多くの被爆者の口の周囲には奇妙なヘルペス様の発疹が認められた。死期が近まるにつれてそれは壊疽様となり著明な悪臭を伴った。末期には血圧が低下した以外は、心機能に異常は認めなかった。多くの被爆者は終末期的な肺炎を引き起こした。多くの被爆者が胃痛を訴えたが、回虫を認めたが、嘔吐は認めなかった。末期には視力障害などの中枢神経障害が出現した。約30cmの所から指の数を認識が出来ない状態となった。中枢神経障害を呈さなかった被爆者は、著明な貧血や高熱が出現した末期にても、精神状態に異常を認めなかった。外傷の傷口が治癒傾向を示しても、やがて肉芽は壊疽状態に陥り腫脹した。注射部位は感染し、壊死を起こした。(大村海軍病院、塩月正雄、原子爆弾の人体に与える影響: The Effect of theExplosion of the Atomic Bomb on the Human Body.1945年9月10日に報告。)




2023年8月19日土曜日

44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。

長崎市内で44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。彼女の頭部、顔面にわたりY字形の挫創があった。その創面から汚穢、中等度の出血があった。彼女のカルテの記録には、殺菌消毒薬であるリバノールガーゼを貼用することにしたという記事があるのみであった。

 ドイツ製薬メーカーであるバイエル社が、局所消毒薬のアクリノールを製品化して、1921年にリバノールの商品名で販売を開始した。アクリノールは、黄色の色素で、連鎖球菌、黄色ブドウ球菌等の化膿菌である一部の一般細菌類に対する殺菌消毒作用を示した。粘膜の消毒や化膿局所の消毒に使われた。感染に対する防御機能をもつ白血球、マクロファージがアクリノールで障害を受けるため2018年以降は販売が中止された。

 大村海軍病院は長崎県大村市にあり、長崎市から東北方向、大村湾を挟んで直線に約19kmほどの距離に位置した。大村海軍病院は本来は軍人のための病院であった。火傷の患者が多いのに薬にも不足した。クレゾール液を薄めてガーゼに浸し、リバノールガーゼの代わりに皮膚に張って交換の処置に留まった。大村海軍病院には長崎原子爆弾の投下されて、約9時間後から続々と被爆者が担ぎ込まれた。初日8月9日だけでも重症者が多く758人が搬送された。8月10日明け方までに収容者の100人以上が死亡した。8月10日にさらに300人を収容して、最終的な収容人数は、1,700人にも達した。

 大村海軍病院に、8月9日午後3時頃に警察から長崎市に死傷者が多数発生し、長崎市内炎上中との電話連絡が入った。陣内軍医中尉を隊長とし衛生兵、日赤看護婦を以て編成せる救護隊を派遣した。午後5時頃に大村市長山口尚章から電話があり、長崎の死傷者は無数であり、鉄道沿線の病院に収容された。負傷者は浦上から別仕立の汽車にて大村駅へ輸送し、大村駅から消防自動車を総動員して病院までの負傷者の運搬を行った。午後8時に長崎から負傷者が到着した。重症の被爆者を折り重ねて、詰め込んだ軍用輸送車とトラックが大村海軍病院に到着した。




2023年8月12日土曜日

アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。

アメリカ軍による原子爆弾の影響調査は、日本側の調査とほぼ並行して、アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。日本側が設置した原爆被害調査特別委員会と同様に複数の専門家グループが派遣され、各分野で詳細な調査が行われた。アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。

 最初に長崎にアメリカ軍のマンハッタン工兵地区特別調査団(the Special Manhattan Engineer District Investigation Group)が到着した。トーマス・ファレル准将を団長とし、医療チーム、技術チームを含む約30人の科学者から構成された。1945年9月中旬から10月上旬にかけて長崎で情報収集を行った。第1班の主な任務は、原子爆弾の影響に関する予備調査を行った。長崎を占領しているアメリカ軍の安全のために残留放射能のレベルを測定した。

 次にアメリカ軍から長崎を訪れた調査団は、「ナブタック・ジャップ・チーム(Navtac Jap Team)」と呼ばれる海軍医療技術調査グループの一団であった。大村海軍病院を拠点とするこのチームは、9月下旬から11月下旬までの3カ月間、長崎原子爆弾の調査に従事した。軍医のスタッフォード・L・ウォーレン大佐が率いる調査チームは、原子爆弾の生理学的影響の調査を行った。調査チームに属する1つのグループは、長崎でもっぱら放射能測定に従事した。別の陸軍医療班は9月30日に長崎入りし、原子爆弾の医学的影響について調査した。アシュリー・オーガソン大佐は、陸軍医療班の計画責任者であった。イギリス軍も、1945年11月、原爆調査団を派遣した。広島、長崎の原爆の影響を調査し、1946年に報告書を発表した。

 日本側の原子爆弾の影響調査は、1945年9月14日に日本の文部省が設置して、10月24日に初会合した日本学術会議の原爆被害調査特別委員会(Special Committee for Investigation of Atomic Bomb Damages)の調査が実施された。実際の作業は9月末から10月にかけて各分野で開始され、1948年3月までの3年間続けられた。しかし、本質的な研究のほとんどは1946年3月までに完了したようである。原爆の爆心地や輻射熱、残留放射線のレベルなどの調査もこの期間に終了した。影響調査の研究成果は、1951年8月に日本学術振興会から「総括報告書」として、1953年5月には日本学術会議から「原爆傷害調査報告書」全2巻(1,642ページ)として刊行された。進駐軍GHQは、原子爆弾の調査研究、成果の公表に、1945年12月11日に原爆災害調査特別研究委員会に通告して、さまざまな検閲と制限を加えた。




2023年8月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。左奥の建物は相撲場であり、右は屋内体操場兼講堂である。

 新興善国民学校は、長崎原子爆弾の爆風によって窓ガラスは割れた。新興善国民学校の校舎自体は残存した。被爆した負傷者の救護所として使用された。新興善国民学校は、類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固だったために、長崎原子爆弾の炸裂した直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。爆心地付近では救護所が害滅して、多くの被爆者が新興善国民学校に殺到した8月9日に被爆日直後の患者数は不明である。治療した被爆患者数は、8月17日~8月31日の約15日間だけでも、入院と外来の患者数は約8,000人を超えた。9月1日時点の入院患者数は、約260人に及んだ。

 1945年8月9日に投下されて炸裂した長崎原子爆弾による火災を免れた新興善国民学校は新興善国民学校救護所となった。8月11日には針尾海兵団より救護隊が到着した。その後、佐世保海軍病院武雄分院の医療隊も到着した。県庁方面からの火災によって、救護活動は一時中断した。壊滅状態にあった長崎医科大学附属医院にかわり、親興善国民学校が長崎市内で最大の救護所となった。8月16日には新興善特設救護病院となった。さらに10月6日には長崎医科大学附属医院となって、引き続き長崎原子爆弾の被爆者の治療が行われた。

















Japan No Atomic Bomb (JNAB) 
日本原爆禁止の会
2023年8月5日に
Blogger投稿数は500回に達した。

2023年7月29日土曜日

1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点とした。11月7日に宇品の広島鉄道局仮家屋で、被爆者の検診が実施された。

広島原子爆弾が投下された広島市内で、日米合同調査団の医師により被爆者の検診が実施された。1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に、来日して広島市を訪問した合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点として合同調査を始めた。1945年11月7日に、宇品の広島鉄道局仮家屋(the temporary home of the Hiroshima Railroad Bureau in Ujina)で、被爆者の検診が実施された。

  1945年9月22日に東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部の長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請した。その結果、「日米合同調査団(the Japan-US Joint Commission)」(アメリカ側は「合同委員会(the Joint Commission)」と呼称)が結成された。日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選出された。東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力した。

 日本とアメリカの調査団なる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10人、日本側37人)は10月12日に広島に入った。広島第一陸軍病院宇品分院(the Ujina Branch of the Hiroshima First Army Hospital)を本拠として合同調査を始めた。合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行なった。アメリカ側の第一次調査は、1946年9月に終り、収集した資料はアメリカに持ち帰った。

 この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946年11月「日本における原爆の医学的効果」として、日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告した。






2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。




2023年7月16日日曜日

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。本格的な発掘作業の結果、約600体分の遺骨と62点の遺品も見つかった。似島は戦時中に、海外からの兵士や軍馬の検疫所があった。原爆投下後により収容所となッタ。原爆で傷ついた被爆者約1万人近く運び込まれた。身元不明の死亡した被爆者は、一カ所に集めて千人塚に埋葬された。1955年に約2,000体の遺骨は、広島平和公園の戦災供養塔に移された。広島にまだどの程度の遺骨が潜在しているかは想定できず、現在も多くの遺族が身内の遺骨を探し求めた。

 日清戦争開戦前の1894年9月15日に大本営が東京から広島に移った。明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,広島は臨時首都となった。全国から日本軍兵士が広島に集結して、宇品港から出兵して帰還した。似島が宇品港と対峙して近距離で、似島陸軍検疫所(第一検疫所)が1895年に創設された。1904年に,日露戦争が勃発すると,検疫数は日清戦争時の5倍に及び、第2検疫所(消毒所)が増設された。1日の処理能力は約8千人の死体の大規模検疫所になった。

 1944年夏頃から、海上挺進戦隊などの特攻訓練基地が設置された。ベニヤ板の小型舟艇を用いて教育訓練した。ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(マルハセ)の海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部が使用された。秘密部隊である陸軍船舶練習部の第十教育隊が似島で教育訓練した。

 1945年8月6日の原子爆弾の投下直後から、日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷被爆者を手当する似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容しした。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8kmであった。8月6日は午前10時頃から広島市中で被爆した被爆者が船で似島に続々と運ばれた。常時に被爆者が運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等が、必死の収容,治療,看護業務を昼夜を問わず執行した。似島町の島民も、献身的な救護活動をした。収容者された被爆者数は約1万人余と推定された。証言や発掘された遺骨数から,搬送された被爆者のうち,約7割が死亡したと推計された。

 被爆者が死亡して、火葬が8月10日頃から開始された。死者の急増により,火葬する手間もなくなった。身元不明のまま多くの死体を、隣接する陸軍馬匹検疫所の構内の各所に土葬した。戦後にたびたびに,被爆者の遺骨が収容された。1945年9月に検疫所職員等が、馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)を建立した。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体は,平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。




2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年7月1日土曜日

広島原爆の爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。その側には、身内の家族がその側でお見舞いしていた。

 大芝国民学校は、広島原子爆弾に被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。大芝国民学校内では被爆者は出たが、被爆による即死者は特記なかった。被爆した直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあった。広島県知事は、8月7日に13箇所の救護所を告知した。その内に中山地区に大芝国民学校が含まれた。大芝国民学校は、8月7日から数百人の被爆者を救護した。

 大芝国民学校は、1926年4月1日に大芝尋常小学校が設置された。1929年に広島市大芝尋常小学校と改称した。1941年に広島市大芝国民学校と改称された。1945年8月6日に大芝国民学校は広島原子爆弾に被爆した。1947年に広島市立大芝小学校と改称された。

 広島原子爆弾の炸裂によって、直接に被爆した人数は、広島市衛生局が集計した。1995年の報告書『原爆被爆者動態調査事業報告書』では、主として爆心地から約2km以内の被爆者は約243,463人であった。そのうち1945年末までに死亡した人数は、約83,177人である。約2.0kmから約3.0kmの被爆者約67,538人にも、避難した人が多数いた。約20万人以上の人々が避難したと推測された。その避難した後に多数の被爆者が死亡した。その際、傷害を受けた被爆者(原子爆弾爆発時に広島市にて、外傷、火傷、放射線の傷害を受けた人を被災者と記す)は、自力あるいは他力で、その多くが何処かの救護所に避難したと推察された。




2023年6月24日土曜日

広島原子爆弾の爆心地より約400mの本川町(旧左官町)より十日市町方面を望む街の焼け跡の中央には、1945年秋に広島電鉄の路面電車の残骸が遺残した。

 広島原子爆弾の爆心地より約400mの本川町(旧左官町)より十日市町方面を望む景色である。街の焼け跡の中央には、1945年に広島電鉄の路面電車の残骸が遺残した。爆心地から約500m以内は、路面電車の胴体下部の台車のみが残存した。全焼した被爆電車は、道路脇へ寄よせられた。車体は完全に焼け落ち、車底部分のみが残った。支柱の倒壊によって架線が甚大な被害を受けた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日に, 広島市内には推定約116台の広島電鉄の路面電車が走行していた。被害のうち全焼22両,半焼3両,大中小破83両に及んだ。ほとんどが出勤時の乗客で満員だった。広島原子爆弾の炸裂の際の閃光と爆風で全滅して壊滅した。わずかに広島市郊外を走行した約8台の路面電車だけが破損を免れた。原子爆弾の炸裂で被爆した電車を被爆電車と呼称した。被爆3日後の8月9日には己斐から天満町間で、9月7日には八丁堀まで路面電車が復旧した。

  広島原子爆弾の爆心地近くは胴体の下部がわずかに残る程度であった。爆心地から約700mほど離れると窓枠が残存した。爆心地から約900m離れると、路面電車の屋根も残っていた。いずれの場合も、路面電子の内部は丸焼けとなり、一様に軌道から大きく吹きとばされて脱線した。路面電車を遠くから眺めると、車内にずらりと乗客が並んでいた。変ったところで休憩していると思って近づいてみると、 それらはすべて焼死体であった。座席に腰かけた被爆者は、そのままの姿で焼死した。吊革にぶら下がった被爆者は、吊革をにぎった格好のままで焼死して、路面電車の床の上に、折重って焼け死んでいた。社内は死臭の悪臭で酸鼻の極となった。