2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

 1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。


 


2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

 広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。

 広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。

 被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。

 広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。