劣化ウラン弾が1991年の湾岸戦争で米軍の実戦で初めてイラク軍に使用された。ウラン濃縮の残渣として放射能を含んだウランは、比重が高く兵器を貫通する能力が高い。命中時にはウランは微細な粉末で拡散して付近の住民までも放射能被爆して人体被害が起こった。アマル・ダウート(3歳)は、2002年12月にバグダットの小児教育病院で白血病の末期で放置されて死去した。
長崎原子爆弾の爆心地点と想定した日本学術研究会がアスベスト製の旧中心柱を建立した。その標識には爆心だけでなくCentreも表記された。米軍の調査団は、1945年9月29日に全壊し全滅して焼け野原となった爆心地の旧中心の周囲の被爆状況を調査した。長崎原爆は旧中心柱から近隣の松山町の上空約570mで炸裂した。1968年に第2代目の新中心柱に建て賛えらた。
米国のビキニ環礁にて954年3月1日午前6時45分に水素爆弾のキャッスル作戦のブラボー実験により、ロングラップ地域も被爆した。その村長のジョン・アンジャインさんと息子のシゴシさんは被爆し放射能の死の灰を浴びた。米国はレゴシさんの死因を、「水爆の放射能による影響」と唯一公式に認めた。それと同時に、第五福竜丸もビギに環礁から北東約160kmで被爆していた。
広島原子爆弾が炸裂した約2ケ月後の1945年10月に、日本側の理化学研究所の研究員が被爆実態の科学的調査をした。原子爆弾災害調査研究特別委員会として、爆心地の付近の現在の平和公園地域内における残留した放射能を測定した。被爆実態を科学的データや写真だけでなく映画として記録した。
米軍は1954年にビギニ環礁にてキャッスル作戦として水爆実験をした(最初の水爆実験は1952年のエニウェトク環礁のアイビー作戦)。その第1回目のブラボー実験で、日本からの第五福龍丸の乗員が被爆した。近隣のロンゲラップ環礁の市民をクワァジェリン米軍基地に強制的に移送して、水爆に対する放射能の被爆状況と健康診断を極秘にした。
広島原子爆弾による広島市が壊滅した被爆実態を、広島市の北部上空から爆心地付近を米軍が撮影した(写真上は爆心西部、写真下は爆心東部)。中央の相良橋は東部の元安川と西部の本川の分岐点を渡る。南方にかけた三角州地帯は全滅して、現在の広島平和公園となっている。相良橋の南方付近には、現在の原爆ドームが残存していた。
ソ連のスターリン書記長が1949年8月29年にRDS-1の原子爆弾の核実験に成功する。アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、1950年1月31日に水素爆弾の開発計画を承認した。エニウェトク環礁のエルグラブ島にてマイク作戦により、1951年11月1日午前7時45分に世界初の水素爆弾の実験に成功した。爆発威力はTNT火薬で10.4メガトンに相当し、エルグラブ島は完全に消滅した。アメリカ原子力委員会は11月6日には実験継続を表明した。
原子爆弾を開発するマンハッタン計画は、米陸軍のレズリー・グローブス准将とロバート・オッペンハイマー研究所長により、理論的な核分裂の作動を実証する核実験が必要となった。ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠上にて、人類初の核爆弾実験が1945年7月16日に成功した。長崎原子爆弾型のプラトニウムを爆縮して炸裂させた。「トリニティ」を、ジョン・ダンの"Batter my heart, three personed God."(三位一体なる神様、こなごなになるまで)に由来するコードネームに使用した。
長崎原子爆弾の爆心地の近隣であったカトリック教会の浦上天主堂は倒壊し廃墟となり、天主堂にいた信者の全員は爆死した。浦上キリスタン信徒によって約30年をかけてレンガを積み立てて1914年3月17日に建立できた。被爆後には信者がレンガの破片の後片付けをした。復興する資金を貸与には米国は負の遺跡の撤去を求められた。浦上天主堂の廃墟の一部を1958年7月11日に長崎市平和公園内に移設した。
長崎原子爆弾の爆心地から北東へ約500mにあった浦上天主堂が爆風と熱射で崩壊した。カトリック教会で高さ26mの東洋一のロマネスク式の教会であった。聖堂、司祭館などは赤レンガの堂壁の一部を残してほとんどが大破した。1959年に教会は原型に復元されて負の遺産は消滅して、遺壁の一部のみが爆心地に移設された。
世界ではじめて原子力爆弾が1945年8月6日に広島市に投下され炸裂した。広島市は一瞬にしてすべてが破壊された。1944年に小説「アダノの鐘」でピューリッアー小説文門でも賞を取っていたジョンハーシーは、ニューヨーカー誌から従軍記者として派遣され、原爆投下から9カ月後の広島市内に訪れた。日本からは記事が世に出せない。生々しい写真や映像、報告は、米占領軍に阻止された。しかし、彼は原爆投下後の広島市内を自らの足で歩き、生き残った6人らの真実の声や経験談だけを集めて記録して、1946年8月31日にニューヨーカー誌から約3万語の被爆実話が初めてに公表された。
広島原子爆弾の爆心地の直近(北西約160m)であった広島産業奨励会館(写真下)は、爆風と熱射によりほとんどが倒壊して、コンクリートと鉄筋の骨格のみが残存した。その頂上の円蓋鉄骨の形から、広島原爆ドーム(写真上)として広島原子爆弾と核兵器の歴史的な負の象徴として修復と保存した。広島原爆ドームは1996年12月にはユネスコの世界遺産として登録された。
長崎原子爆弾の爆心地から西に約500mの城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼した。鉄筋コンクリート3階建の内部は完全に破壊されたが、その骨格は一時的に被爆直後は留めてその後の風雨で一部が倒壊した。
長崎原子爆弾の爆心地より東南東に約600mの地点にあった長崎医科大学は壊滅した。右下の長崎医科大学附属病院は完全に破壊されて、被爆者の救護は全く不可能であった。多くの入院・外来患者・職員らが犠牲者となった。世界初の左上部の大学の教室は、破損した鉄筋コンクリートを一部は残存して、その他は全焼して倒壊した。
広島原子爆弾の炸裂後の実態を、広島商工会議所から展望した(写真上は北方面)、写真下は北東方面)。北方面では、手前が崩壊した旧護国神社、奥には輜重補充隊と歩兵補充隊が残骸となった。北東方面では陸軍第一病院が壊滅して救護不可となった。爆心地は、広島商工会議所の北方の旧護国神社の前の電車通りの南方約125mの島病院の上空であった。
広島商工会議所の屋上から、広島市内の南西部を見た(上南、下西部)。相良橋から北東端の太田川本流端に広島商工会議所があった。通称が本川は、太田川が形成する広島デルタの6河川のうちの1つで中央部を流れる太田川の支流である。本川橋の落ち川向こうの土橋付近から観音寺の一帯はほとんどが焼け野原となり消失した。
長崎原子爆弾が長崎市内で1945年8月9日に炸裂した。長崎の市街地はほとんど全焼し壊滅した。米国の進駐した陸軍のカメラマンが、その荒野に呆然として一本杖で立ち止まる一人の老人を捉えた。
長崎原子爆弾の炸裂した翌日1945年8月10日午後2時に、浦上刑務所の丘より南南東方の爆心地である被災実態を展望した。爆心地の松山町70番地まで北西100mの地点で薄い白の地点であった。コンクリート様の路は、松山町の交差点から登る石段であった。爆心地の松山町70番地から上空500 ±10m で炸裂した。
広島原子爆弾は1945年8月6日午前8時15分に爆心地で炸裂して南方に約1kmの至近距離の水主町(現・加古町)は、一瞬のうちに倒壊と炎上して壊滅した。広島県庁(800余名)、広島市長公舎、広島県立病院などが壊滅したために広島市内の都市行政機能が麻痺した。石碑が散乱して原爆ドームが左上に展望された。広島県庁は同日17時に比治山の多聞院に避難した。
広島原子爆弾による被災状況を、爆心地より北西部からの航空写真(上: 北東面、下南西面)で撮影した。コンクリートのビル以外は焼滅して全滅した(原爆ドームは写真上の中央上に残存した)。わずかに残存している白い路は旧町並みを通過していた。
広島原子爆弾が直下に炸裂した爆心地の付近の惨状である。爆心直下の広島郵便局の本局は、一部のレンガ造りの一部のみが残存した(写真上)。広島産業奨励会館が崩壊するも原爆ドームとして残存した(写真下)。その付近の西蓮寺には一部の墓石も残存した。
長崎原子爆弾の爆心地から南東約700mの長崎医科大学附属病院から爆心地付近の全壊と全滅した被爆地を展望した。手前は山里町(現・平野町)の高台であり、左遠方は城山国民学校が展望された。アメリカ軍略爆撃調査団は1945年10月にカラー写真で撮影した。
長崎原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月10日の爆心地付近の被爆実態であった。爆心地の一帯である松山町の一帯から展望すると(写真上)南西に長崎電鉄の焼け跡ならびに南方には長崎製鉄所の煙突があった。学生救護勇隊らが担架で被爆者等を運搬していた。爆心地から南500mから南方を展望すると(写真下)三菱球場のスタンドは鉄骨が曲がり倒壊した。
核兵器禁止条約は、核兵器の開発や保有、使用などを禁止する初めての国際条約である。国連本部交渉会議は2017年7月7日に採決した。NATOでオランダが反対し、122の国の圧倒的多数の賛成で条約は採択された。条約は9月から署名され50か国の批准から90日後に発効する。一方で、アメリカやロシアなどの核兵器の保有国や、核の傘の日本などは条約に参加しない。
広島原子爆弾により広島市内は一瞬で焼け野原となり、ほとんどが倒壊して全焼した。広島市内の爆心地から約1.5Kmの山口町(現・銀山町)のビル屋上から南方を展望した写真(上は南西、下は南東)であった。目をさえぎるものもなく、広島湾から南方約5kmの多数の被爆者の救護所であった似島が遠望できた。
広島原子爆弾の爆心地付近の上空から被爆地の一帯を米軍はカラー撮影をした。爆心地と予定された相良橋から南側(写真上)と北側(写真下、1973年6月復興付)の広島市内の被爆実態であった。相良橋から東南端の元安川沿いに原爆ドーム、相良橋から北東端の太田川本流端に広島商工会議所、相良橋から太田川支流側の南西端の本川国民学校の建築物は残存した。
長崎原子爆弾の爆心地付近を米軍が被爆後51日目の1945年9月29日に調査した。長崎原爆が8月9日に炸裂して多くの被爆者は水を求めて浦上川の河川敷に飛び込んだ。米軍はその息絶えた遺体の多くの白骨を棒で探索した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、翌日8月10日午前11時頃に長崎市内の爆心地付近から南西110mの浜口町から南方に完全に消滅した岩川町を展望した。上空はうす暗く煙が立ち上り、黒焦げの焼死体が散乱していた。被災者を乗せた担架を長崎駅に向かった。
長崎原子爆弾が1945年8月9日に爆心地に炸裂して周囲の近隣は完全に全滅して廃墟となる。10月頃において長崎市内では炸裂した爆心地の周囲は焦土化したままであった。手前の下の川から長崎市内の東方面にて北部(上)と南部(下)である。
広島原爆が炸裂した1945年8月6日の午後から被災を免れた宇品の陸軍船舶司令部の若年兵士の暁部隊が真っ先に広島市内の救護隊活動を始動した。8月8日に中央左よりの黒ずんだ2階建のNHKの建物に、暁部隊の約100名が集合した。NHK放送の復旧を最優先され、酷暑のビル内と被爆物の障害を克服して懸命な復旧をした。しかし、多くの若年兵である暁部隊は、放射能被爆の影響で厳しい原爆症の犠牲者となった。