2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

 長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。



2022年8月20日土曜日

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から白黒撮影された写真を、AI技術と文化の推測でカラー化して再塗装された。

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から撮影された。広島県呉市吉浦町(現・若葉町)から、炸裂後の約40分後の午前9時頃のきのこ雲を、白黒写真で撮影された。吹き上がる巨大なきのこ雲が、生々しくオレンジ色に染めて、広島市の爆心地付近では熱線で約4000度近くにも達した。

 白黒のきのこ雲を、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは、AI技術でカラー化した。AI技術で約10%は自動化でカラーされる。ピンクも黄色も薄緑も、淡いグレーとなる。その他は、被爆体験者の記憶や歴史考証から補正された。白黒写真が色彩を帯びることで、原子爆弾を転写して、戦争の歴史が現代に地続きになり、実感される。(出典: 週刊ポスト・第54巻第26号、2022年8月5日)。アニメ映画『この世界の片隅に』の片渕須直監督の指摘から、赤みがかった雲をオレンジ色に、地上から立ち上った白い雲が覆い隠した。コンピューターソフトで解析した色彩を、年代や当時の文化等を精査して再構築する仕組みである。本当の色彩は不明であり、完全な再現は困難で、解析した仕組みが決めた色彩に変換された。色彩の復元ではなく、白黒からカラー色を推測して再塗装した。

 


 広島県海田町から呉海軍工廠火工品部設計係に勤務していた31歳の尾木正己は、炸裂時は室内で兵器の設計の仕事中で、鉛筆を持つ手が持ち上がるほどの轟音が聞こえた。仕事を中断して、ドイツ製ライカできのこ雲を撮影した(広島原爆戦災史、第三巻、第二編、第二章、原子雲)。日本軍が作成した記録によると、原子雲の中で何かが燃えているように見え、強い火花と閃光が煙雲の中で大規模な火災のように見えた。吉浦の近くに、8月6日午後5時頃になって被爆者が続々と避難してきた。吉浦駅では、衣服の引き裂けた血のにじんだ服装で、血の気が失せた人々が呆然とホームを徘徊していた。8月7日朝に出勤して、広島市に海軍工廠として火工兵器の経験者として救援隊を出した。トラック3台に工員が分乗して、広島市に向う一員に参加して8月7日に被爆直後の広島市内を撮影した。


2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。




2022年8月6日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約800m北方の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や草木の根は生存して、原子爆弾が炸裂して1945年10月末に生物不毛の地に、カンナは新しい生命の芽を出して再び新しい花を咲かせた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約800m北方にある日本軍の歩兵第一補充隊(旧二部隊)の焼跡には、強烈な熱閃光を浴びた。炸裂した直後は、爆心地から約800m北方の被爆地の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や地中の草木の根は生存していた。被爆しして、約2ケ月過ぎの1945年10月末頃に、灼熱の夏から涼しい秋を迎えた頃に、カンナから再び新しい生命の芽を出して、美しい花を咲かせた。カンナの手前において、日本軍兵士が所持していたと思われるアルミニューム製の食器が、広島原子爆弾の強烈な熱閃光で、重なったまま溶解していた。1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して、被爆後は長期間にわたり広島市内は生物不毛の地と示唆された焦土の中で、被爆者たちは、美しいカンナの花を見詰めて、戦後に生き残れる希望を抱いた。(昭和20年10月末、松本栄一撮影)

【広島市、広島原爆戦災誌、第一巻、序、1971年8月6日刊行 : 被爆関係の写真は、その歴史的記録を尊重し、それぞれ撮影者、撮影年月日、撮影場所を明記するようにつとめた。ただし、一部には不明のものもある。】

  広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆者体験の証言や各種の調査士利用など、つぶさに集大成して、『広島原爆戦災史』を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を祈念する永遠の献花とする次第である。

広島市長 山田 節男  昭和四十六年八月六日