2019年3月31日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に悲しみ、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。



2019年3月23日土曜日

似島検疫所に救護された被爆者は、広範囲に火傷面が化膿して膿瘍を形成した。(広島)

広島原子爆弾より、広範囲に重度の火傷を顔面から両方の上肢に被爆して、似島検疫所に救護された。その後に放射能被爆による免疫機能の低下も伴って、広範囲にわたり火傷面が化膿して膿瘍を形成した。
 原子爆弾の火傷は、光線や熱線による高熱により、屋外にて爆撃に暴露した。特に裸体になるほど高度の火傷を受けて。火傷の特徴は爆心方向面のみ被爆した。原子爆弾の炸裂によりできる火の玉の温度は、中心部では100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mにもなった。放出された非常に強い熱線によって、爆心地では地表の温度が3,000~4,000℃にも達した(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃)。