2019年12月27日金曜日

長崎原子爆弾で崩壊した長崎市内で、残存したその場しのぎの家で、1945年9月14日に被爆者の母と子供の家族が暮らした。(長崎)

1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した長崎原子爆弾で崩壊した長崎市内で、残存したその場しのぎの家で、被爆者の家族が暮らした。家族は、長崎原子爆弾による破壊が引き起こされる前の家があった場所に戻った。1945年9月14日に瓦の真ん中に、家族は粗野な掘っ立て小屋の粗野な小屋を作った。 母と息子はいつもの粗末なご飯を食べた。原子爆弾による被害により、爆風と火災によるすさまじい破壊が、瞬間的に生じた。即ち、広範囲の建物が破壊されると同時に、火災が発生した。長崎原爆における建物の全壊全焼の範囲は、爆心地から2km以上離れた地点にまで及んだ。
 長崎原爆の被害は、爆心地から約800メートルまでのほとんどすべてが完全に破壊された。長崎県の報告によると、「人間と動物は爆発地から約1km以内はほぼ瞬時に死んだ」。約2.4km以内のほとんどすべての家屋が破壊され、紙などの乾燥した可燃物が即座に爆破され、爆心地から約3km離れたところまで到達した。長崎市の約52,000戸の住宅のうち、約14,000戸が破壊され、約5,400戸がさらに深刻な被害を受けた。無傷で残存した家はわずか12%であった。暴風雨がなかったにもかかわらず、市内全体で多数の二次火災が発生した。消火活動は給水管の破損により妨げられ、約6週間後も長崎市は水不足に苦しんだ。9月中旬になっても、死と腐敗の匂いが場所に広がっていた。長崎原爆の被害は不詳である。推定値は、最初に約40,000人が原爆死し、約60,000人が被爆した。1946年1月までに、死者数は約7万人にも及び、最終的には5年以内に死者数は約14万人と2倍に達した。



2019年12月14日土曜日

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。(広島)

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



2019年12月7日土曜日

広島市内の草津救護病院にて病理医が1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。(広島)

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。