2017年8月31日木曜日

長崎原子爆弾により被爆者は生地獄となった。

長崎の原子爆弾の強烈な炸裂で苦しみ悶える被爆者の市民は生地獄となる。爆心地から南に約1kmの長崎市岩川町付近で、1945年8月10日お昼に連絡員からの水も飲みきれなくなった。

2017年8月29日火曜日

広島原子爆弾の強力な放射能による未知の原爆症で母子が苦しんだ。

広島原子爆弾の強力な放射能で苦しむ母子が未知の次第に進行する白血病にて市民は死の道を進む。


2017年8月28日月曜日

長崎原子爆弾の被爆により幼児に原爆症死が迫りつつあった。

長崎原子爆弾による被爆で幼児は顔面火傷を処置されるも泣く気力もなく原爆症死が迫りつつあった。

2017年8月27日日曜日

広島原子爆弾で全身の皮膚が焼きただれ皮膚が黒化し壊死している最も重度の火傷を被爆して絶命した。

広島原子爆弾は、放射性物質のウラニウム235の核分裂により炸裂した。全身の皮膚が焼きただれ皮膚が黒化し壊死している最も重度の火傷を被爆した。広島宇品港より約3kmのの似島の検疫所に搬送された。1945年8月6日午前8時15分から48時間は生存したが、結局は絶命した。



2017年8月26日土曜日

長崎原子爆弾による熱線で重度の火傷を被爆し、背部がやがて広範囲に化膿し始めた。

長崎原子爆弾で重度な被爆者は、爆心地から約1.4km離れた照圓寺付近から救援列車により救護された。そこから爆心地から約17kmも離れた大村海軍病院に鉄道で搬送された。背部に熱線により重度の火傷を被爆した。背部の火傷がやがて広範囲に化膿し始めた。



2017年8月25日金曜日

広島原子爆弾で被爆した子供たちは、広島日赤病院で何らの手当も受けられずに次々に死亡した。

広島原子爆弾による被爆者は、爆心地から南方約1.6kmの広島市千田町1丁目のヒロシマ日赤病院に次々と搬入された。しかし、8月11日になっても被爆した子供たちは、何らの手当らしいケアも受けられずに次々に死亡した。



2017年8月24日木曜日

長崎医科大学では爆死した多大な医療職員と学生等の死体が散在して腐敗してミイラ化した。

長崎原子爆弾の爆心地から東南約700mにあった長崎医科大学は倒壊して全滅した。その中で多大な医療職員と学生等が被爆死した。鉄筋コンクリートは残存するも、多くの内部は全壊しして全焼した。救護されなかった死体が散在して、腐敗してミイラ化した。


2017年8月23日水曜日

広島原爆で全壊した第二陸軍病院を太田川岸のテントで代用して近隣から避難した兵士らを救護した。

広島原子爆弾の爆心地から北約1.2kmの広島第二陸軍病院は、全焼し倒壊した。広島原爆が炸裂した1945年8月6日の午後に太田川岸にテントで代用して、避難した兵士らを救護した。周辺から近隣の重度の被爆者となった兵士を収容した。収容者は次々に死亡して次々に被爆者が取り替えられた。

 



2017年8月21日月曜日

長崎原子爆弾により爆心地から北方の約2kmで16歳の男子が全身3分の1以上の熱傷を被爆した。

長崎原子爆弾により爆心地から北方の約2kmで16歳の男子が被爆した。住吉町東北郷の路上を自転車で走行中に重度の熱傷を受けた。背部と左腹部に全身の3分1以上の火傷を負った。大村海軍病院に搬送されて治療をうけて生命は維持されたが1946年1月になっても火傷は治癒しなかった。



2017年8月19日土曜日

広島日赤病院に約10,000名以上もの被爆者が殺到し医薬品が尽き、次々と搬入される被爆者で埋め尽くされた。

広島赤十字病院は爆心地から南方に約1.5㎞の距離にあった。鉄筋コンクリートで、火災による全焼は免れた。医療職554名中に51名死亡し250名が負傷した。医師はわずか5名、看護師10名のみ医療行為ができた。8月10日には約10,000名以上もの被爆者が殺到し医薬品が尽きた。次々と搬入される被爆者で広島日赤病院は埋め尽くされた。


2017年8月17日木曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約300m付近で、防空壕から抜け出そうと焼死した黒焦げの白骨が突き出ていた。

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日に、爆心地から南約300mの長崎市浜口町付近でもんぺ姿の瀧智江子さんが放心状態でもの悲しく立ちすくんでいた。彼女の足元には、防空壕から抜け出そうと焼死した黒焦げの白骨が突き出ていた。


2017年8月16日水曜日

広島日赤病院に重度の被爆症の母親と男児が搬入され、苦痛と灼熱の脱水でうめく気力さえも失った。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に広島市の中心部で炸裂した。広島赤十字病院は爆心地から1.5㎞の距離にあった広島赤十字病院では、収容患者250人と病院関係者51人らが被爆死した。全焼と全壊をまぬがれた病院には被爆者が搬入されて、医薬品はすぐ底をついた。8月10日から12日まで重度の被爆症の母親と男児が搬入された。猛烈な苦痛と暑さによる脱水でうめく気力も失った。


2017年8月15日火曜日

長崎原子爆弾に被爆した父親が泣く体力も気力もない乳児を介抱して医療機関を探した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内の爆心地で炸裂した。その翌日に爆心地から南約1.5kmは離れた長崎市井樋ノ町付近で、父親が被爆して泣く体力も気力もない乳児を介抱していた。親子とも傷つき、父親は我が子のために長崎市内の医療機関を探し求めていた。


2017年8月14日月曜日

広島原子爆弾による被爆者は似島に搬送され「原子爆弾熱傷(重症)死亡」した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂して被爆した重傷者は、広島湾の近海にある似島の陸軍検疫所に搬送された。似島で8月7日に全身が焼きただれて熱傷した重症の被爆者が似島で撮影された。撮影された重傷の被爆者の写真には、「原子爆弾熱傷(重症)死亡」と記録された。


2017年8月10日木曜日

長崎原子爆弾の爆風と熱射により路面電車は脱線して完全に圧壊して即死した乗車員の死体が散乱した。

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日における爆心地から南西約200mにて路面電車が被爆した。路面電車は、原子爆弾の爆風と熱射により脱線して完全に圧壊した。その崩壊した車内の乗車員はほんど全員が即死した。衣服は黒焦げになり、はみ出た身体が重度の壊死性の火傷で黒化した死体で散乱した。

2017年8月9日水曜日

長崎原子爆弾の熱線や爆風から放射能により爆死した死体が腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。

長崎原子爆弾が炸裂した被爆実態を、長崎市原爆史料保存委員会は1949年に爆死者は約73,900名、傷病行方不明者は約76,800名と推定した。爆心地から東に約600mの長崎医科大学は壊滅的に崩壊した。その玄関の付近で約1ケ月間は経過しても重度に被爆した死体が放置された。熱線や爆風から放射能により爆死してから腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。


(長崎原子爆弾から2017年8月9日午前11時2分で72周年、死没者名簿数 175,743名)

2017年8月8日火曜日

長崎原子爆弾が炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。爆心地より約17km離れた大村海軍病院に8月10日に搬入された(写真上)。重傷な壊死したやケドであるも十分な手当もできずに、8月12日には急速に重篤となりベッド上で点滴するも死亡した(写真下)。




2017年8月7日月曜日

国民学校の学生が広島原子爆弾で全身に重傷の火傷と放射能を浴びて苦悶して死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂によって、国民学校の学生が全身に重傷の火傷と放射能を浴びた。特に着衣していなかった頭部から顔面さらに四肢にかけて拘縮して黒化して壊死に陥った。救護所に搬入されるも、十分な手当もできずに、苦悶しながら数日で衰弱して死亡した。

2017年8月6日日曜日

広島原子爆弾により女子学生は顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入され数日で死亡した。

広島原子爆弾が72年前の1945年8月6日の午前8時15分に炸裂した。学徒勤労動員であった女子学生は、顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入された。8月10日まで放置されて治療も受けられずにゴザに寝たきりとなった。「水! 水!」と叫びながら、傍らの水も飲めず、やがて衰弱して数日で死亡した。


(広島原子爆弾から2017年8月6日午前8時15分で72周年、死没者名簿数 308,025名)

2017年8月5日土曜日

広島原子爆弾で西練兵場付近は2名の兵士が一部に火傷あるも内蔵の脱出もない爆圧による即死と記録された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に大爆発により炸裂して、広島市内は一瞬に壊滅して全滅した。凄まじい爆風、熱射、放射能でほとんどの広島市内の約140,000人の住民らは死亡した。爆心地から約500mにて中国軍管区司令部がある広島城の南側の西練兵場付近で、兵士は眼球が飛び出して、強烈な爆圧で急激な気圧の変化による即死と記録された。2017年8月6日で72年目を迎える。


2017年8月4日金曜日

イギリスのデイリー・エクスプレス新聞が、1945年9月5日に広島原子爆弾を被災状況と写真から警告した。

イギリスのデイリー・エクスプレス新聞が1945年9月5日に広島原子爆弾の1月目の被災状況と写真を公表した。ウィルフレッド・バーチェット記者が、広島原子爆弾の脅威を世界に向けて警告した。アメリカ軍主体のGHQによる検閲が9月21日に発令する以前に、1945年9月3日から広島市を取材して "No More Hiroshima" と電報した。


2017年8月2日水曜日

広島原子爆弾が炸裂した爆心地付近の広島市街地では最も賑やかであった本通り筋の全壊を展望した。

広島原子爆弾が炸裂して、広島市内の旧市街地では最も賑やかであった本通り筋を展望した。繁華街も見る影もなく全滅して全壊していた。左右に横切る電車道との交差点には路面電車が残骸となった。爆心地から約250mの安田生命の全焼したビルより中央付近では、帝国銀行のビルが残骸となった。