2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。




2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。  




 


約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 








  






 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。


2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。





 






 両親は離婚して、ディマは母親はチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。





 







 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。