2023年2月25日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。




2023年2月11日土曜日

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。




2023年2月4日土曜日

広島原子爆弾による広島女子専門学校の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。

広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。