2022年11月26日土曜日

広島日赤病院の医師が、被爆者の耳介から血液を採取して、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主の若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。

広島原子爆弾による放射線被爆の影響で白血球の異常や減少が起こる症状が報道された。被爆者が血液検査を求めて広島日赤病院を受診した。医師が、被爆者の耳介から血液を採取した。医師が、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主になった若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。



 広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmの広島市中区千田町一丁目に建立された。被爆した翌月の1945年9月から建物の修復工事を開始した。爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられ窓まどガラスは砕け散ったままであった。1945年以降から、被曝した幼児を含む白血病などのがん患者が増加し始めた。原子爆弾の恐怖体験とケロイドは、被爆者の大きなストレスをかけた。



 戦傷病者とその救護にあたる人や施設を攻撃から守る目印として、赤十字マークが定められた。被爆後、広島赤十字の旗や看板は、焼け残った市内の病院、救護病院となった検疫所や国民学校にも掲かかげられた。被爆者は病院や救護所を受診して、原子爆弾が人体に及した被害の診察や治療を受けた。その記録の写真等は占領軍によって接収された。1973年5月に複写フィルムとなって日本に返還された。

 太平洋戦争が終結した1945年8月15日直後からの混乱の中で、アメリカ軍は原子爆弾の関連資料をアメリカ軍(AFIP)に接収して約28年間も極秘に保管した。1973年5月に日本に約2万点もの資料が返還された。主に写真、病理解剖、病理標本が返還された。写真は約1,877枚(カラー写真259枚含む)であり、きのこ雲、主要建造物、原爆閃光影、被爆者、救護所、市内の様子などである。病理標本は、パラフィン固定標本953点、ホルマリン標本681点、顕微鏡スライド標本1,769点が返還された。病理解剖の英語翻訳記録の約140事例の詳細が返還された。

2022年11月19日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児の兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて素足で徘徊した。

長崎原子爆弾の炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児と思われる兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて、1945年10月頃に素足で徘徊していた。原爆で両親を亡くした子どもを原爆孤児と呼称した。原爆により約7,000人の原爆孤児が発生したと推測された。

 アメリカ軍海兵隊第5師団所属のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル (Joe O’Donnell, 1922-2007)軍曹が、長崎原子爆弾に被災した長崎市内で、1945年10月頃に撮影した私的写真である。彼は、1945年9月から1946年3月まで、日本に駐留した。アメリカに帰国後に、全ての原爆ネガを自宅屋根裏部屋のトランクに閉じこめて、約43年間封印した。

 1990年頃に彼は軍曹として撮影した原子爆弾の軍機密写真の封印を解いた。その公開後に、原爆写真を検証するも、場所も個人も特定は困難となった。アメリカ国内から彼は非難されて追い込まれて、離婚に繫がった。1993年に福島県若松栄町の原爆写真展で坂井貴美子と出会い、1997年に再婚した。彼女と三男の息子のタイグ・オダネル(Tyge O’Donnell)らは、ジョーの遺志を継いで、原爆の出版や写真展などを展開している。

 ジョーが撮影した有名な「焼き場に立つ少年」も戦災孤児であった。「進駐軍が こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに、あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっととにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね。着替えもなんもなし。下は履くもんもなしですね。もうほんと。」と少年頃を回想した。




2022年11月12日土曜日

1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見され、氏名が判明者として左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。

広島藩主の浅野泉邸であった縮景園は、爆心地から北東約1.3kmの縮景園(広島市中区)は崩壊して灰塵に帰した。広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から避難した被爆者で満杯となった。しかし、次々に被爆者が縮景園で死亡した。被爆直後から、数多くの被爆者が縮景園似゜避難した。治療もほとんど受けれないままに死亡して死体が、縮景園内に集団舞うそうされた。死亡した被爆者の死体を園内の小高い丘の上に集団埋葬した。その埋葬した地点に墓標となる木板の標札を掲示した。1945年10月末時点の標札には、氏名が判明者として、左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。松の大木は、広島原子爆弾の爆風と熱戦によって、枝や葉が剥ぎ取られて、ハゲ木となった。

 縮景園は、江戸時代初期の1620年に広島藩主・浅野長晟が築庭され、戦前は泉邸と呼称された。太平洋戦争中に、縮景園は避難場所に指定され、原爆投下直後、おびただしい被爆者が押し寄せた。園内の森林は燃えだし、火災が迫って来た。猛烈な熱線で前の川に飛び込み水死した。縮景園の中で次々と被爆死して、死体は荼毘にもされず埋葬された。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見された。広島県教育委員会が1987年7月31日に写真を手がかりに、埋葬された原爆死没者の遺骨を発掘した。遺骨の発掘調査を行って、数千点の骨片を収集して、8月6日に原爆供養塔に納骨した。1988年3月19日、縮景園の遺骨が発掘された地点に慰霊碑が建立された。




2022年11月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、爆風と熱線で全焼して崩壊した。その外地には死んだ馬が県道に横たわった。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があった。長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、長崎原子爆弾の爆風と熱線で全焼して破壊され崩壊した。その隣の崩壊した第二工場の鉄骨が、あめのように波打っていた。地下の魚雷工場は比較的無傷で残った。製鉄所の外には死んだ馬が県道に横たわっていた。その背後に、長崎市電の線路が走っていた。

 爆心地に近い三菱製鋼株式会社長崎製鋼所では、従業員や養成工、動員学徒、教員など約1,400人が死亡した。鋼板や航空機の部品などを製造していた工場もほぼ壊滅状態となり、機能は全廃して、折れ曲がった鉄骨や機械設備等の残骸だけが残存した。

 長崎原子爆弾の炸裂に伴って生じた猛烈で強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。爆心地から約1kmで、最大風速は秒速約160mにも達した。特に熱傷を及ぼしたのは、爆発後の約0.3秒から約3秒までの間の赤外線であった。地上物質の表面温度は、長崎原子爆弾の直下では恐らく約3,000~約4,000度にも達したと推定された。