2022年9月24日土曜日

広島原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、爆心地から約1500離れた広島日赤病院で残存した本館に殺到して、外来受診した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後から、原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、広島日赤病院に殺到した。その日赤病院に受信した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 爆心地から約1500m離れた広島赤十字病院の瓦礫の中に、死者と瀕死の人々が散乱した。ほとんどの医療施設が破壊された中で、広島日赤病院は約69名の職員が戦死して、爆発後の数日で数千人の死傷者を出した。猛烈な消火活動で本館は助かったが、中庭の木造建築は失われた。当初は食料も水もほとんど手に入らず、圧倒された職員は何日も眠れず、自分の傷を無視する職員もいた。重傷者は、廊下や玄関、外の畳の上に寝かされ、そのまま瓦礫の中に放り込まれた。1945年10月に、国策医療が終結し、無料診療が終了するまで残っていた患者もいた。原爆病が続く中で、広島県民は医療の充実を訴えた。年、被爆者援護施設を開設した。1993年に取り壊された本館は、1995年に原爆の被害を受けた部分が慰霊碑として奉納された。チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため、広島赤十字病院の医師が1990年代に旧ソ連に派遣された。

 1945年9月に日本赤十字社は、後に赤十字国際委員会(ICRC)の支援を受けて、広島と長崎の原爆患者、死亡者、負傷者、障害者などを救済するために、最初の組織の一つとなった。広島の日本赤十字病院はほぼ壊滅状態だったが、石垣は残っており、何千人もの人々が救護と安全を求めて殺到して集まった。病院職員の約85%が負傷して、約10%近くが死亡した(約554人中約51人)。生き残った赤十字職員は、できる限りの治療を施した。しかし実際には、保管装置が破損して、ほとんどの薬品が爆風で汚染されたために、病院はもはや十分な機能を果たせなかった。献血者も死亡または失踪しており、輸血できる可能性は少なかった。初日に避難してきた1,000人の患者のうち、約600人が急速に直後に死亡した。

 1945年9月8日に赤十字国際委員会の新しい日本代表団長となったマルセル・ジュノー(Marcel Junod)博士が来日した。広島原子爆弾の惨状を知っていた彼は、直ちに日本政府の厚生省と交渉して、9月8日に、アメリカ軍から提供された約15トンの医薬品や医療器具を携えて、自ら広島市に入った。ジュノー博士は約4日間にわたり広島市に滞在して、救援活動に従事した。1956年9月に、広島赤十字病院の構内に、「日本赤十字社広島原爆病院」(現・広島赤十字病院・原爆病院)を設立した。診療科:内科・外科・放射線科、病床数:120床にて、原爆被爆の後遺症に苦しむ被爆者への提供する専門的医療サービスを開設した。





2022年9月18日日曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。



 

2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。




2022年9月3日土曜日

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。ここの墓地は、広島市中心部から約9km離れた似島にある臨時の墓であった。広島市中心部から約9キロ離れた似島には、1945年8月日の広島原子爆弾の投下から炸裂後に、約3週間で約1万人の原爆被爆傷害者が収容された。暁部隊を統括する日本陸軍船舶司令部は、似島の第二検疫所を臨時野戦病院として使用することを決定した

 似島は、日清戦争を契機に広島市の行政、軍事、医療支援の拠点となった。1894年の赤痢・コレラ流行時に、病原菌も持ち込みを防ぐ陸軍の検疫所として設置されて、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでも重要な検疫所の役割を担った。1945年8月6日に、似島は重傷の原子爆弾の被爆者のための臨時野戦病院となった。

 広島の宇品港からフェリーで爆心地より午前10時頃から似島に運ばれた約1万人の被爆者のうち、助かって生存したのは約3割と言われた。多くの被爆者を治療護するために、多大な労力と犠牲が必要だった。原子爆弾の被爆者の死者は日に日に増えて、死体は火葬に付されるなど、危機は深刻化した。被爆してからわずか約4日で、似島での火葬の処理は困難となった。唯一の選択肢は、身元不明の数千の死体を似島に集団埋葬することだった。3つの墓標下の埋葬の意味が、次第に遺骨の重みを帯びた。荒涼とした空間の中にある塚の側に、文字を刻んだ3本の石柱が寄り添って立った。

 1945年9月に、陸軍馬防疫所の敷地内に千人塚と呼称する供養塔が建てられ、検疫所職員が発掘した被爆者の遺骨を納めた。その後、1955年7月に約2,000人の遺骨が似島から広島平和記念公園内にある広島市戦没者慰霊塔に納められた。

 似島は平和資料館として、広島原子爆弾で死亡した被爆者たちの慰霊碑が残存している。似島平和祈念資料館には、先祖や島の歴史を守る住民たちが約20年以上かけて収集した約130点の資料が展示された。似島は、遺骨の回収を目的とした発掘プロジェクトも進行した。1947年から1971年に約4,000人の遺骨が発掘された。2004年には約90体の遺骨が発掘され、さらに数年で多くの遺骨が発掘された。似島での遺骨の発掘と確認には、経年劣化や放射線被曝により、遺骨はもろくなって、細心の注意と時間をかけて修復した。