2018年4月30日月曜日

広島原子爆弾の放射能による原爆症で、青年兵士は舌から滲み出る出血や腸からの下血により、次第に全身状態が衰弱した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後にも、陸軍船舶練習部の暁部隊の青年兵士は、直後から引き続いて居残り、被爆地の残骸の整理の作業を継続していた。8月10日から体調が悪化して重篤となって、自ら船舶練習部の収容所に入所した。8月12日には放射能による原爆症により、舌から滲み出る出血や腸からの出血による下血が止血できずに、次第に全身状態が衰弱していた。重篤な急性期の原爆症により、広島原子爆弾が炸裂してから約2週間後の8月20日に死亡した。



2018年4月22日日曜日

青年医学生は、長崎原爆の放射能を大量に浴びて、髪の毛が抜け、ぐったりと横たわる少女の耳から血液検査のために採血した。(長崎)

長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂による重度の被爆者が、爆心地から南約3kmの新興善特設救護病院に護送された。被爆者から1945年12月末までに急性期(2週間まで)、亜急性期(2月間まで)、維持期(3月以後)の急性障害が発症した。

   長崎原子爆弾が1945年8月9日11時2分に、アメリカ軍の爆撃機B-29「グレート・アーティスト」から投下されて炸裂から、間もなく長崎市の新興善国民学校の特設救護所に、被爆した少女は救護された。九州帝国大学の医学生だった青年は9月上旬に、少女は放射能を大量に浴びて、髪の毛が抜け、ぐったりと横たわる少女の耳から血液検査のために採血した。血液中の白血球の減少を検査した。朝日新聞西部本社のカメラマンだった故・富重安雄氏が撮影した。青年だった浜清さんは、できる限りの事をするも、次々と亡くなる被爆者を前に無力を感じた。全身が焼けただれ、身体にガラス片が刺さった被爆者などが次々と運び込まれた。長崎原爆の投下から3日後の1945年8月12日頃は、爆心地に近い山里国民学校の救護所で、青年は傷口を消毒したり強心剤を打ったりするだけで一杯だった。被爆者らは次々に息絶えで被爆死して、広場に積み重ねられる死体は高く積み重ねた。

 急性期の即死は崩壊下での圧死や焼死と全身熱傷による。大量放射線の被爆者は全身の脱力感、吐気、嘔吐等の症状が現れ、数日間に発熱、下痢、吐血等による全身衰弱で10日前後までに死亡した。造血組織や腸の上皮細胞の病理的障害が認められた。

 亜急性症状は、吐き気、嘔吐、下痢、脱力感、各種出血、白血球減少、赤血球減少等であった。骨髄、リンパ節、脾臓などの組織が破壊され、顆粒球や血小板が減少し、感染の抵抗力の低下と出血症状が現れた。この時期の死因の多くは重度感染症と敗血症であった。 床に横たわる被爆者から9月24日 の回診で耳たぶから血液を採取して検査するしかなかった。

 放射線被爆の急性障害症状は、脱毛、出血、口腔咽頭部病変及び白血球減少であった。発生率は被爆線量の増大と、50rad(0.5Gy)で5〜10%から、300rad(3Gy)で50〜80%と強相関的に増加した。脱毛は被爆後8〜10週に起こった。

 放射線障害の維持期なら、被爆の3〜4か月後から始まり、内臓諸器官の機能回復、脱毛から発毛、各種血球の増殖、正常化が起こり始めた。