2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月24日土曜日

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で顔面の広範囲の火傷と傷痕から発生したケロイドの加療を受けた。

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で加療を受けた。彼女は原子爆弾による熱線により、顔面を広範囲に火傷した。原子爆弾による火傷の痕から顔面に多大のケロイドが発生した。顔面のケロイドは、まばたき、話し方、嚥下などを困難にした。火傷の傷跡は、被爆者の皮膚が、原子爆弾の炸裂の最初の閃光の熱線に直接にさらされた部位に形成された。

 ケロイドは、火傷の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、ギリシャ語でケロイドはカニを意味して、不規則なケロイドの隆起を生じた。被爆後に約4ケ月頃までに発症して、約6ケ月から約1年2ケ月後にケロイドが最も顕著に隆起した。約2年後には部分的に改善され、隆起も縮小していた。原子爆弾の爆心地から約2km前後で熱線にさらされた被爆者には約50から60%に発症した。原子爆弾の熱線で大火傷を受傷して、特に女性の顔面にケロイドが残存すると心的外傷後ストレイ障害(PTSD)などの社会的後遺症に苦悩した。

 深い第2度または第3度の重症と思われる閃光熱傷の治癒後に、重度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕の形成が比較的高い頻度で発生した。ケロイドの病因は、皮膚病変の治癒にて発症する生物学的および生化学的過程における修復過程に起因する。被爆者によっては、火傷の治癒時に過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向がある。瘢痕ケロイドは、治癒過程で生成される線維性結合組織に影響される。瘢痕ケロイドや肥厚性瘢痕の原因となる過剰なコラーゲン産生は、病変が真皮の網状層の深部にまで及んでいた。深部まで及んだ火傷や、感染や追加の外傷による壊死によりケロイドが合併した。




2021年7月17日土曜日

広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。

 原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。
(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。
 その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。
 それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。
(2)長期疾病の原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。
  原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。



 


2021年7月10日土曜日

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。

  薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。

  有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。



2021年7月3日土曜日

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。

  医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。