2017年2月28日火曜日

広島原爆は高濃縮ウラン235が衝突し核分裂連鎖反応で超破壊的エネルギーが暴発した

   原子爆弾を太平洋戦争の終結前までに完成させるマンハッタン計画に20億ドルを投じ1942年9月より具体化した。広島原爆の原材料であるウラン235を高濃縮するのには電磁分離法に5億ドルと気体拡散法に5億ドルを必要とした。1945年3月から気体拡散法からウラン235が低濃縮された。電磁分離法でそのウラン235を高濃縮された50kgを1945年8月直前までに間に合わせて供給できた。
   それらに比較して広島原爆のウラン型原子爆弾の爆破装置は容易に設計できた。ウラン235を砲弾状部分とリング状部分に分離した。それを爆破する時に、砲弾状の部分を火薬爆弾でリング部分に衝突して合体させる。その衝撃で中性子が発生してウラン235の核分裂の連鎖反応で超破壊的エネルギーが暴発した。




2017年2月27日月曜日

世界初の長崎原爆型のプルトニウム型原爆の爆破実験

 世界初の原子爆弾は、1945年7月16日午前5時29分にニューメキシコ州のアラモードで爆破実験が行われた。この実験は、同州のロスアラモス研究所で秘密裏に開発と予備準備がされた。トタン板で囲まれた小屋には爆破実験用の5トンもの球体に36kgプルトニウムが挿入された原子爆弾が極秘に設置されていた。プルトニウムは純度を高めるのは困難な原子であるため、ワシントン州ハンフォードで巨大なサイクロトロン施設で純化された。通常爆発で純粋なプルトニウムの表面に等しく圧縮する爆縮のために球体に設計された。プルトニウム型のファット・マンが長崎市に投下されて炸裂した。






2017年2月26日日曜日

人類史上で初めてとなる広島原爆の開発主導者と実施主導者

人類史上で初めての原子爆弾の実質的な開発主導者と実施主導者である。右側の人物が開発者であるジュリアス・ロバート・オッペンハイマーである。左側の人物が実施者のレスリー・リチャード・グローブス小将である。1939年8月2日付のシラードとアインスタインがナチスドイツの原爆危機をルーズベルト大統領に通告した事がマッタッタン計画に至る原爆開発の発端となった。1942年9月からグローブスが実施責任者に就任して22億ドルの予算であるマンハッタン計画を極秘に陸軍内で原爆を実施した。1943年3月にオッペンハイマーはロスアラモス国立研究所長に就任して原爆の開発を主導した。1945年7月16日にオッペンハイマーはトリニティ原爆実験を成功させ、7月23日にグローブスが広島等に原爆投下を指令した。













2017年2月23日木曜日

大村海軍病院に長崎原爆のきのこ雲の接近と救護隊の派遣

長崎市から約20kmも離れている大村海軍病院は、大村海軍航空隊のために1942年10月から開設された。大村飛行場は壊滅的な空襲を受けて1945年5月14日に閉鎖となった。大村海軍病院から8月9日に撮影された長崎原爆からのきのこ雲であった。きのこ雲は、拡大しながら移動して、きのこ雲の真中に紅蓮の焔が燃えて接近して来た。きのこ雲は光と音を伴いながら、港町であった長崎市を全滅させた。それと同時に3つの落下傘も目撃された。大村海軍病院からきのこ雲までの距離は4572mであった。午後3時になってから電話連絡で救護隊を派遣し始める。


2017年2月22日水曜日

B-29爆撃による日本全土空襲と広島長崎原爆の死者数が同等で約50万人弱に達する

 フランクリン・ルーズベルト大統領の1939年1月14日の年頭教書から軍用機が増強された。1940年5月16日に桁外れに年間5万機を求めた。1943年6月に完成した長距離の戦略爆撃機は、半径3219kmと高度9144mmもあるB-29を30億ドルで開発した。1942年9月からは原子爆弾の開発であるマンハッタン計画に20億ドルを費やした。すでに日本は1941年12月の真珠湾から1942年8月にはソロモン諸島で全滅し敗走し続けていた。B-29は人や建物も燃え尽くす焼夷弾を開発して空爆して日本全土を焦土化した。B-29は1944年6月16日の八幡空襲から日本全土の都市部等を無差別に集中的に空爆した。多く市民に警報を発令するも防空壕に逃げ遅れた。その死者(行方不明は除く)は本土(沖縄を除く)の空襲で約22万5千人、広島原爆で約15万人、長崎原爆で約7万4千人で総計で約44万9千人と推定された(出典で格差)。広島原爆と長崎爆弾の2発だけで日本全土の空襲死者に相当した。




2017年2月21日火曜日

米軍の長崎原爆とソ連の満州の侵入が1945年8月9日に同期する

 大本営は1945年8月9日にソ連越境攻撃、満州東、西部より侵入、日満自衛のため交戦、北満州、北朝鮮の要地を爆撃を発表し、日本の朝日新聞は8月10日に一面初に掲載する。8月8日にモロトフ通告でソ連は対日宣戦を布告し、8月9日にソ連は満州里、虎頭へ越境したと報道した。
 西部軍管区司令部から1945年8月9日に発表された長崎原爆を日本の朝日新聞は8月10日の一面次に掲載した。長崎市に新型爆弾、大型二機侵入、被害僅少と報道する。8月9日午前11時に大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。一機でも退避して、皮膚の露出は大禁物である。壕には必ず掩蓋しシャツでは水腫を通告した。
 ローマ法王機関紙は8月6日の広島への新型爆弾を、非人道的な破壊手段であると8月7日にリスボンで非難した。


2017年2月20日月曜日

大本営は原子爆弾を特殊爆弾と、正義は挫けず見よ敵の残虐と発表する

 大本営は1945年8月7日15時にB29が新型爆弾を8月6日に広島市に使用した事を発表した。1. 8月6日広島市は敵B29の少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 2. 敵は攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり、と大本営は原子爆弾を新型爆弾と発表した。
 日本の読売報知新聞は、新型爆弾が落下傘で中空爆発、家屋倒壊と火災。正義は挫けず、見よ敵の残虐。6日8時過ぎB29少数機が広島市上空に侵入し少数の爆弾を投下した。このため相当数の家屋が倒壊すると共に市街地に火災が生じた。敵が使用したこの新型爆弾は落下傘がついて居り落下する途中で破裂したもののやうである。新型爆弾の威力について当局は早急に調査を進めているから近く判明する筈であるが軽視は禁物である。
 「欧米国は日頃キリスト教を信奉する人道主義を呼称しながらこの非人道的残虐を併せてせることにより"人道の敵"と烙印を押されたもので彼の仮面は完全に剥げ落ち日本は正義において既に勝ったというべきである」と社説した。


2017年2月19日日曜日

人類史上で初めての原子爆弾を搭載し投下したエノラ・ゲイ爆撃機

人類史上で初めて原子爆弾(リトル・ボーイ)を搭載し広島市に投下したB-29の爆撃機である。ティベッ(Paul Warfield Tibbets, Jr.)機長が、自分の母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)からエノラ・ゲイ(ENOLA GAY)と機体前方の搭乗口に記載した。原子爆弾を秘守するため、垂直尾翼の機体番号をマル「R」、認識番号を「86」に変更した。1995年にエノラ・ゲイと原爆被害の歴史をスミソニアン博物館に展示する計画が、退役軍人の猛反対で頓挫して、別館で機体のみ監視して展示している。



2017年2月18日土曜日

第二目標地の小倉市から第三目標地の長崎市に当日の原爆投下が変更となる。

長崎原子爆弾となるファット・マンを搭載したB-29のボックス・カーは、第一目標地の広島原爆後から、第二目標地として小倉市を定めていた。1945年6月18日の下記の航空写真から爆心地を小倉市の造兵廠とした。造兵廠では武器や弾薬等の製造・設計・修理を貯蔵する軍事施設であった。1945年8月9日にテニアン島から離陸して、午前9時44分に小倉市の上空に到達した。しかし、8月8日に南7kmの八幡市への空襲のため、小倉市は霧や煙に覆われて目視投下が困難となった。次第に残余燃料が枯渇しため、10時30分に第三目標地である長崎市に急遽に変更した。一時的に目視投下が可能となり、ファット・マンを投下して11時2分に炸裂した。長崎市の予定爆心地の商業地域よりも、約3Kmも北西部の浦上地区に落下し炸裂した。



2017年2月17日金曜日

長崎原爆の機長の生還に広島原爆の機長が笑顔で出迎え

"Box Car"と呼称するB-29爆撃機が、"Fat Man"と呼称するプラトニウム型原子爆弾を長崎市に投下して1945年8月9日午前11時2分に炸裂した。"Box Car"を操縦していた機長のチャールズ・スウーィニー(Charles W. Sweenney)は、同日の夕方にテニアン島に帰還する。エノラ・ゲイ(Enola Gay)を操縦して"Little Boy"と呼称するウラニウム型原子爆弾を落下させたティベッツ(Paul Warfield Tibbets,Jr)から祝福の出迎えを受ける。左のスウィーニーと右のティベットが握手している。その後には両者ともに勲章を受賞して昇進して英雄の扱いをうけて、両者ともに生涯にわたり戦争終結のための原子爆弾の投下を正当化した。



2017年2月16日木曜日

広島原爆が炸裂して20分経過しても巨大化するキノコ雲

広島市に投下された原子爆弾は1945年8月15日8時15分に炸裂した。その原爆の爆心地からキノコ雲が発生して広島市を覆い尽くす。キノコ雲はの爆発後から20分経過した時にも巨大化している。そのキノコ雲を広島市の近郊である海田市町の地上から撮影した。広島市内から東南東に約10kmの海田市町から捉えた。ほとんどは海からの開拓地であり小高い3つの山に囲まれた海田市町は、広島と呉の軍事拠点に挟まれた交流点であった。



2017年2月14日火曜日

長崎原爆となるファット・マンの後尾と先端に開発者と兵士の落書き

   長崎原爆となる「ファット・マン」の製造の過程で、その尾翼に多数の開発者の名前等と落書きの記載が1945年6月26日に撮影された。
"Jone Kroes, Dwine Wisoonsin From N.Y. H Wein,  H.P. Lemay Phom 1/c USN LT.(n) Tomlison USN LT(n) Jecy J.E. Millward PHOM 3/c USN, A Schmidt lot of Part. Heres to you!  Art Josephs Chicago, D. Jtoco, Dr Salatin, Koester" などと記載されている(UCN: United State Navy, アメリカ海軍の略称)
さらに爆弾の先頭部にも自分らの名前とメーッセージを記載している。原爆を投下することを栄誉ある兵士の気取りをしている。この書き込みの写真は最高極秘情報として守秘された。




2017年2月12日日曜日

広島原爆のリトル・ボーイのスミソニアン展示の抗議と被災の削除

広島市に投下されたウラニウム型の原子爆弾であるリトル・ボーイのレプリカの複製である。原子爆弾の資料から原型の細部にわたる型と色彩を再現したレプリカである。写真中央には、起爆安全装置である橙色の安全プラグが装填されている。リトル・ボーイのレプリカは、ダレス空港脇にあるスミソニアン航空宇宙博物館に展示している。博物館の別館には、リトル・ボーイを投下したエノラ・ゲイのB-29爆撃機も展示された。1995年にアメリカ軍の退役軍人団体がエノラ・ゲイの展示に抗議され、その展示は頓挫した。2003年にアメリカ軍の広島原爆の正当性に疑義を起こす被災や歴史資料は削除されて別館で展示している。長崎原爆を投下したボックス・カーのB-29爆撃機は、オハイオ州のデイトン空軍博物館で長崎原爆のファット・マンとともに展示されている。



2017年2月11日土曜日

原子爆弾と原子力発電の主流となる長崎原爆のプルトニウム核分裂

 崎原爆が投下されて194589日午前112分にプルトニウム型の原子爆が炸裂した直後の写真である。核分裂は、プルトニウム(Pu)の原子核が崩した不安定核が分裂してよりい元素を生する程である。原子爆の周の爆が破裂して、プルトニウムが一されて、一に放出された中性子を吸してが一に核分裂の連鎖が起こる。その核分裂の威力は、TNTとして22000トンに相当した。大気圏内で核分裂をり返し、生した殺傷能力は、熱線35%、爆50%15%が放射能であると推定された。核分裂は一部であり、残存して放射能を生するプルトニウム5トンは崎市内に散布された。早い爆い爆の到点を一致させ、中心部を力にする爆波を生起する32面体の球状のファットマン型がマンハッタン画でされた。世界の原子力発電は,核分裂を起こし生成が最も確実なプルトニウムを利用したプルサマルを着に推している。








2017年2月9日木曜日

世界初の大型爆弾であると広島原爆を通報する米国新聞

 ニューヨーク・タイムズは、第2次世界大戦中にクロスワード・パズルを掲載したアメリカ合衆国の絶大な影響力のある新聞である。政府による一定の介入を求めるリベラル派であり、連合国による戦後秩序の正当性を主張している。1945年8月6日の広島原爆について、1945年8月7日の朝刊で8月6日の広島原爆をトップ・ニュースで掲載している。
「世界初の原子爆弾を日本に投下した。そのミサイルは、TNT火薬が2000トンの威力がある。トルーマン大統領は、敵国の日本に対して、一つの弾薬の落下としてを警告した。」大統領からの通告の内容のみを掲載して、アメリカ軍からの情報統制により原子爆弾を単なる一つ大型の強力な爆弾であるとして通報している。その他のほとんどの紙面に太平洋戦争の好戦状況だけを報道している。









2017年2月7日火曜日

パプキン型の試験用の爆撃実験から長崎原爆の準備をする

ヴェンドーバー飛行場ではファットマン型の内発性の試験用爆弾が作成された。それは454kgのかぼちゃ様であるパンプキン型のTNT火薬の軽筒爆弾である。その模擬原子爆弾の実験のために7月26日に大阪市、26日に島田市、7月29日に保谷市などに無差別に投下して爆発させた。その後にテニアン島にて試験弾F13を使用したファット・マンを1945年8月1日に実験した。試験爆弾の機能と作動を確認した。さらに改修された試験弾F18が用意されて8月5日にB-29に搭載され投下実験をした。8月5日までに完全に8月9日の長崎原爆となるF31は完成段階に入り8月8日に最終実験がされた。







2017年2月6日月曜日

極秘にユタ州砂漠の空軍基地で広島原爆の投下準備と訓練

広島原爆を投下するまでにエノラ・ゲイに搭載するため試験用の模擬リトル・ボーイで予備的実装が行われた。1945年5月にアメリカ合衆国のユター州の西端の砂漠の中のウェンドーバー空軍基地で極秘実験とB-29を改装搭載が行われた。ウェンドーバー空軍基地から原子爆弾のリトル・ボーイを積んだエノラ・ゲイがテニアン島に向けて飛び立った。グローブス小将の指令で、1944年9月には新基地と新原爆部隊が機密に編制され、広島原爆を投下するエノラ・ゲイに搭乗するティベット大佐が任命された。テニアン島に到着の直後には1944年7月にはウェンドーバー空軍基地は消滅した。


2017年2月5日日曜日

長崎原爆が炸裂した瞬間の火玉のカラー映像

長崎原爆が長崎市内の爆心地より炸裂した瞬間の最初のカラー映像の一コマである。ファット・マンのプルトニウム原子爆弾が、破裂した直後の熱球の中心部は最高数百万度に達する。瞬時に直径約280m、表面温度約5000度の火の玉に膨隆して、長崎市内を強烈な熱風と放射能を吐き出す。長崎市内をほとんど全面的に覆うきのこ雲を形成する。



2017年2月3日金曜日

広島原爆で燃え上がる全壊と全焼の広島市内

広島原爆が1945年8月6日午前8時15分に炸裂してから約1時間後には広島市内の大部分が炎上した。広島原爆のきのこ雲が発生した直下の広島市内からは、広範囲な火事を伴う煙状雲に覆われた。広島原爆の激しい爆風と熱射線により、大部分の家屋が全壊と全焼して、多くの市民が全壊により圧迫された窒息あるいは周囲から火事を伴うことで逃げ遅れて焼死した。日本式家屋はほとんどが木造であり、鉄筋コンクリートのビル以外は全壊と全焼を伴った。



2017年2月2日木曜日

原爆のきのこ雲が最も早期に地上から撮影された長崎原爆

長崎原爆が炸裂した1945年8月9日の午前11時2分から約15分後の午前11時17分頃のきのこ雲である。爆心地から南南西の約10kmの離島である香焼島の川南造船所から撮影された。原子爆弾の中で地上から撮影されたきのこ雲では最も早期に撮影されている。長崎原爆を投下したボックス・カーは香焼島の上空に向けて退避している。離島であった香焼島は1960年代の埋め立てで長崎半島化している。



2017年2月1日水曜日

広島原爆の1時間後に広島市内を完全に覆うきのこ雲

広島原爆が広島市内に1945年8月6日午前8時15分に炸裂してから約1時間後にアメリカ軍の偵察機から撮影したきのこ雲である。爆心地から南東約80kmも離れたから撮影している。原爆の炸裂から30秒後から広島市内に向けて被災状況を観測するために回旋していた。約30000フィート(9.14km)も上空を飛行するも、きのこ雲はそれ以上も高く膨張して舞い上がる。紫色の炎の中から灰色の巨大雲が中心部は赤色の塊となってきのこ雲が暴発して来る。広島市内はほとんど完全に溶岩のような火砕流に飲み込まれる。南東端の呉市の休山から瀬戸内海の倉橋島から江田島までは霧がかるも、それより北東は完全にきのこ雲に覆われる。