2017年7月31日月曜日

劣化ウラン弾が湾岸戦争 から悪用されて微細な粉末が付近の住民までも放射能で白血病や奇形児となった。

劣化ウラン弾が1991年の湾岸戦争で米軍の実戦で初めてイラク軍に使用された。ウラン濃縮の残渣として放射能を含んだウランは、比重が高く兵器を貫通する能力が高い。命中時にはウランは微細な粉末で拡散して付近の住民までも放射能被爆して人体被害が起こった。アマル・ダウート(3歳)は、2002年12月にバグダットの小児教育病院で白血病の末期で放置されて死去した。



2017年7月30日日曜日

米軍の調査団は長崎原子爆弾の爆心地点の旧中心柱を中心に被爆状況を調査した。

長崎原子爆弾の爆心地点と想定した日本学術研究会がアスベスト製の旧中心柱を建立した。その標識には爆心だけでなくCentreも表記された。米軍の調査団は、1945929日に全壊し全滅して焼け野原となった爆心地の旧中心の周囲の被爆状況を調査した。長崎原爆は旧中心柱から近隣の松山町の上空約570mで炸裂した。1968年に第2代目の新中心柱に建て賛えらた。





2017年7月29日土曜日

米国はロングラップ地域の村長の息子のみを唯一の水素爆弾の放射能による影響と公式に認めた。


米国のビキニ環礁にて95431日午前645分に水素爆弾のキャッスル作戦のブラボー実験により、ロングラップ地域も被爆した。その村長のジョン・アンジャインさんと息子のシゴシさんは被爆し放射能の死の灰を浴びた。米国はレゴシさんの死因を、「水爆の放射能による影響」と唯一公式に認めた。それと同時に、第五福竜丸もビギに環礁から北東約160kmで被爆していた。


2017年7月28日金曜日

広島原子爆弾が炸裂後の1945年10月に、日本側の理化学研究所の研究員が被爆実態の科学的調査をした。

広島原子爆弾が炸裂した約2ケ月後の1945年10月に、日本側の理化学研究所の研究員が被爆実態の科学的調査をした。原子爆弾災害調査研究特別委員会として、爆心地の付近の現在の平和公園地域内における残留した放射能を測定した。被爆実態を科学的データや写真だけでなく映画として記録した。






2017年7月27日木曜日

ロンゲラップ環礁の市民をクワァジェリン米軍基地に強制移送して、水爆の被爆状況と健康診断を極秘にした。

米軍は1954年にビギニ環礁にてキャッスル作戦として水爆実験をした(最初の水爆実験は1952年のエニウェトク環礁のアイビー作戦)。その第1回目のブラボー実験で、日本からの第五福龍丸の乗員が被爆した。近隣のロンゲラップ環礁の市民をクワァジェリン米軍基地に強制的に移送して、水爆に対する放射能の被爆状況と健康診断を極秘にした。


2017年7月26日水曜日

広島原子爆弾で壊滅した被爆実態を、米軍は広島市の北部上空から爆心地の周囲から撮影した

広島原子爆弾による広島市が壊滅した被爆実態を、広島市の北部上空から爆心地付近を米軍が撮影した(写真上は爆心西部、写真下は爆心東部)。中央の相良橋は東部の元安川と西部の本川の分岐点を渡る。南方にかけた三角州地帯は全滅して、現在の広島平和公園となっている。相良橋の南方付近には、現在の原爆ドームが残存していた。





2017年7月24日月曜日

世界初の水素爆弾の実験がエニウェトク環礁のエルグラブ島にて、米国のマイク作戦で1951年11月1日午前7時45分に成功した。

 ソ連のスターリン書記長が1949年8月29年にRDS-1の原子爆弾の核実験に成功する。アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、1950年1月31日に水素爆弾の開発計画を承認した。エニウェトク環礁のエルグラブ島にてマイク作戦により、1951年11月1日午前7時45分に世界初の水素爆弾の実験に成功した。爆発威力はTNT火薬で10.4メガトンに相当し、エルグラブ島は完全に消滅した。アメリカ原子力委員会は11月6日には実験継続を表明した。


2017年7月23日日曜日

人類初の核爆弾実験が1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード砂漠上にて成功した。

原子爆弾を開発するマンハッタン計画は、米陸軍のレズリー・グローブス准将とロバート・オッペンハイマー研究所長により、理論的な核分裂の作動を実証する核実験が必要となった。ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠上にて、人類初の核爆弾実験が1945年7月16日に成功した。長崎原子爆弾型のプラトニウムを爆縮して炸裂させた。「トリニティ」を、ジョン・ダンの"Batter my heart, three personed God."(三位一体なる神様、こなごなになるまで)に由来するコードネームに使用した。



2017年7月22日土曜日

長崎原子爆弾で廃墟となった浦上天主堂を復興する資金の貸与の受けるためには、米国から負の遺跡の撤去を求められた。

長崎原子爆弾の爆心地の近隣であったカトリック教会の浦上天主堂は倒壊し廃墟となり、天主堂にいた信者の全員は爆死した。浦上キリスタン信徒によって約30年をかけてレンガを積み立てて1914年3月17日に建立できた。被爆後には信者がレンガの破片の後片付けをした。復興する資金を貸与には米国は負の遺跡の撤去を求められた。浦上天主堂の廃墟の一部を1958年7月11日に長崎市平和公園内に移設した。


2017年7月21日金曜日

長崎原子爆弾の爆心地から北東へ約500mの浦上天主堂は爆風と熱射で崩壊して、1956年には復元され負の遺産は消滅した。

長崎原子爆弾の爆心地から北東へ約500mにあった浦上天主堂が爆風と熱射で崩壊した。カトリック教会で高さ26mの東洋一のロマネスク式の教会であった。聖堂、司祭館などは赤レンガの堂壁の一部を残してほとんどが大破した。1959年に教会は原型に復元されて負の遺産は消滅して、遺壁の一部のみが爆心地に移設された。


2017年7月20日木曜日

ジョン・ハーシーは1946年8月31日にニューヨーカー誌から広島原子爆弾の被爆実話が初めて公表された。

世界ではじめて原子力爆弾が1945年8月6日に広島市に投下され炸裂した。広島市は一瞬にしてすべてが破壊された。1944年に小説「アダノの鐘」でピューリッアー小説文門でも賞を取っていたジョンハーシーは、ニューヨーカー誌から従軍記者として派遣され、原爆投下から9カ月後の広島市内に訪れた。日本からは記事が世に出せない。生々しい写真や映像、報告は、米占領軍に阻止された。しかし、彼は原爆投下後の広島市内を自らの足で歩き、生き残った6人らの真実の声や経験談だけを集めて記録して、1946年8月31日にニューヨーカー誌から約3万語の被爆実話が初めてに公表された。






2017年7月19日水曜日

広島原爆ドームは、広島原子爆弾と核兵器の歴史的な負の世界遺産として修復と保存及び登録された。

 広島原子爆弾の爆心地の直近(北西約160m)であった広島産業奨励会館(写真下)は、爆風と熱射によりほとんどが倒壊して、コンクリートと鉄筋の骨格のみが残存した。その頂上の円蓋鉄骨の形から、広島原爆ドーム(写真上)として広島原子爆弾と核兵器の歴史的な負の象徴として修復と保存した。広島原爆ドームは1996年12月にはユネスコの世界遺産として登録された。



2017年7月18日火曜日

長崎原子爆弾の爆心地から西に約500mの城山国民学校は激烈な爆風と熱線から放射線を被爆した。

長崎原子爆弾の爆心地から西に約500mの城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼した。鉄筋コンクリート3階建の内部は完全に破壊されたが、その骨格は一時的に被爆直後は留めてその後の風雨で一部が倒壊した。


2017年7月17日月曜日

長崎原子爆弾の爆心地より東南東に約600mの地点にあった長崎医科大学は壊滅した。

長崎原子爆弾の爆心地より東南東に約600mの地点にあった長崎医科大学は壊滅した。右下の長崎医科大学附属病院は完全に破壊されて、被爆者の救護は全く不可能であった。多くの入院・外来患者・職員らが犠牲者となった。世界初の左上部の大学の教室は、破損した鉄筋コンクリートを一部は残存して、その他は全焼して倒壊した。


2017年7月16日日曜日

広島原子爆弾の爆心地の近隣であった広島商工会議所から崩壊して壊滅した実態を北から北東まで展望した。

広島原子爆弾の炸裂後の実態を、広島商工会議所から展望した(写真上は北方面)、写真下は北東方面)。北方面では、手前が崩壊した旧護国神社、奥には輜重補充隊と歩兵補充隊が残骸となった。北東方面では陸軍第一病院が壊滅して救護不可となった。爆心地は、広島商工会議所の北方の旧護国神社の前の電車通りの南方約125mの島病院の上空であった。